3 ロベリア
ロベリア・・・花言葉は「悪意」「敵意」
翌日出勤すると、空は局長充てに連絡を入れた。
「本部からの依頼に、承認をいただきたい」と。
返事は直ぐに帰ってきた。
「承認する」
空は、直ぐに本部のアンジーに連絡を入れた。
「本部からの依頼、承認を貰ったので受けます。詳細の打ち合わせ、よろしくお願いします」
折り返しアンジーから電話が掛かってきた。長い時間を費やして話す。
「・・・解ったわ。明後日の午後3時、空港で待ってるわ」
最後は、アンジーの言葉で通話は終わった。
寝不足のせいだろうか、頭痛がする。
今日は朝から春と豪は警視庁に行っている。真も、捜査官の義務である健康診断の日なので留守だし、小夜子はまだ出勤していない。
誰もいないメインルームで、空は大きなため息をついた。
昨晩、空はPCの前に座り、ずっと考えていた。
BBの正体について。
拉致された時は目隠しをされていて見えなかったが、後になってからTV電話の記録を見せて貰った。
特徴の無い体つきだったが、着ていたスーツは金が掛かった高級品に見えた。椅子に座った態度や、部下に対する扱いなどを考えると、どこかの組織の幹部のように思える。
かなり忙しくてストレスを抱えているようなので、ボスではなく№2から2から№5までの地位にいるのではないだろうか。
3日間の監禁後、ドッグスパイクチェーンに繋がれてから後の事は、彼も聞かなかったので特に報告はしていない。けれど、空には気になることがあった。
BBが席を外した後、部下の男2人に暴行を加えられている時の事だ。最初の男が自分を抱いてフィニッシュを迎えたあと、覆いかぶさって身体を抱きしめ、耳元で囁いたのだ。
「アナ・マリア・・・」と。
それは、彼が母国に残してきた女性の名前だったのではないか、と思えた。
そして、そんな男の耳近くで、もう一人の男が怒鳴った言葉。
「おい、ペペ! いい加減、替われ!」
ペペというのは、ホセと言う名のニックネームだ。スペイン語だが、中米ではそれが公用語である。
最初の男が呟いた女性名、アナ・マリアも中米に多い名前なのだ。
近頃勢力を伸ばしているギャング、クラップスは中米と深い関係がある。
1つ1つが不確かな情報だが、重なってくると、もしかしたらと言う考えが浮かんでくる。
BBは、クラップスの幹部なのではないか、という。
だから以前から何度も来ていた本部からの依頼を、受ける気になったのだ。
依頼の内容を考えると、クラップスの詳細な動向が解るはずだから。
空を一定期間転属させて本部付にするというその依頼は、それまで何度も来ていたが、その都度博は却下していた。
けれど今は、彼の傍にはエリィがいるのだから。
空からの任務承認を求める連絡が届いた時、PC前の博の傍にはエリィがピッタリくっついていた。
一緒に画面を見て、その内容を理解すると、エリィが彼の耳元で囁く。
「私たちが一緒にいるのは運命よ。彼女が離れてゆくのも運命」
そして博が承認をすると、エリィは彼の傍からスッと離れる。
(・・・これでOK、最後の仕上げはどうしようかしら)
エリィの口元に、危険な笑みが浮かんでいた。
アンジーとの長電話が済むと、空はミーティングスペースの時計を見る。
(10時30分ですか・・・まだ昼食時間には早いですが)
ふと思い出せば、昨日は昼食も夕食も摂っていなかった。今朝も、水分くらいしか摂っていない。
(動けなくなる前に、カロリー補給はしておかないと・・・)
空は、面倒くさそうに立ち上がると食堂に向かった。変則的な時間だが、花さんなら対応してくれるだろう。何でもいいから、胃に詰め込んでおかなければと考えながら。
空が出てゆくと、入れ違いのように、無人になったメインルームにエリィが入ってきた。
最初に買ってもらった、白いブラウスと臙脂色のフレアスカートの彼女は、何をするともなく室内を見回す。そして窓際に近寄ると、ぼんやりと外の景色を眺めていた。
「おはよう・・・」
そこに、いつもよりかなり遅い出勤の小夜子が入ってくる。
(あ!・・・エリィ?)
小夜子が入ってきたのも気づかないようで、彼女は背を向けたままだ。
その後ろ姿が、何故だか妙に寂しげに見えて、小夜子はコーヒーメーカーの前に立つと、つい声を掛けてしまう。
「エリィ、コーヒーどう?」
「えっ!」
エリィは驚いて振り返った。
小夜子が入ってきたことに気づかなかったのもあるが、掛けられた言葉の方により驚く。
「飲むけど・・・いいの?」
眉を顰め、懐いていない猫のように警戒しつつ返事をする。
「まぁね、1人で飲むのも味気ない気がしただけよ。今朝は真も検査だからって飲まず食わずで出て行っちゃったし、私もこれが今朝最初のコーヒーなのよね」
小夜子はテーブルに2つのマグカップを置くと、どうぞと言って腰を下ろす。
「シンって、サヨコの旦那さんよね?」
エリィは、彼女の向かいに座り、マグカップに手を伸ばしながら問いかけた。
「・・・? そうだけど」
唐突な質問に、小夜子は慌てて口の中のコーヒーを飲み込み、真っすぐ彼女を見て答える。
「シンのどこが良かったの?シンはサヨコのどこが良くて結婚したのかな?」
コーヒーを飲み込んでおいて良かった、そうでなければ吹いていたことだろう。
「はぁ?・・・お互い長い付き合いの腐れ縁だったってことだけど・・・そうね、お互い素の自分をさらけ出していられるからかもね。アイツなんて、私を見てると面白いなんていうけど」
「ふぅん・・・素の自分かぁ」
そんなエリィの言葉に、小夜子はふと疑問をぶつける気になった。
「エリィの素の自分って、どっちなの? ここに来た時と今では、随分違うじゃないの」
「どっち?もっと沢山あるわよ。2つだけじゃないわ。でも、どれもみんなワタシよ。どんな服を着てても、どんな化粧をしててもね。でも、この服は今までで一番気にいってるかも。・・・沢山あるワタシを全部丸ごと好きになってくれる人なんているのかしらねぇ」
いつの間にか、エリィは饒舌になっていた。
「・・・博なら丸ごとオッケーなんじゃないの?懐の広い人間だと思うけど」
「うん・・・まぁね。・・・でも」
エリィはそこで言葉を切るが、再び質問を口にする。
「ねぇ、シンはサヨコのこと、何て呼ぶの?」
「え?・・・普通に、小夜子だけど」
ダーリンだのハニーだの、そんな甘い呼び方を使うほど若くもないし、根っからの日本人だ。
「あ、そっか。日本人は名前1つだもんね。便利でいいかも・・・名前が色々あると、呼んで欲しい名前を選ばないといけないのかな。ワタシはもう決まってるけど・・・そう呼ばれたいなぁ・・・」
エリィは遠い目をして、窓の外を眺めた。小夜子は何となく感じたことを口にしようとしたが、その前に彼女はカラになったカップを持って立ち上がる。
「ありがと、何かサヨコって不思議ね。つい、話しちゃった。でも、ここって凄く素敵な場所ね。メンバーが皆、とってもいい雰囲気で」
だから誰のいないこの部屋に来て、その空気を味わってみたかった。
後半の思いは口に出さず、エリィはそのまま部屋から出て行った。
「・・・まったく、カップくらい流しに持って行きなさいよ」
小夜子はブツブツ言いながら、2つのカップを持ってキッチンに立ちそれらを洗い始める。
(・・・ちょっと、彼女の認識が変わったかも)
と、思いながら。
しばらくして、空がメインルームに戻ってきた。胃の辺りを押えて、どことなく気分が悪そうだ。
(ちゃんと消化してくれると良いのですが・・・)
そして、小夜子を見つけると声を掛ける。
「おはようございます、小夜子」
「・・・おそよう、で良いわよ。重役出勤だし」
(おそよう?)
聞きなれない言葉だが、一応覚えておこうと思いながら、空は小夜子に告げる。
「私はこの後、夕方まで研究室で資料整理をします。何かあったら、そちらに連絡を下さい」
研究室のPCに入っている資料を、誰が見ても解りやすく利用しやすいようにしておこうと思っていた。明後日の午後以降、自分は不在になるのだから、と。
「ん、了解。あんまり根詰めないようにね。私は多分、今日は1日ここにいると思うから大丈夫よ」
小夜子の返事に、よろしくお願いしますと頭を下げ、空は部屋を出て行った。
そして夕方、事態は急変した。
捜査官の義務である定期健康診断から戻ってきた真と、研究室の整理を終えた空が、リビングスペースでそれぞれの仕事をしていると、いきなりドアが開きエリィが叫んだ。
「博が大変っ!死んじゃうかもっ!」
半泣きのその声に、椅子を倒しながら立ち上がった空は、そのまま目にも止まらぬ速さで部屋を飛び出す。真も出来る限りの速度で彼女の後を追った。
「おいっ! 大丈夫かっ!」
真が開け放ったドアから飛び込むと、空は既にソファーに腰かけてぐったりしている博の傍らにしゃがみこみその様子を確認していた。
ソファーの前のローテーブルには、小さなカラの薬瓶と注射器。
薬瓶の下にはご丁寧にメモ用紙が置いてある。
『BSD』
空はきつく唇を噛み締めて立ち上がると、真に告げた。
「今は、心音・呼吸ともに正常です。・・・ただ」
そして、テーブルから注射器と薬瓶を手に取って、容量を確認し素早く彼の体内に入った薬物の量を計算する。
(・・・12時間)
コトリとそれらをテーブルに戻すと、空は真の方を向いてきっぱりと言う。
「局長がこの状態なので、現在指揮権は私にあります。時間がありません。真、これから私が言う事を速やかに実行してください」
真剣な気迫に満ちた姿と、強い意志を宿した瞳が、そこにあった。
「直ぐに部屋を出てください。その後、私はここの出入り口を全てロックするようケトルに命じます。ロックされた瞬間から、指揮権は真に移ります。12時間後ロックが解除されたら、真1人で部屋に入ってください。他のメンバーが部屋の中を覗かないようにすること」
これから12時間、空は彼と二人きりで部屋に籠り、治療に専念するという。
「詳しいことを説明している時間はありません。研究室のPCに『BSD』の資料がありますから、それを見てください。必ず、彼を助けます。信じてください」
空は、早くと扉を指さす。真は返事もそこそこに部屋を飛び出した。
空は、浴室からバスローブ2枚を取ってくる来ると、宙に向かって声を上げる。
「ケトル、指揮権は私にあります。この部屋の全ての出入り口を12時間ロック。その間はこの指令を最優先にすること。この後、指揮権は真に移ります」
空は、この支局の全てを管理するメインコンピューターに指示を出す。了解の声と共に、微かな音が全てのドアや窓から聞こえた。
そして、彼女はソファーにぐったりと座る博の前にしゃがみ、その顔からサングラスを取ると静かに語りかける。
「12時間耐久レースです。サポートしますので、頑張ってください」
(・・・今だけ、名前を呼ぶことを、許してください)
「・・・博」
空はその指先をそっと彼の頬に触れ優しくその顔を見つめ、そして決意を籠めて立ち上がり時計を確認した。
「12時間後、明日の朝5時30分まで・・・」
そして、水のペットボトル数本と博がおつまみとして用意していたチーズや缶詰などを出し、おもむろに上着を脱ぐ。
彼の口から、呻き声が聞こえ始めた。
真は部屋を出てロックを確認すると、研究室に走りPCに飛びつく。
中の資料は全て、素人が見ても解るように整理されている。
真は『BSD』の資料を開いた。
BSD・・・Beastliness synthetic drng 獣性合成麻薬
(歴史)2000年台初頭、軍事目的で開発。
兵士の能力向上を目指して使用される。
その後、その効果と副作用が疑問視され、現在では使用されることはほぼ無い。
(形状および使用方法)常温で液体。皮下注射にて使用。
(使用後状況)体内に注入後、約20分前後で効果が表れる。
効果時間は体内に入った量に比例する。
(効果)獣性(ここでは、殺傷意欲とする)のみが表に出て、
本人の人格及び性質は全て無くなる。
真は息を呑んで、そこに続く多量の(例)を読み流す。軍事目的で使用されただけあって、その具体例の数はとんでもなく多かった。おおよそのまとめが、最後にあった。
目の前の相手(人間、動物に拘らず)に対して、攻撃を繰り返す。武器を所持していればそれを使用するだけの知性は残る。武器が無い場合は、身体の全ての部分を使用する。殴る・蹴る・咬みつくなどが主になる。血の臭いに興奮するが、相手の身体の一部分でも、飲み食いすることは無い。飲食は、通常人間が摂取するものと同じ。
効果時間内に獣性(殺傷欲)が最大になると、元の人格は崩壊し元に戻ることは無く、そのまま狂死する。
(対処法)生還2例の報告から推定。
そこまで読んで、真は爆発しそうな心臓を宥めて気を引き締めた。
ここから先に書かれていることを、今 空はしているのだ。
① 獣性(殺傷欲)を最大値にしないよう、別の欲に代替して時間経過を待つ。
② 代替する欲は、本能的なものほど効果が高い。
③ 獣性(殺傷欲)は、眼の白目部分に顕著に表れる。
光彩及び瞳の部分の判別が出来ないほど白目が充血し、眼全体が赤く見えるようになると最大値。
睡眠等休息時にも、獣性(殺傷欲)は増加するので随時観察が必要。
ただし、『BSD』の効果から生還した2例は、自分の行動状況を知った後は、兵士として使い物にならない状態になった。
真は何度も資料を読み返してから、席を立った。
この後、自分は何をすべきか。
ややあって、真は何かに気づいたように部屋を出て行った。
そろそろ4時間が経過する。
それまで空は、彼の行動を全て観察しながら、その攻撃をギリギリででかわしていた。出来るだけ自分の体力を消耗しないよう、頻繁に呼吸を整え距離を取るよう注意していたが、それでも4時間もたてば相当息が上がる。
(目の充血具合は、だいたい4時間で最大値でしょうか)
常に彼の眼を見ながら動いていたが、そろそろ彼の瞳が判別しづらくなった。
空はペットボトルを取ると、キャップを開け、彼に見せつけるように床に中身を零す。彼の眼がそれを見た、と確認できるとそのままボトルを放り投げた。
彼は、ペットボトルに飛びつくと、零れる水に口をつけて飲み始める。その姿は、まるで四つ足の肉食獣のようだった。
こんな彼の姿を見ることになろうとは、思いもよらなかった。いつも穏やかな笑みを浮かべ、知性と愛に溢れた眼差ししか知らなかった。
(・・・こんな姿を見るのは、私だけですから)
明日の夕方にはここを離れ、その後も戻ってくるつもりはない自分だけなら、彼の精神的ダメージはそれほどでもないだろう。覚えてはいないだろうとは思うけれど、何かの折に知ってしまっても、それなら立ち直れるはずだ。
空は、そんな事を思いながら、彼が水を飲んでいる間に何とか呼吸を整えようと努力する。
(これからは、殺傷欲が最大値の半分くらいで代替欲にすり替えましょう)
その方が、全てが終わった後の彼への精神的・肉体的ダメージも少ないのではないだろうか。
そうすると、大体2時間ごとに、代替になるものを与えなければならない。
(あと、8時間・・・3回、いえ念のため終了前にもう一度与えるとして4回)
水・食べ物、その次は・・・
水を飲み終わった彼が、空の方を向いた。
充血の無い綺麗な白目。1回目のリセットは出来たらしい。
けれど前面に表れているのは、新たな殺傷欲だ。
猛々しい視線を受け止めると、空は再び集中して対峙した。
研究室を出た真は、自分を探していたらしい小夜子とぶつかりそうになる。
「ちょっと、探したわよ。エリィが出て行ったみたいなんだけど・・・」
不機嫌そうな彼女に、真はきっぱりと告げる。
「それどころじゃない。全員にミーティングスペースへの召集をかける!」
数分後には、博と空を除く捜査官たちが集まった。
真は『BSD』の情報を全員に共有させた後、博が現在その影響下にあって空が対応していると説明する。
「と、言うことは明朝5時半まで、僕たちは何もできないということですか?」
豪が苦し気な声でそう言うと、春が声を上げる。
「いいえ、とりあえずエリィを探すことはできます。彼女を見つけることが出来たら、何か役に立つ情報が得られるかもしれないです」
そうか、と真は頷いて指示を出した。
「豪は春と組んでエリィの捜索、小夜子は1人でも行けるな。3人で行ってくれ。俺はここに残って待機し、不測の事態に対応する。見つからなくても、明朝5時過ぎにはここに戻ってきてくれ」
「了解」
3人の声が唱和し、直ぐに飛び出していった。
それを見送った後、真は自分のノートパソコンの前に座る。
「ケトル、博の部屋の非常用監視カメラの映像を見せてくれ」
《 ゲンザイシキケン シン カクニン ヒジョウヨウカンシカメラ エイゾウヲツナギマス 》
非常用監視カメラは、支局内の全ての部屋に設置されている。普段は使用しないが、万が一のための場合の設備だ。真は、それがあることに気づいたのだ。
(空は、これを見るなとは言わなかったからな)
時間も無かったし、真が気付くとは思わなかったのかもしれない。だが、室内の様子は誰にも見せたくないと思っていたはずだ。それを慮っても、真は自分は見ておくべきだと思った。
(後で、怒られるのは覚悟の上だ)
真はPCの前で、朝までずっと画面を見ながら座っていた。
あと4回の代替欲。その1回目は、食べ物を与えることで殺傷欲を食欲にすり替えることが出来た。
けれど2回目。もう既に水や食べ物では、飲食欲を導くことが出来ない。
空は、彼の殺傷欲を満たす方向で行動する。
殺されるわけにはいかないので、傷を受けることを選んだ。
まだ先は長い。
動けなくなるような場所や、行動が制限されるような場所に傷を受けるわけにはいかない。
飛び掛ってきた彼の手に右腕を与え、顔の前に左腕を差し出す。
「ーーーーっ!」
掴まれた右の二の腕に、彼の指が食い込んでその爪が皮膚を破る。
差し出した左腕に、彼の歯がめり込みその先端が骨にまで届いた。
何とかその痛みに耐えるが、2か所から噴き出した血液の匂いが、彼の興奮を煽り攻撃が止まらない。
獣性に支配された男の歯と指の力は、骨さえも砕きそうだ。ギリギリと加えられる痛みが、脳髄を焼き切りそうな気がする。
けれど、何とか左腕を引き彼の顔を近づけると、自分の口で彼の鼻を覆う。
「・・・ぷはっ!」
呼吸が苦しくなった彼は、咬みついていた口を離して仰け反った。その瞬間、何とか身を捩って身体を離すが、疲労が溜まった身体はノロノロとしか動かない。次の瞬間、無防備になっていた横腹に歯が突き立てられる。
「ぅあっ‼」
堪らず悲鳴が漏れたが、これ以上攻撃を受けたら身が持たない。
空は必死に身体を起こし、残っている力を全て使うように、彼の首に手を伸ばして頸動脈を圧迫した。
「・・・っく・・・ぅ・・・」
音を立ててうつ伏せに倒れた彼から何とか身体を離し、カーペットの上に丸くなって痛みに耐える。
何とか身体を起こせるようになると、空は腕を伸ばして彼の瞼を上げ、充血の程度を確認した。
「・・・何と・・・か・・リセットでき・・・ました」
昏倒させられた野獣のような彼は、2時間程度意識がないだろう。けれど、その間も殺傷欲は高まってゆく。2時間のインターバルを得られたが、彼女にはその間にやる事があった。
(先ずは、止血・・・出来る限り血の臭いを消しておかないと)
空は着ていたシャツを脱ぐ。今までの時間で、何度も彼の手から逃れては来ていたが、ギリギリで避けていたためにシャツはあちこち引き裂かれていた。
丁度良かったとばかりに、彼女はシャツを細く裂き、両腕と脇腹を縛る。そして、部屋の隅にある流しのシンクまで何とか身体を運ぶと、蛇口を捻って水を出し頭から水を被った。
(・・・少し、頭がはっきりしました)
再び、床を這うように彼の傍に戻ると、カーペットに散った血の染みを見て嘆息する。
(これは、どうしようもないですね)
身体は休息を欲していたが、気を緩めれば眠ってしまうだろう。けれど、眠ることは絶対にできない。
2時間後、彼が目を覚ました後の行動を考える。
血の臭いが充満した室内で、野獣と化している彼は直ぐに殺傷欲を満たそうとするだろう。2時間の昏倒で、体力自体はある程度回復している筈だ。それを、どのようにして他の欲にすり替えればよいか。
3回目と4回目、あと2回の代替欲。
動物の存在意義ににも繋がり、殺傷欲よりも優先されると思われる欲望。子孫を残すという、全ての動物の生きる命題にもなるような欲。
(・・・後は、性欲でしょう)
空は、ゆっくりと全ての衣服を脱ぎ捨て、倒れ伏す彼の隣に横になる。
(少しでも、体力回復はしておかないと・・・)
そして、彼を見守りながら3回目を行う時を待った。
3回目。殺傷欲と性欲のすり替えは何とか上手くいく。
しかし、空の状態は最悪だった。彼の手が掴んだ場所は、全て真っ赤に腫れている。いずれ痣になるだろうと思われた。しかし、その痛み以上の激痛が、彼を受け入れた部分に存在している。少しでも気を緩めたら、即座にブラックアウトしそうな程だ。
そんな痛みを騙し騙し、うつ伏せの身体を仰向けにすると、下半身からの血の臭いが濃くなる。かなり出血しているのだろう。
(・・・あと、もう1回)
遠くなりかける意識を、思考の楔で縫い留める。
(・・・抱かれるのは、これが最後・・・ですね)
これまで何度も抱かれてきたけれど、これが最後なのはどういうものだろう。最初の時は本当に優しくて、とても大切に扱われた記憶がある。
(こういう方が、相応しいのかもしれません。・・・彼は満足できたようですし)
傍らの彼を見れば、満足そうな寝顔になっている。瞼を上げて確認しなくても、殺傷欲は性欲となって昇華したと解った。
(こんな有様だけど、1度は彼を満足させることができたなら・・・)
あと1回。今から2時間休息すれば、何とかもつだろう。
空は天井を見つめながら、最後の1回が来る時を待つ。
その眦から、とめどなく涙が零れ続けていることには、気づかないまま。
最後の務めを終えた時、彼女の身体は完全に動かない状態だった。
けれど、彼は野獣としての最後の眠りについている。
(・・・もう直ぐ、5時30分になりますね。真が・・来ます)
何とか見苦しくない格好に取り繕いたいが、身体が言う事を聞かない。
それでもカーペットの上を少しずつ這って、置いておいたバスローブに手を伸ばす。何とかそれを自分の身体に羽織らせたとき、ケトルの声が響いた。
《 ロック カイジョ 》
その声と共に、真が飛び込んできた。
何も言わず、空に駆け寄った真は、監視カメラの映像で全てを知っていた。
「・・・真、彼をお願いします。出来るだけ身体を綺麗にして、医務室へ運んでもらえませんか。しばらくは反動で眠り続けると思いますが、処置は無事終わりましたので、人格崩壊などの精神的なダメージは避けられている筈です」
今はまだ、指揮権は真にある。空はお願いする形で言葉を綴るが、相当の気力を必要とした。
「・・・空の方が、ちっとも無事じゃないけどな。動けるのか?」
真の言葉に、空は薄っすらと笑って答える。
「私は自室に戻って休みます」
血と汗に汚れ憔悴しきった顔だが、そこには達成感が溢れていた。
部屋のドアを開けた途端、糸が切れたように床にへたり込んだ空だが、驚いて飛んできたビートを片手を上げて宥め、シャワールームへ這ってゆく。
床に座り込んだまま、頭からお湯を浴びると、血と白濁した液体が排水溝に吸い込まれていった。
しばらく動けずにいたが、やがて空は濡れたまま這って、ベッドによじ登る。
暖まったせいで、身体のあちこちから血が流れるが、シーツを汚すことにさえ気が回らない。
ビートが心配そうに、枕元に飛んできた。
「ビート、12時になったら起こして。嚙みついても良いから、絶体に起こして・・・」
賢いヨウムにそれだけを伝えると、空は気を失うように眠りに落ちた。
空が出て行った後、真は博の身体をザッと拭くと、豪を呼んで二人で彼を医務室に運ぶ。ふみ先生は『BSD』に関する情報を事前に受け取っていたので、本部の医局に連絡してその後の処置についての準備を整えて待っていた。
博を医務室に預けると、真はミーティングスペースで待っていた皆に説明をする。彼が無事12時間耐久レースに勝利したことに全員がホッとしたが、エリィの行方は解らないままだった。結局、もう少し捜索を続けようという事になり、一応昼頃また集合という事で解散になった。
昼になり再集合した捜査官たちだが、成果は何一つなかった。
真は憮然としながら、とりあえず空の様子を見に行こうかと考える。その時、ノートパソコンで情報収集をしていた春が、大声を上げる。
「これって、エリィ⁈」
画面には、今日の午前中に川に浮いていた身元不明の女性遺体についてのニュースが流れていた。
メンバーたちは昼ご飯もそこそこに、春だけを留守番に残して支局を飛び出していった。
正午になって、漸く空は目が覚めて起き上がる。
枕元には、ゼーハー言いながらぐったりとしているビートの姿があった。彼女を起こすのに、全精力を使い切ったのだろう。
とりあえず、6時間くらい寝たので、何とか身体は動くようだ。
ビートには悪いことしたな、と思いながらベッドから降りて、空は引出しから探し出した包帯を傷に巻いた。これから着る服を汚さないためだ。そして、クローゼットからひと組の黒い服を取り出した。
(・・・これ・・・着ていきましょうか)
それはあの時、空港で博と真に最後の挨拶をして見送った時の服だった。
博が贈ってくれたそれは、薄手の黒い上着が印象的で、彼女の身体に添うように着やすかった。
(ここに置いていっても、処分されるだけでしょう)
何もかも捨てて日本に来た時も、売り払う事が出来なかった服。
あれ以来、一度も袖を通すことなく仕舞い込んでいた服。
別れに相応しいのかもしれない、と思いながら空はそれを着て身支度を終わらせ、ショルダーバッグ1つで部屋を出る。ビートには、長期任務だとだけ告げた。
廊下に出てエレベーターの前に立ち、迷わず行き先階を1階にした。いつか機会があれば、彼らにお礼をいう事ができるだろう、と心で言い訳をしながら空は支局を後にした。
彼の事は、心配いらない。
信頼のおける仲間がいるのだから。
そして、彼が愛する人はきっといつも傍にいるのだから。




