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第6話 2節「少女の指先と虫」




 目の前には大きな虫かごがあった。


 彼女の家に最初入った時に感じたあの微かな土の匂いは、この虫かごから発せられているものであると理解した。




 その周りは清潔に保たれていて、まるで大学の研究施設の一角を思わせた。




 でもベッドや机や本棚といった普通の家具も全体の三割程に配置されていて、ところどころにピンク色が使われているから、単純に部屋が広いだけで、本当は普通の女子と同じような生活をしているのかなあとも感じられた。






 虫かごは、カブトムシやクワガタを飼う虫かごのような一般的な形をしている。


 大きさはそれより一回り大きめのサイズだった。その中に三センチ程、バーミキュライトが盛られていた。虫はその中に隠れているようで、姿を外から見る事はできない。






「平気?」


 彼女はそう問いかけた。






「どういう意味?」


「クネクネした虫とか苦手じゃなあい?」






 ここまで来て、念の為にもう一度確認してくれる少女の気づかいに、暖かい気持ちになった。


「大丈夫だよ」そう少年が言うと、少女は「ふふふ」と笑った。






「本当にだいじょうぶ?」


「ああ。ほんとうに大丈夫!」


「よかった」




 彼女の弾けるようなあどけない笑みを見て、少年の心は躍った。そうして、虫かごを開けて、中から例の環形動物を取り出したのである。




 少年は驚愕した。




 一瞬で、首から上の血液が冷え切った。




 少年は口元の空気を一気に吸い込んでしまった。初めて感じた鮮明な衝撃。それは単に虫が気持ち悪いという理由ではなかった。まして、美しい少女と醜い虫とのギャップに驚かされた訳でもない。






 ただ、名前も付けられない程の斬新で殺人的な衝撃は、今後一千年の間に人類が経験できるすべての狂気をも凌駕するかのような、凄まじいものだった。




 それほどの凄い見た目をしていたのだ。目の前で鮮明に蠢く虫は、ミミズでもゴカイでもムカデでもヒルでもサナダムシでもなかった。見たことのない虫。






 直径はおおよそ7センチメートル。太さは1センチ程といったところだろうか。




 だが、先端はまるでメガマウスのように口を大きく開いていて、中腹からは細いチューブのような突起物をのぞかせていた。体の全体に張り巡らされた血管のような管は、ひくひくと脈打っている。表面を赤黒くテカテカと奇抜に光らせ、うねうねと苦しそうに体を動かすその様は最高にグロテスクだった。






 少年は今までの自分の価値観を疑った。気持ちの悪い見た目とは、何だろうかと日常に潜む常識を疑った。




 ゴキブリがその代表格だろうか。ゴキブリ……いったい彼のどこに気持ち悪さがあるというのだろうか。今、この鮮明に動く如何ともしがたい生物を眺めながら、少年は感情の哲学に興じていた。






 拒絶感がある生物とは何なのだろうか、気持ちが悪い見た目とは何なのだろうか、と価値観を根底から揺るがすような衝撃に彼はゲシュタルト崩壊を起こしそうになった。




 そう、見たこともない生物だと思った。




 この究極的なオーラをじりじりと放ってくる目の前の生物を見て、恐怖とも、拒絶間ともつかない、それらを超えた新たな負の感情を体験した。




 だが、ここで身を引いてしまっては、彼女にどう思われるか分からない。この虫を見てみたいと言ったのは自分なのだ。




 だからこそ今ここで身じろぎして引き返してしまっては、彼女に痛烈な悲しみを与えてしまうだろうと思い、踏みとどまることにした。




 そうして心を無にして、この虫の見た目には触れないような、無難な質問を冷静な口調で質問してみる事にした。遠回しな質問が、この虫の解明に繋がるのかなと思い少女に問いかける。






「ねえ。これは何ていう虫なの? 外国にいるのかな」


「うん。この子はパトスという名前なの。私が作った新種よ」


 その言葉を聞いて、少年はまたも驚愕した。






「えっ。新種」


「驚いた?」


「ちょっ。それは、こんな事をしている場合じゃないよ! どこかの研究機関にその功績を報告しないと」


 少年は興奮した気持ちになって、震える指で携帯を取り出し、専門の大学を探し始めたのだ。


「やめて」




 少年は彼女に腕を掴まれた。


 腕を痛い程強く腕を握りしめられた彼は、少女の目つきや表情にいささかの怒りを感じ取った。




「どうしてなの」


「この子たちは……私の心のより所なの。だからあまり大々的にしないでほしい。この子たちを公にして、騒ぎ立てないで」




 少年は非常に歯がゆい気持ちになった。


 今、目の前の少女がやった事はどの研究機関も到達していない常軌を逸したものなのだ。それが今、少年の目の前で繰り広げられている。




 彼の胸の鼓動は早まった。


「……そ、そうなんだ」


「ええ」






 しばらく沈黙が流れた。


 だがそのつかの間の沈黙は、少年にとって気まずいものではなかった。




 気まずさよりも、むしろこの奇抜な状況を飲み込む為に費やされた時間だった。


 しかし彼女は「見て」と恥じらうように少年に虫を見せる。






 恐怖でどうにかなりそうだった彼は、虫ではなく少女の姿や表情を食い入るように見て、心を整えた。そうして、まるで危険な女神だなと思った。




 彼女が放つ魅惑はあまりに危険すぎたのだ。今まで想像を絶する拒絶間を感じていたので、彼女の表情を眺めた瞬間は、全身を巡る安心感に陶酔さえおぼえた。




 女神の胸の中で自分という存在が解けてしまうような、安らぎと脱力感すらもおぼえた。けれどもそういう安心感もつかの間の事だった。






 彼女は取り出した虫の中腹から生えている突起物を、くりくりと触り始めた。触る度に、虫はその刺激に反応し、大きく体をうねらせた。




 虫の体から分泌された体液が少女の手の平にこびりつく。その行為に、少年は困惑した。




 ただでさえその白魚を並べたような、可憐な指先と、その指先が咥えている虫とのコントラストに気を失いそうなのに、得体の知れないこの虫の器官の一部をこねくり回しているのである。




「何をしているの?」


 少年は問いかけた。




「可愛がっているのよ。そう、この子も喜んでいる」




 彼はその少女の指先の動きを見て、少し興奮した。




 繊細で美しい指先の動きが、虫を撫でている。






 撫でられる度に、虫の全身に張り巡らされた血管のようなものが、より激しく脈打つ。この生物は、少女の指先が与えてくる刺激に強く反応しているのだ。彼は自分の目に映る非常なコントラストと、彼女の艶やかさに、目眩を起こした。






「ねえ、この子………よく見ていて」



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