第7話 5節「イクラの家」
家に到着し、僕の部屋に真下さんを入れた。真っ先に机の中のペンケースを確認してみたけど、いくらが増殖している様子はなかった。
安心と同時に、拍子抜けというか……軽い落胆のような気持ちもこみ上げた。それは、傍に真下さんがいたからなのかもしれない。
「……どう? 増えている?」
「いや、おそらく数は昨日と同じだ」
すると彼女は、足を進めて、僕がおそるおそる除いていたイクラの詰まったペンケースを取り上げた。その、ふわりとした軽い動作に僕は内心、驚いた。
「これのことなんだ。あの、イクラって」
と、彼女は言う。
「そう。どこから運んだわけでもない。勝手に、イクラが勝手に増えていたんだ!」
イクラを目の前にた真下さんに、改めて理解してもらいたい衝動に駆られて、僕はすこし動揺を抑えられない気持ちでそう言った。
「……食べられるのかな」
落ち着いた声で、そんなことを言う。彼女の大胆さと好奇心に再び惚れてしまいそうだった。
「分からない。食べようなんて、思わないよ」
「私は、食べてみようと思う」
僕は唾を飲み込んだ。まさか、彼女は本気なのだろうか。得たいのしれない、増殖するイクラを……エイリアンかもしれないその奇妙なイクラを、いまここで、彼女はそれを口にするのだろうか。
「いや、悪いことは言わないから、よしといたほうが良い。君は、まだ僕の言うことを、心の底からは信じていないのかもしれない。だからそんな大胆な……危険な行動をしようと思えるんだ」
「……信じているよ! 私は。アナタの言うことなら。何でも信じることができる」
「だったら! 食べない方がいい」
「忠告ありがとう。でも、もし私が、これを食べて、私の身体に何の変化も無かったら……その時は、アナタにもこのイクラを食べてほしい」
頭をハンマーで殴られたような衝撃があった。
彼女は、いったい何のために『イクラを食べる』などという行為をする必要があるというのだろうか。僕にはそれが理解できない。けれども彼女はその忠告を無視して、ペンケースの蓋を開け放った。
「……いい?」
「あとは、どうなっても、知らないからな。僕は、責任は取れないけど、それでも良いんなら、食べればいいさ」
「じゃあ、頂くね」
彼女の白く細い指先が、ペンケースの中のイクラ……を、クチャっとつまんだ。どういう訳か、イクラは昨日より、だいぶ鮮度が落ちたように見えた。実際、鮮度は落ちているのだろう。
彼女は僕の瞳をジッと見ながら、おそるおそる、その清らかな唇の奥にイクラを包んだ。
ぶちっ、というイクラが破裂する音が幽かに、彼女の唇の奥から聞こえた。イクラを飲み込む、ごくん。という音が、彼女の喉から聞こえた。
「味は……イクラだよ。本物のイクラ」
と彼女は言う。
「約束だから、アナタも食べて」
「うん。分かった」
もう仕方がない。この土壇場に来て、今から逃げ出すというのは、男としての恥を意味する。特に真下さんがいる前では「やっぱり嫌だ」なんてこと言えないから、もうここで僕はイクラを食べなくてはならない。
「座ろう。私が背中をさすってあげるから、安心して食べて」
と彼女は言う。とすると、僕の心の凄まじい恐怖を、真下さんは感じ取ってくれていて、それを慰めてくれようとしているのだ。だから背中をさすってくれるのだ。なんだか少し情けない気分になってくる。
そうして僕が恐る恐るイクラを掴み、口の中へ入れた時、彼女は僕の背中を優しくさすってくれた。その心地よさと、口の中で蠢くイクラの体液を感じた時、僕の脈拍は一気に上昇した。
鮮度が多少落ちているとはいえ、あまりにも普通のイクラの味だったから拍子抜けしてしまった。
味は普通のイクラだった。けれども僕にはとうてい、普通のイクラを食べている気は全然しなかった。
「普通の、イクラだよね」
と彼女は言う。
「うん。普通のイクラだ」
と僕は言う。僕にとっては普通のイクラではないが、客観的には普通のイクラである。