第7話 3節「イクラの家」
下校中ふと、もしかしたら、本当にあのペンケースの中でイクラが大量発生しているのかもしれないという妄想に追われて苦労した。
絶対に、そんなことはあり得ない。あり得ない、と分かっているのに、どうしても心配になってしまう。真下さんのあの発想は、もしかしたらフラグかもしれない。現実世界の象徴であるかもしれない。その心配は例えるなら、怖いテレビ番組を見た後に、もし部屋の中にオバケがいたらどうしよう。と心配になるあの嫌な感覚にそっくりだった。
家に帰って僕は早速、机の引き出しを開けてペンケースを取り出そうとした、その時、僕は全身の毛が逆立つ感覚に襲われた。思わず声を上げて、腰を抜かしてしまった。
ガラっと勢いよく開け放った机の引き出し。そこにある透明のペンケースの中に、大量のイクラがこれでもかというほどビッシリと詰め込まれていたのだ。
「増殖したんだぁ。うぁあ、増殖だぁ!」
と僕は狂ったように声を上げ続けた。体中の血液が逆流し、背中に南極の氷河を落とされたみたいな感覚になった。目の前がクラクラしはじめて、手がだんだんと痺れて震えてきた。口の中が渇いて、舌が歯の内側にピッタリ張り付いた。唇の隙間から漏れる呼吸が激しく苦しい。
僕はできるだけ自分を落ち着かせようと、深呼吸して、現実に何が起こっているのかと言うことを理解しようと試みた。
ペンケースの中でイクラが増殖した。
内容としてはそれだけだったが、あまりにも奇抜で恐ろしい光景に、僕の脈拍は上がりきって収まってはくれなかった。
ぶるぶると震える手で、ペンケースを、ゆっくり開けてみた。なぜ自分にそんな勇気があったのか、なぜそんな危険な行動ができたのか分からなかったが、多分、怖いもの見たさとか興味本位とかスリルを味わいたい、という人間の奥底に眠っている本能のままに行ったのだろう。
イクラは、ケースの中からボロリとこぼれ落ちて、僕の手の甲にくっ付いた。その感触を感じた。そのひんやりとした弾力を感じた時、何かとてつもなく恐ろしいものに触れてしまったような気がして、
腕を、ぶん、と振って、イクラを振り払った。
呼吸が乱れてうまく息ができなかった。
イクラの増殖を見た時、僕は、何千匹ものゴキブリが部屋中を蠢いているよりも、恐ろしいと思った。気色悪い、得体のしれない未知の生命体を目撃しているような、そういう嫌な気分になったのだ。
これから、あとどれくらいの期間、この得体のしれないイクラと共に過ごしていかなければならないのだろうか。
ふと、真下さんの、
「じゃあ、今日、家に帰ったら、そのケースの中で、イクラが大量発生しているかもしれないね」
という可愛らしい声が、頭の中に舞い戻ってきた。可愛らしい声で、何という恐ろしい想像をするのだろう。しかし今、その想像が現実のものとなってしまったから、実に洒落にならないのだ。
この事態は……実際に僕の机の中のペンケースの中で巻き起こった、このありえない現実の事象は、すでに真下さんの頭の中で予知されていたことだったのだ。そう考えると、僕は心底、彼女に慰めてもらいたいという衝動に駆られる。
震える手でスマートフォンを取り出して、つい先ほど交換した彼女のラインに、イクラの写真を撮って送った。
秒で既読が付いた。電話がかかってきた。僕は、この胸の鼓動は、イクラに対する恐怖なのか、真下さんに対する恋愛感情なのかがハッキリとしなくなっていた。バクバクとした胸の鼓動を抑えきれないまま、僕は電話に出た。
「もしもし」
と僕はいう。
「本当に? 本当に増殖したの?」
と、真下さん自身も、非常に取り乱したような声色で僕にそう問いかけた。
「うん、本当なんだ。僕はさっき家に帰ったばかりなんだけど……家に帰って机の引き出しを開けて、中にあるペンケースを確認したら、イクラが……昨日まで一粒だったはずのイクラが、増殖していたんだ」
女神にすがるかのように、僕は彼女に事実を伝えた。
「なぞ、だね」
と彼女はいう。謎。本当に謎。この未知の経験は、ぜひとも解き明かしたいと心底思う。なぜ、僕の部屋の壁にイクラが一粒くっついていたのか、なぜペンケースの中に入れてあったはずのイクラが増殖したのか。
しばらく沈黙があった。僕の机の中には、生々しいイクラたちが、ひしめきあっている。その一粒一粒の声までもが、聞こえてくるような気がして、吐き気がした。
「だいじょうぶ?」
と真下さんのやわらかい声が電話口から聞こえた。まるで僕の恐怖心を感じ取ってくれたかのようだった。
「……ごめん、心配してくれて」
「うん、すごく焦っているよね」
たかが食品に……たかがイクラに、ここまで人の心を混乱に陥れる力があったなんて。と僕は思う。
「ねえ、そのイクラ。食べられるのかな?」
真下さんがそう言ったとき、僕はつくづく彼女が、本当に可愛らしい発想をするのだなと思った。
それと同時に、彼女はとても常人には思えないな、とも感じた。あの恐ろしいイクラ。人の心をここまで恐怖に陥れる力を有するイクラを、食べる。その発想に僕はあきれた。
「すごいことを……考えるんだね」
「でも、本当に増殖するなら、すごいビジネスにならない? ずっと無くなることのないイクラを、いつまでも売り続けることができる」
彼女のいうあまりにも斬新なその発想は、しかし僕には全く受け入れることができなかった。確かに客観的に見ればそれは合理的なのかもしれないが、その勇気はない。
得体のしれない化け物のようなイクラを、販売する。
「ごめん、それは、ちょっと抵抗があるな」
と僕は極めて平常を装って、彼女に断った。
しばらく電話口の向こうからの声が途絶えた。僕は何か彼女の気に障ることでも言ってしまったかもしれないと思って後悔した。
「そっか、まあでも気持ち悪いよね」
すぐに真下さんは、明るい声で言ってくれたので、僕がイクラの販売を断ったことに対して怒っていないことが理解できた。
僕は少し緊張しすぎているのかもしれない。イクラに対する恐怖と、真下さんへの感情は、ほとんど同一のものと化していた。すなわち心臓の鼓動が高くなるということ、激しい興奮が胸を突くということ。
この吊り橋効果の威力はすごかった。
「怖いんだ。真下さん、たかがイクラに対して、こんなにも恐怖するなんて、周りから見たら、きっとオカシイ人に見えるよね?」
僕は彼女に弱音を吐いてしまった。できれば恐怖心を表には出したくなかったが、いよいよ限界のようだった。憧れの女子に、「イクラが怖いんだ」なんて間抜けたことを、平然と語ってしまったのだ。
その僕の、弱い心が悔しいと思った。
「ねえ。倫くん。ならそのイクラの謎、一緒に解き明かそうよ」
彼女は明るくそう言った。その声を聞いて、僕の心は躍った。あの真下さんが、僕の心に寄り添ってくれている。僕のイクラに対する恐怖を払拭しようと試みてくれている。その行為がほんとうに嬉しかった。
「いいの? こんなことに付き合わせちゃって」
「こんなこと? こんなことって何? だってそれは、もの凄い謎でしょう、一緒に解き明かさないと、私の気分が収まらないから」
真下さんの心遣いに、僕はかなり癒されていた。これから彼女と一緒に、このあまりにも気色の悪い「謎」にアプローチしていくのだ。
「じゃあ、そういうことで。また明日。何か進展があったら、明日また話そう? じゃあね」
「うん。助かるよ。ありがとう、ほんとに」
こうして僕らは電話を切った。部屋の中が静かになったような気がした。時計の秒針の音が、僕の心臓の脈拍を計るかのように煩くカチカチと鳴り響いていた。
おそるおそる引き出しの中身を除いてみたが、あれからイクラは増殖している気配はない。見た感じ、増えている様子もない。これは、増殖をもう終了したイクラなのかもしれなかった。