第7話 2節「イクラの家」
僕はこれから高校へと向かわなくてはならない。
僕の家は、東京都北区岸町の住宅街にあった。地理的に坂道が多い場所だったから、学校に行くときはとても足取りが重たく、帰る時は軽い。
坂道が僕の心の中を表してくれているようだった。
また、時間がある日には、中央公園の中を通る。人通りが少なく昼間でも少し薄暗いこの大きな公園が僕はとても好きだった。たまにトーテムポールの近くのベンチに腰を掛けて、ゆっくり缶コーヒーを飲むのが僕のお気に入りの行動だった。
しかし今日は、それをする気分にはならなかった。頭の中に張り付いて取れないイクラへの疑問が、僕の心をかき乱してくるから。
いっそのこと、イクラの存在もろとも、火をつけて燃やしてしまいたいなと思う程だった。記憶の断片から、まがまがしいイクラの光景を、全て尽く、燃え盛る炎で焼き払ってしまいたい衝動に駆られた。
しかしながら大学受験も近いから、本当はイクラなど気にしている場合ではないのだ。が、でも、高校へ向かう途中の長い坂道を上っている間も、友達とすれ違い挨拶を交わしている間も、ずっと、イクラのことがぜんぜん頭から離れなかった。
柔らかい春の風が吹いている。桜の花びらが舞い、僕らの町を桃色に染めている。通学路、子供たちの喧騒が聞こえている。ふと隣から、
「おはよう」
と声が掛かる。真下さんだ。彼女は僕に手を振った。彼女はマスクをしていたが、その上からでもハッキリわかる満面の笑みを浮かべ、目を細めていた。僕は、彼女は可愛いな。と思う。しかし挨拶をしただけで、会話を続けるというようなことはなく、彼女は走って学校へと向かった。
その後ろ姿を僕は眺めた。セミロングの黒髪が揺れ、僕の胸は躍る。僕は真下さんと何か話題を見つけて、おしゃべりがしたい気持ちだったので、イクラの件を彼女に打ち明けようかな。と思った。が、そんなことをしても変な人だと思われるかもしれないので、やっぱりやめておくことにした。
学校に到着し席について授業を受けている時も、昼休みも、友達と他愛のない話をしているときも、依然として頭の中でうごめくイクラの光景が離れてくれなかった。僕の混乱した頭の中は、もう既にイクラに支配されていて、このままではイクラの幻影に殺されるのではないかと思う程だった。
僕は授業中、終始貧乏ゆすりをしていた気がする。
僕はいつもより、時間が経つのが遅いと感じた。
いよいよ僕は頭がおかしくなったのかも知れないと思った時、時刻はすでに放課後になってしまっていて、開け放たれた窓から風の匂いと淡い夕日が差し込み、教室に長い影を作っていた。
ああ、世の中にはたった一粒のイクラに、こんなにも頭を悩ませる人間がいるのだな、と悲しい気持ちになった。
ちょうどそのとき突然、首元に声が掛かったのた。
「倫太郎くん、体調悪いの?」
その声は、僕を最も驚かせるものだった。声の主は真下さんで、今まで彼女は、自分から僕に話し掛けてくれることなんてなかったから、僕はとても嬉しい気持ちになった。
「いや、大丈夫だよ。疲れているように見える?」
「うん、というか悩み事でもあるの?」
僕の心を見透かしたかのように、真下さんは僕の目をジッと見つめている。
その彼女の瞳の奥に見え隠れする、不思議な色を見ているうちに、僕は彼女にイクラのことを打ち明けてしまいたくてたまらなくなった。
「実は、こんなことを言うと笑われるかもしれないんだけど……」
「笑わないよ」
と彼女は言う。
「そう? なら、話すよ。実は、昨日、家の壁にイクラが一粒、くっ付いていたんだ。でもここ最近イクラを食べた記憶はないし、どこから運ばれたイクラなのか、全然わからないんだ。それが、僕の部屋の壁に……たった一粒だけ、くっ付いていたんだ。それが不思議で、不思議で、いや、別に大したことじゃないってわかっているんだけど、気になり始めると、どうしても気になっちゃってさ……ごめん、面白くない話で」
と僕は彼女に全てを打ち明けた。真下さんとは特に中が良かったわけではない。よく話をするわけでもない。けれども、彼女の目を見つめているうちに、全て、何もかも、こうして打ち明けてしまったのである。
「へえ! ちょっと待って、考えてみればそれって、すっごく不思議じゃない!」
思いのほか、彼女はわりと楽しそうだった。
「そうかな。けっこう僕は悩んでいるんだけど」
「えぇー。不思議ぃ。ねえねえ、そのイクラ増えたりするのかな?」
「分からない。でも、どうしても捨てる気分にはならなかったから、そのイクラは、ペンケースの中に入れて取っておいてあるんだ」
「じゃあ、今日、家に帰ったら、そのケースの中で、イクラが大量発生しているかもしれないね」
と真下さんは冗談を言う。僕は彼女が以外にも可愛らしい発想をするので、ちょっと嬉しい気持ちになった。
「もしそうなっていたら、連絡するよ」
僕が言うと、彼女は少し明るい表情になった。
「ほんと? じゃあ、連絡先交換しようよ!」
イクラが原因とはいえ、僕にとっては、なかなかの収穫だった。以前は話しかけることさえできなかった真下さんと、こうも簡単に連絡先を交換できたという事実は嬉しかった。
しばらくすると先生が見回りに来たので、僕らは別れた。