第1話 「快楽の虫」
「…………私、虫を飼っているの」
少女は微笑みながらそう言った。
少し薄暗い公園の中だった。
辺りは、もう日が沈みかけていて、少女の顔が白く微かに、儚げに感じた。
「……虫?」
と、少年は聞き返す。
「ええ。少し変わった色をした綺麗な虫なの、私、その虫の名前は知らないけど」
少女の声は、少年にとって癒しの声だった。まるで透き通るような、少し儚い綺麗な声色。その雰囲気に、彼は惹かれた。
公園の中は静かで、優しい春の日差しを浴びた広葉樹たちが、ユラユラと動いている。
「飼っているのに名前、知らないんだ」
「詳しく無いから」
詳しくないから、と彼女は言う。
「ある日、私の家にやって来たの。かなり大きい虫で……小さい、ピンク色の足が五本づつ、両方に着いてて、合計十本。顔は、黄色いキバみたいなのが、くっついているんだ。目は青く光っている」
「不思議なかたちをしているんだね」
と少年は言う。
実を言うと、少年はその虫の姿を想像する事はできなかった。
ただ、少女の話しに耳を傾けていたいだけだった。
「ねえ、虫の姿……想像できないでしょ」
少女が、少年の心を見透かしたかのように問いかけた。
「うん。実は、あんまり信じられない」
「じゃあ、私の家においで」
少年は、少女の家に行くことにした。
凄く楽しみだと思った。
少女と歩く道は、いつも通りの見慣れた道だったけれども、とても新鮮だった。
しばらく歩いて、少女が、
「ここだよ」
と言って立ち止まった。
赤レンガ造りの家だった。
「とてもお洒落だね」
と少年は言う。
「そうでしょう」
と、少女は無邪気な笑みを浮かべた。
家の中は広かった。少年は少女に案内されて、彼女の部屋まで来た。
そうして、部屋のドアを開いた彼女は、一瞬、何かに怯えるような表情をした。
「いない」
と、彼女は言う。
「虫が、居なくなってる」
その彼女の不安と焦りに満ちた表情を見ているうちに、少年はどうやら彼女が嘘をついている訳では無さそうだ。という事に気がついた。
「大丈夫?」
少年は心配した。
少女は急いで、ベランダの方に駆け寄った。窓を開けて、飛び出した。
「あの子、きっと隣の部屋に行ったんだと思うの!」
と、彼女は言った。
少年は、少女を追いかけた。
少女を追いかけてベランダにまで行った時、彼女が虫を抱いて、
「よかったぁ」
と安心している声を聞いた。
少年は、少女が抱いている虫を見た。
大きい虫だ思った。
胴体は五つほどの、まるでビー玉のような球体で出来ていた。
そのどれもが透き通るような綺麗な色をしていた。
先ほど少女から聞いたように、計十本のピンク色の脚と、黄色いキバのようなものを持っていた。
「なんだこれ」
少年は、呆然とその虫を眺めた。
「私にもわからない。ある日、突然やって来たの」
と彼女は言う。
少女の家に、ある日、突然やって来たという、その虫は美しかった。
五つの玉が、まるで水晶のようにキラキラと光輝いていた。
赤や青、緑や紫に光っていた。
見たことの無い虫だった。
「この子、とても可愛いでしょう」
「うん、凄く綺麗だ」
少年が綺麗だと思った虫は、その時、突然、異変を起こした。
体を痙攣させて、お尻の方から、尻尾のような物が生えてきたのだ!
「これは何?」
と、少年は少女に問いかけたとき、彼女はハッとした表情を浮かべて、
「あらやだ」
と言った。
少し顔を赤らめて、恥ずかしがるようにそう言った。
その尻尾のような物は、細長くてピンク色だった。そして、ヌルヌルとした透明な液体を纏っていた。
「どうしよう……この子、きっとお隣さんの所へ行っちゃったんだ」
少女は心配そうにそう言った。
「何か、不味いことが起こったの?」
少年が不思議に思い、彼女に問いかけると、
「何でもない」
そう言って顔を背けるのだった。
「……顔、赤いよ」
と少年が言う。
「だから大丈夫だって!」
彼女は少し、怒っているようだと少年は思った。
「ねえ」
彼女は彼に問いかける。
「…………私、ちょっと部屋でやることがあるから、アナタは少し、リビングで勝手にテレビでも見て待ってて」
と、少女は言う。
少年は頷く。きっと彼女には大事な用事があるのだと思って、それに従う事にした。
「でも、一つだけ約束して欲しいの。私が部屋にいる間は……絶対に扉を開けないでね」
「えっ」
「お願い」
仕方なく、少年は、少女の言うことに従う事にした。
少女が、例の虫と一緒に部屋に入ってから、いったいどれ程の時間がたったのだろうか。
一向に部屋から出てくる気配は無く、彼は少し心配になった。
しかし、少女に、部屋を覗くことは禁止されているのだから、彼はもどかしい気分だった。
少年は扉の前まで来た。そうして、そのまま何もできなかった。
彼は声を掛けようかと思った。
しかし、彼女が言う事によると、重要な用事があるらしかったので、彼女の集中を妨げたくないと、声を描けるのをやめた。
けれどもやはり、彼は気になって、気になって、仕方なかった。
すると扉の向こう側から、声が聞こえてきた。それは、少女が小さく喘ぎ声をあげているような声だった。
「…………何をしているんだ?」
と少年は疑問に思う。
彼女の扉の向こうから聞こえる彼女の喘ぎ声は、だんだんと大きくなっている。
少年は不安な気持ちになった。また、それと同時に、ちょっとドキドキした。
いったい、あの扉の向こうで何が行われているのだろうか。彼はどうしようもなく、貧乏ゆすりをしていた。彼はふと、ここで扉をいきなり開け放ったらどうなるかと考えた。
少女が虫と一緒にどんな事をしているのか、その答えが分かるから。
しかし、それをしてしまうと、少年と少女の信頼は、ここで途切れてしまう。
しかし彼は、それでも見てみたかった。
あの虫は、いったい何なのか、少女は、あの虫とどんな事をしているのか。
彼女はまだ声を漏らしている。
小さく、遠慮がちに。
彼は、決意を決めた。自分の知的探求心には逆らえないと思った。
きっと、自分がこの扉を開けたとしても、縁を切られるなんて事にはならないだろう。
きっと笑って許してくれるだろう。そんな考えが、彼の頭の中に浮かんできて、
少年は震える手で、扉に手を、掛けた。
(完)