野生の催眠おじさん
異世界になんて来るんじゃあなかった。
いや、別に自分の意思で来たわけではないが、少なくとも今、俺はそう思いながら歩いている。
自分から意識して運動なんてしてこなかったから、ちょっとのこうした徒歩でも体が悲鳴を上げている。
若い頃は運動こそ苦手ではあったが多少なり体力はあった。
どうして体力のあったあのころ、もっと活発に運動してこなかったのか。
それはまぁ、運動していたらこんな陰キャ丸出しの残念な大人になんてなっていなかっただろうから、いまさらという話だ。
履き慣れない靴は、つくりの甘い革製の靴だ。革靴なんてそうそう履かないのに、それ自体良品じゃないと来たらもう最悪だ。
今思うと俺の靴は学生の頃から変わらず、派手じゃない白の運動靴だった。中学生になったときにマジックテープの靴から紐靴に変わり、大人になった気がしていた。
そこからずっと、成長できていない。
そんな話は今は関係なく、俺は今、町から外れた草原を歩いている。振り返ると町はもうほぼ見えない。なんとなく歩いているが、この先になにか身を置くことのできるいい場所はあるのだろうか。
先は長い。何もない道をただ歩いていると必然的に考え事をしてしまう。
今考えているのは、先ほどの女の子のことだ。
あの純粋無垢な女の子を、俺はひどい目に遭わせてしまった。町に住むただの少女を、凶暴な化け物に変えてしまった。彼女はしばらく肩身の狭い生活を余儀なくされるであろう。
おまけに彼女を、街中であられもない姿にし、とんでもない羞恥を与えてしまった。
同人誌なんかでの羞恥プレイだなんだのというのはフィクションだから許されるのであって、俺の目の前で起こったソレは、少なくとも現実であった。
一人の、まだ十代もそこらであろう少女の人生を、壊してしまった。
三十の童貞のおっさんの、よこしまな気持ちで彼女の人生は。
さらに言えば、俺は逃げたのだ。
彼女のやさしさに付け込んで。
今あの子はどんな目に遭っているのか。
悪いのはすべて俺なのに。
30年も生きていて俺は。
何も、変わってない。
ずっと、成り行きで生きていた、子供のままだ。
ふと顔をあげると、周りの雰囲気は随分と変わっていた。
そこそこの大きさの木が生えた、森のようだ。
生き物の姿は見えないが、どことなく潜んでいる気配がする。
日の光は刺していない、薄暗い森だ。
この世界がどんな生態系で、どんなパワーバランスで成り立っているかは知らないが、俺はもうそれどころじゃなかった。
疲れた。
少し先に水の音が聞こえた。
近くへ行くとそこは開けた場所になっていて、小さな泉のようだった。
水が、うめぇ。
日常生きていてこんなにも水がうまいことがあっただろうか。
煮沸していないからお腹壊さないかが心配だが、もうそれどころではない。
がぶがぶ飲んで、近くの木に寄り掛かるように座り、休憩することにした。
だが、久々の運動に俺の身体は想像よりはるかに疲弊しきっていたようだ。
そこからの記憶が―――――
金木犀のような甘い香りが鼻先をくすぐる。その香りの奥にはミルクのような柔らかな香り。
なんだかとても落ち着く。そんな香りだ。
しかし、自分が瞼を閉じていて、寝ぼけていることも分かった。異世界に来ていることをふと思い出し、目を開くと
目の前には、吸い込まれるように澄んだ、栗色の瞳があった。
あまりの距離感にヲタク特有のよくわからない言葉を発してしまった。言語化するなら「ウドゥルフ」が一番近いと思う。
それと同時に栗色の瞳は離れ、その持ち主の姿も確認できた。
服というにはあまりにも面積の少ない、麻のような布地で最低限の場所を隠した、少女だ。華奢な体は程よく褐色で、身体のいたるところに幾何学模様のような入れ墨が入っている。そして、短い銀色の髪の上方には、何ともかわいらしい猫のような耳が付いていた。
「な、なんだ・・・生きていたのか・・・」
随分動揺した様子の彼女は、2メートルほど離れた場所で俺を見つめている。よく見るとふわふわした長い尾があることがわかった。
「お、お前、どこから来たんだ。ここは私の縄張りだぞ。」
昔、子猫が威嚇している動画を見たことがある。それに近い。
「お前、敵か?・・・敵だったら、私も、戦わなければならない!!」
全然怖くない。
だが、敵対されるのはよくない。この世界で味方を増やさねばならないのと同時に、かわいい女の子に嫌われるのは嫌だ。ちょっと今の俺キモかったな。
「な、なんとか言えよー!!」
色々考えすぎてだんまりになっていた。
それとなく俺は敵意が無いことと行き先が無く困っていることを伝えた。
その瞬間、彼女の下がっていた尾がくるりと上を向いた。
「なぁーんだ!そうか!お前、困ってるんだな!仕方ないなぁ!今日は珍しく私も機嫌がいいから、ここに匿ってやろう!」
ぴょこぴょこと耳が動き、彼女の細い背中をふわふわの尾が撫でるように動く。
「ちょっと待ってろ!偶然にも食料が余っている!」
その後俺は、山ほどの果物と干した魚を食べ、彼女の話を聞いた。彼女は獣人族という種族で、人間との交流はほぼなく、12歳で群れから離れ自分の縄張りを持つらしい。
要約すると、寂しかったようだ。
獣人族特有なのか彼女の人恋しさゆえなのか、彼女の距離感はとても近く、常に身体のどこかは俺に触れている。そのせいで俺はずっと前かがみだ。
「私のファミリーは争いが嫌いでな?話し合いを広めようとしたら、伝統にそぐわないって言われて追放されたんだ。」
ちらりと見えた横顔は、どこか寂しそうに見えた。
「獣人族はケモノに近い種族だから、強い奴が正義で弱い奴はそれに従うしかない。・・・でもさ、弱くたって幸せになってもいいと思わないか?」
同感だ。俺も弱い人間だったからその理論はよくわかる。
「別に私のファミリーは弱くはなかったんだ。」
ちょっと共感が遠のいた。
「でも、みんなが幸せになるべきだって、それが正しいはずだって、マミーは言ってた。」
良い話だ。政治家に向いているマミーじゃないか。
・・・話の途中から、言うかどうか迷っていた。
”みんなが幸せに”というのは正しいと思う。だが彼女自身が幸せになれていないのではないか?
どこか遠くを見つめる彼女の栗色の瞳は、何か後悔をしているように見えた。
何があったかは聞けない。聞いてはいけない気がした。
でも、彼女には幸せになってもらいたい・・・
「え?別に私は幸せだよ?」
全然心の声じゃなかった。口に出てた。
「だって、今こうしてニンゲンの友達ができたんだ。幸せだよ。」
幸せそうに俺の二の腕に頬ずりする。やはり猫に近いのだろうか。
・・・暫くすると、彼女は俺の膝を枕にして眠ってしまった。
安心しきった寝顔は可愛い以外の言葉を失わせる。
同時に彼女の後頭部をムスコで突き上げないように精神を集中させる。
・・・やはり、彼女には幸せになってもらいたい。
今度こそ、催眠おじさんの正しい力の使い方ができるのではないだろうか。
ぼーっとしているときは催眠にかかりやすいと聞いたことがある。
膝を少し動かすと、ぴくぴくと耳が動き、うっすらと目を開く。
「なぁに・・・?」
もう間違えない。俺は”正義の催眠おじさん”だ!!!
ーーー自分の願望に素直になり、幸せになれーーー
半開きだった瞳がまん丸に開く。
アクロバティックに飛び上がり、俺から距離を取る。
「な・・・何をした・・・の・・・?」
すまない。だが、俺は君に幸せになってもらいたい。
こんな根暗陰キャを友達とか言う程度の幸せではなく
もっと
広い世界で
幸せ
に
・・・
目の前にバカでかい猛獣がいる。
3mはあろうかという銀色の・・・狼だろうか。
代わりに彼女の姿が無い。
ということはこの獣は
「アオオォォォォーーーーーーーーーーーーーン!!!!!!」
遠吠えが響き渡る。
木々が風圧で揺れ動くほどだ。俺も飛びそうである。
そして再びの風圧。
咄嗟に目を閉じてしまったが、目を開くと目の前の木々がなぎ倒されている。
獣は居ない。
また、やってしまった。
幸せになれ位なら暴走しないと思ったが、考えが甘かったようだ。
幸せの形は人それぞれだが、彼女の内なる幸せは獣のように自由になることだったのかもしれない。
と思おうとしたが、遠くから悲鳴が聞こえる。
まっすぐになぎ倒された道の先には小さな家が幾つか見えた。
すぐ近くに小さな集落があったようだ。
「た、助けてくれぇ―!!!」
「女子供を避難させろ!!」
「うわぁー!!死にたくない!!」
惨劇だ。
流石にこれは前回の比ではない。
人が死ぬというか、喰われる。
俺は足元の悪い中、急いで集落へ向かった。
家々はなぎ倒され、畑は荒れ、火の手も上がっている。
子供の鳴き声と悲鳴がこだまする。
そして
当の獣は
少し離れた所で、女性に迫っていた。
生暖かい鼻息を浴び、小鹿のごとく震えている女性。
獣はその女性をべろりと大きな舌で舐めた。
流石に俺に責任がある。集落に血が見えないことからまだ誰も食われてはいないのだろう。被害ゼロで止めるために、俺は声を出した。
「あっ、だ、えっと、あ、っと、とまっ、あっ」
こんなところでコミュ障を発揮してどうする。
勇気云々以前に大きな声を出すのが久しぶりすぎて情けないことになってしまった。
しかし獣。耳はいいようで、橙色の鋭い瞳は俺の方に向いた。
向いた、と認識した。
気が付いた時にはとんでもない勢いで俺の方に向かってきていたのだ。
しかし目線が向いているならチャンスだ。
と、思っただろう?前回みたいに。
しかし人間は危機的状況で理想通りの動きなどできはしない。
震える手はポケットから五円玉を滑り落させた。
死んだ。
唾液でべとべとになった俺は、
獣を撫でていた。
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簡単に説明すると、どうやら彼女はただ人間に甘えたかっただけのようだった。
ただ催眠により極度に解放されたソレは「人間と異なる部分も愛してほしい」「種族問わず多くの人に愛してほしい」だけを強化し、家をなぎ倒してまで人間と触れ合おうとしたというわけだ。
グルグルと喉を鳴らす巨大な獣。
その様子を見る集落の人々。
獣を撫でる陰キャ。
なんだこれ。
とりあえずこれでは良くない。大きな鋭い瞳に五円玉を映すと、同様に催眠をかけた。
ーーー戻れーーー
小さな体の少女は、幸せそうな顔をしながらすやすやと寝息を立てている。
小さな手で俺の服の袖をつかみ、クゥクゥと寝息を立てている。
大衆の目線を集める中、俺は必死に彼女の身の潔白を証明しようとした。
そしてこうなった理由が自分にあるという事、彼女かただ愛されたかった事、話し合いによる協和を求めた平和主義者であることも、みんな話した。
スピーチは昔から苦手だったが、誰かの為にと思うと人は比較的流暢に口が回るものだ。
「その子が危険じゃないことはわかったが、村はどうしてくれるつもりなんだ?」
ある男から声が上がった。
それはそうだ。大切な集落が廃墟のようになってしまっているのだ。
俺に手持ちは無い。
そうだと思って俺はステータス画面を確認した。
催眠成功 50000経験値
強敵撃破 600000経験値
催眠成功は催眠をかける難易度に応じて変わるようだ。
さっき知った「経験値払い」の話を挙げる。修繕費ならいくらでも出すと伝えた。
頭を下げ、どうにか許してもらえないかと交渉し続けた。
ここが、新たな彼女のファミリーになることを信じて。
「あんたの気持ちはよく分かった。もう大丈夫だ。」
瘦せこけた老人が話す。
「鍛冶屋があんたの経験値をゴールドに変換してくれる。ウチは300経験値を1ゴールドに変換できるから、6000ゴールドで手を打とう。」
1ゴールドのレートはよくわからないが、それで話が丸く収まるならなんでもいい。
「獣人族の娘のことなら任せなさい。」
その言葉が、本当に欲しかった。
俺は彼女を起こさぬように上着を脱ぐと、鍛冶屋で経験値を換金し、足早に集落を後にした。
三十路陰キャはクールに去るぜ、というやつである。
とにかく元の世界に戻るために、俺は情報を集めなければならない。
特に目的地があるわけではないが、先を目指すことにした。
そして、服を脱いだ時に気が付いたことだが、クッソだらしない身体をしていた。
内臓脂肪は砕けない。