6.プチ冤罪は突然に
怪物に追われる俺は、櫻木と共に逃げていた。
まるでパルクールの如く俺達は障害物を飛び越え、方向転換を繰り返し、紙一重で怪物を避け続ける。
だが、何度目かの方向転換でいきなり櫻木が転んだ。
助けを求めて俺を呼ぶが、俺にはもはやどうすることも出来ない。俺は速度を落とす勇気もなく、彼の叫びから耳を塞いでただ走り続ける。
ありったけの罪悪感の中には、しかし怪物が櫻木を襲うことで止まってくれるのではという最悪な期待も混じっていた。
しかし油断する隙もなく次の瞬間、突如俺の足元には大穴が開く。
俺は声すら上げる間もなく、こんなことならせめて櫻木を助けて一緒に死ねばという淡い後悔と共に、俺はそれに呑まれた。
「――うおっ!!」
弾かれるように俺は飛び起きる。辺りを見回すこと二度、三度。俺はようやく安堵のため息を吐いた。
「なんだ、夢かよ……」
就寝に至った記憶は無いが、大広間のソファに横たわっていたということは捜査中の寝落ちではなく自主的に寝たのだろう。その証拠に、巨大なガラステーブルを挟んだ向かいのソファには未だスヤスヤと寝息を立てる探偵の姿がある。
「むにゃ……パスください、パス」
「こいつさてはチュックボールの夢見てやがるな……」
呑気に熟睡する探偵に呆れながら、俺は顔でも洗おうとソファから足を下ろす。寝覚めの体操がてら腰を捻ってグキグキと鳴らし、首を捻ってボキボキと音を鳴らし、ついでに指をポキポキ鳴らしてから改めて洗面所へ向かおうと足を踏み出したところで、俺は突如天才的な閃きを得た。
「――今の間に、あの部屋のアタッシュケースを何処かに移しちまうか……いや」
一瞬天啓にすら思えたそれは同時に、しかし悪魔の囁きでもあることに俺は気付く。
隅から隅まで探して空振りだった大広間や天海の部屋に移すというのはいくら何でも怪しすぎるから、もし移動させるとすればその候補は昨日俺達客人が使用していた部屋か、天海夫人及びメイドや執事の部屋のどれかとなるだろう。
つまるところ、これは特定の誰かに罪を擦り付けるも同然の行為なのだ。
「……やっぱダメだな、危険すぎる。やめとこう」
葛藤の末、俺は呟く。
運搬中に探偵が起きたら一巻の終わりなのだ、バクチにも程がある。泣く泣く俺は降って湧いたそのアイデアを捨てることに決めた。決して先程見た勧善懲悪のお手本みたいな悪夢にビビった訳ではない。決して。
俺は頷きながら、俺は元々顔を洗うのが目的だったことも忘れてソファにまた体を沈める。
だがその直後、隠蔽工作を諦めた先刻の俺の選択は正しかったと知った。
「おはようザマス」
「……っ、おはようございます」
吉祥寺にすら五人いるかどうかクラスの、かなり特徴的な語尾が背後から響く。俺が驚きながら振り向くとそこには予想通り天海夫人、すなわち天海紗栄子の姿があった。まぁ、それはそうだろう。俺が知っている人間のうちこの語尾を持つ人間は彼女かスネ夫ママだけである。
喪服に身を包んだ彼女は、相変わらず深い眠りの底に居るらしい探偵を困った顔で一瞥してまた俺に視線を戻す。留守中に入ってこの我がモノ具合の占領はちょっとよろしくなかったかな、と俺は少し反省した。
「……ええと、お帰りになっていらっしゃったんでございますね?」
「ええ、先程ザマス。通夜が明けて一段落したので私だけ先に探偵さん達の様子を見に行こうと思ってザマス。多分もうすぐ執事もメイドも帰ってくるザマスが」
微妙におかしい敬語で尋ねると、ザマスザマスと彼女は答えたザマス。なんだかずっとこれを聞いていると、俺自身も執事になった気分であった。
……にしても、彼女が入ってくることに気付けなかった程俺も眠りこけていたのか。
或いはただ単に、うなされている間に彼女が入ってきたのかもしれないが、いずれにせよ体力的にも精神的にも少しキテいるのは確かなようだった。
まだ初日が終わっただけだ、しっかりしろと俺が内心喝を入れていると、彼女はそんな俺に不思議そうな様子で尋ねる。
「――それにしても、探偵さんから連絡は頂いたザマスが、鍵がなくても大丈夫だったとはどういうことザマスかね?」
「えっ……と、それは」
頬を掻きながら、思わず視線は夫人から無意識に逸れて宙を彷徨う。
まさか俺達の滞在中に彼女が帰ってくるとは想定していなかったから、その言い訳は用意していない。焦った俺はしどろもどろになりながらも、口から出任せを言った。
「そう、玄関! 玄関の鍵が開いていたんですよ。いけませんよ奥さん、最近は物騒なんですから」
「まぁ! そうだったザマスか。昨日は執事の鷹崎が玄関の鍵を持っていたのに、全く……」
やべ、今度は俺が冤罪事件作っちまった。せめて鷹崎がクビにならないよう、俺は心の中で祈りを捧げる。
と、噂をすればなんとやら。俺と夫人がそんなやりとりをしている間に遠くからガチャリガチャリと小さな金属音が二度鳴る。それから重い音がして、何やら玄関からは話し声が聞こえてきた。
「ちょうど鷹崎とメイドも帰ってきたみたいザマスね」
「……あの、あまり鷹崎さんを責めないであげてくださいね」
心配になって俺が小さく言うも、聞こえなかったのか彼女はゴゴゴと地鳴りが聞こえてきそうな仁王立ちに腕組みの姿勢で、大広間に現れるであろう彼らを待つ。
やがて視界にゆっくり開く大広間の扉を認めた瞬間、恐怖のあまり俺は目を瞑ってしまった。
「――いらっしゃしゃいザマス!」
しかし夫人の口から飛び出したのは、およそ叱責とは思えない陽気な声。驚いて目を開けると大広間の入り口には、なんと一昨日のパーティにも参加していた例の貿易業の二人が立っていた。
探偵が言っていた名前は確か……田辺と、森本だったか。
当然とはいえ二人とも喪服に身を包んでおり、一昨日の派手な姿とは服装も髪も全くの別物である。いや、流石に田辺のスキンヘッドは変わっちゃいないが。
「聡太さまのお葬式があるとお聞きして、駆けつけてくださったそうで」
田辺の巨体の後ろから、同じく黒服の小柄な老人が姿を見せる。もっとも小柄なだけで背筋はきっちりと伸びており、どこか歴戦の兵士の如きタダモノではなさげなオーラすら纏った男であった。
「まぁ! 嬉しいザマス。あ、そう鷹崎、玄関の鍵閉まってなかったらしいザマスよ。気をつけるザマス」
「も、申し訳ございません!」
先程見せた仁王立ちからは想像もつかない軽いテンションで、彼女は執事を窘める。しかし鷹崎のビビりようからして、恐らくは先程までの仁王立ちの方がデフォルトの説教スタイルらしかった。
「よくいらしてくれたザマス。ただ、なんでも最近亡くなられた方が多い関係で式場で葬式の用意ができるまでの待ち時間が結構長くなってしまうらしいザマスから、一旦お茶でも飲んでゆっくりするザマス」
「あぁ、そうでしたか。それではお言葉に甘えて……」
「はい、お邪魔しますね」
夫人の誘いに、田辺と森本はぺこりと頭を下げる。そしてその背後で、執事の鷹崎はひっそりと首を傾げていた。
「しかし、そもそも玄関はオートロックだったような……?」