31.Another one……
「――あの」
背後で、おずおずと手が挙がった。
「私達、もう帰っていいですか?」
そう口にしたのは森本美樹である。俺がアクリル壁から振り向くと、彼女は目を合わせずに続けた。
「そこの、桜木さんが強盗事件の犯人というなら。もう残された私達は何の関係もないじゃないですか」
時間は大丈夫、と聞いていたはずであるが。彼女は露骨に帰りたげな様子であった。それには田辺や夫人も困惑したようで、無言のまま森本の方を見ている。
「しかし、興味ありません? 桜木が犯人であるなら、一体天海を殺したのは誰であるか」
「それは……」
「少なくとも、私は気になるザマスね」
言い淀んだ森本を遮ったのは夫人であった。それに田辺も頷き、森本は予想外の孤立に慌てたような表情を見せる。
「で、でも」
「すみません。もう少しだけ、待っていただけますか?」
「ねぇ、こっちこそ待ってよ」
呼んだのは桜木であった。俺はまたも振り向き、結果として最初の姿勢へと戻る。
「僕との勝負は終わっていないでしょ」
「あれじゃあ不満か?」
「不満だね、これじゃあまだ50点だ」
椅子の上で、桜木は苛立ったように言う。50点と評価した彼は強がりや足掻きではなく、本気でそう言っているらしかった。
「僕が春日商事の清掃員であったのは認めるよ。だから、監視カメラも金庫の暗証番号も簡単に知り得た……でも、そこまでだ」
「つまり?」
「それは要するに、あの日僕が君と同じ条件にあったってだけだろ? やっとここでスタートライン、対等な立場だ」
そこまで言って、桜木は一瞬考える仕草を見せる。それからまた笑顔に戻ると、少しだけ挑戦的な口調に変わった。
「それに僕が犯人だったなら、留置所で拘束されている状況でどうやって外にいる君を殴ったと言うんだい? そういう意味では対等どころか、君の方が未だに不利であるといえる」
「……やっぱり、まだ犯人とは認めない?」
「無理だよ」
手を合わせ、半ば懇願するよう俺は片目をつむって尋ねる。だが、彼はにべもなく首を振った。
「だよなぁ……俺と違って社員であることを隠していたからお前が犯人、なんてのもダメ?」
「ダメだよ。春日商事の社員だと知れたら疑われると思ったから、なんて言っちゃえばそれでおしまいでしょ……どうしたの、島村。まだそこまでは辿り着いていないのかい?」
彼の言葉に、俺はかぶりを振る。
「そうじゃねぇよ。まだ推理は終わっちゃいねぇ」
「けれど、随分歯切れが悪いね」
「あぁ。ぶっちゃけ話したくない」
桜木の言葉に、俺は言葉と裏腹にニヤリと笑う。桜木はその言葉の真意を掴めず眉を顰め、探偵もまた訝しむように首を傾げた。
「正直、ここから先の話はせずに終わりたかったよ。だから探偵にも言って無かった……こうなった以上は、もう腹は括ったがな」
探偵の方へ視線を移すと、彼もまたコクリと神妙な表情で頷く。伝えてこそいなかったが、どうやら彼にはもう俺が何を言わんとするか見当が付いているらしかった。
「桜木、ここまでの振り返りだ」
鼓動が速くなる。
体温が少しあがり、浮遊感が全身に駆け巡る。それでも俺は努めて、落ち着き払った声で言った。
「春日商事を襲った強盗犯は、天海の拳銃を所持しており、そして春日商事の内情に非常に詳しかった。この条件に合致するのは、マーケティング部のヒラ社員である俺だけと思われていたが――」
「実は僕もその会社の清掃員アルバイトであり、その条件は満たしていた」
「そう。つまりこの時点で、俺とお前どっちかが犯人ってことになる」
「そりゃそうだ」
分かりきった確認に、辟易したと言いたげに桜木は首を振った。だから俺は念押しするように、人差し指を立てて続ける。
「つまり……逆に俺が犯人じゃないという証明をしても、消去法でお前が犯人と言えるよな?」
「……何が言いたい?」
彼の問いには答えない。代わりに俺は背後へ振り返る。ここからの推理は、桜木ただ一人へ向けたものでは無い。俺は最初と同じように、また円の中心へと戻って笑みを浮かべた。
「さて、そんじゃま推理に戻りましょうか。桜木圭人が犯人であるとする証拠……というよりもさっき言った通り、どっちかってっと俺が犯人でないという証拠ですけど、それを今から説明します」
明るく言うと、その場には微妙な空気と沈黙が舞い降りた。返事も拍手も何も無い、困り顔の彼らへ向けて俺は少しだけ声のトーンを上げて訊く。
「まず、皆さん。実は、あの日起きた事件は、天海聡太殺害事件と春日商事強盗事件だけでありません」
「……そりゃあ、世界中で事件は起きてますけど」
「いや、そういう意味と違くて」
ボケか天然かも分からない、ピントのズレた森本の相槌に俺はすかさずツッコミを入れる。それから彼女に右手を向けると、俺は尋ねた。
「俺達の周囲で、もう一つ事件が起きていたんですよ。なんだと思います?」
「……さぁ」
怪訝な顔で首を振る森本に、俺は頷いて手を斜め上にスライドさせる。
「田辺さんは?」
「いえ。私にも分かりません」
「じゃ、鷹崎さん」
「分かりません」
「神原ちゃん」
「キモイからちゃん付けで呼ばないでくださぁい」
「紗栄子さんは」
「分からないザマス」
反応は皆一緒であった。いやなんか途中ちょっと違うのがあった気もするけれど、とりあえず俺の想定していた答えは帰ってこなかった。
「桜木。お前は?」
「……君が殴られた事件のことかい?」
分かりませんと答えるのは余程癪だったのだろう。桜木は疑問形で答えた。それに俺は意地悪く、鼻で笑って手を振ってみせる。
「ハズレ。てかそれ、強盗事件の日に起きた事件じゃねぇよ」
「そうかい」
「島村さん、答えはなんなんです?」
探偵が脇から催促する。もう少し勿体ぶりたい気持ちもあったが、俺はそれに素直に答えることにした。
「なに、拳銃窃盗事件ですよ」
「あぁ、そういう……いや、しかしそれは少しズルい質問では」
探偵は一度は手を打ったものの、即座に首を傾げて俺に抗議の姿勢をとった。桜木と同じく、彼も正解を読めなかったことが相当悔しかったらしい。
「盗まれた拳銃で強盗事件が行われたのですから、二つの事件はセットでしょう。別の事件というのは、少し無理矢理なような」
「探偵」
言葉を遮り、俺は探偵を呼ぶ。
「質問だ。天海はいくつ拳銃を密輸していた?」
「……アタッシュケースから見付かったのは、一つだけですが」
その答えの歯切れは悪い。『見つかった数』と強調したあたり、どうやら彼も俺が言いたいことを理解し始めているらしかった。
「警部さんでもいい。奴は何丁、密輸していたんです?」
「……天海の密輸が発覚したのは海外の密輸グループを摘発した際、顧客リストに奴の名前があったからだ。天海自身がグループからいくつ買っていたか、細かい数字まではわからん」
「わからん、ということは一丁じゃないかもしれないってことですよね」
聞き返すも、警部は顔を顰めるのみで答えない。しかしそれは、何よりも雄弁な肯定であった。
「ま、俺は密輸した事ないから詳しい所までは知りませんけど……いくら趣味のためでも、拳銃一丁だけ輸入ってのは普通無理なんじゃないですかね。ほら、ヤクザ漫画とかでも麻薬なんかは数トン単位で取引してますし」
「……つまり?」
「拳銃は複数丁あった可能性がある。十か百か、明確な数は分からねぇけどな」
そんな、と呻くように呟いたのは探偵である。しかし同時に、彼はどこか腑に落ちたような表情をしていた。
その表情の理由は大方見当がつく。彼もまた、拳銃の数には疑問を持っていたのだろう。だからこそ、病院で連絡を受けた際も『いくつ?』などと拳銃の数を尋ねていたのだ。
反論が現れないことを確認して、それから俺は論を進める。
「――で、だ。もし仮に強盗に使われたモノ以外の拳銃があったとして、そいつらはどこに行ったんだろうな?」
「……貴方、まさか」
「あぁ。あの日、天海の部屋から拳銃を持ち出したのは強盗犯だけじゃねぇ」
沈黙。誰もが口を閉ざし、その事実に衝撃を受ける。
その静寂はこれまでに何度もあった筈なのに、今までのどれよりも重く、静かであった。
「もう一人。この中に、天海の密輸拳銃を持ち去った人間が居るんだよ」