30.真犯人vs真犯人
裂かれた紙は、ヒラヒラと地に落ちて動かなくなる。
その様をゆっくり見届けると、櫻木……いや、桜木圭人は全てを知っているにも関わらず、まるでその場の人間の感情を代表するかの如く静かに尋ねた。
「名前に使えない言葉、ね」
「あぁ、人名の漢字はなんでも使えるわけじゃねぇ。法務省……だったっけ? とにかくお偉いさんが定めた文字しか使えねぇんだよ」
省庁の名前に確信が持てず、横目で探偵の様子を伺いつつ俺は言う。コクリ、静かに彼が頷いたのを確認して俺はホッと胸をなで下ろした。どうにも格好の付かない探偵役である。
「薔薇や檸檬なんてのはその一例だ。そんでもって、お前の珪って字もな。だから――」
引き裂かれ、地に落ちた珪の字を俺は爪先で軽く踏みにじる。クシャリ、と上質なコピー紙の音が小さく響いた。
「――有り得ねぇんだ、櫻木珪人なんて名前はよ」
「島村。それを言うために、さっきわざわざ下手な演技までして皆に訊いてみたのかい? 随分と演出好きだね、探偵さんの性格が伝染ったのかな」
桜木はガラス越しに皮肉げに笑う。それは負け惜しみではなく、心から呆れているらしかった。
そんな彼に向かい合い、俺もまた呆れたと言わんばかりに首を振る。
「ま、大学時代からずっと騙され続けていた俺も俺なのかもしれねぇが……つっても普通は住民票や免許証なんて見せながら自己紹介しねぇし、読みは本名と同じなんだから何かの拍子にそっちの名で呼ばれてもバレる心配は少ない。普通はまず気付けねぇよ」
というか、そもそも友人の名前が偽名かもなんて疑わねえしな、と俺は付け加える。そんな俺へ対して彼は少しだけ眉間にシワを寄せ、先程の俺と負けず劣らず大根な演技で考えるフリを見せた。
「うーん……20点かな」
「は?」
「20点。それじゃあまだ認めてあげられないな」
もはや、自らが真犯人であることを隠すつもりは無いらしい。桜木はニコニコとしながら、細長い人差し指を交差させて小さくバツの字を作った。
「うん、櫻木珪人の名が偽名なのは認めよう。でも、だからといって僕が清掃員の桜木圭人と同一人物っていうのは些か早計過ぎやしないかい?」
「……」
「確かに僕は君の前で何度か本名を呼ばれる機会があった。それこそ大学なんかは入学時に身分証を提出しないといけないから、教授からも本名で呼ばれていた。だから、僕の本名が偽名と同じでサクラギケイトという読みである、という所も合っている」
でも、さ。
彼はぽつり呟く。それから人差し指のバツ印を解除して、目の前のアクリル板にいくつかの文字を逆文字で書いてみせた。
「だからといって僕が春日商事の桜木圭人と同一人物であるということにはならないだろう。僕のサクラギケイトという名前は桜城恵人かもしれないし、或いは咲羅来敬斗なんて字かもしれない。そこについての説明が足りていないよ」
「……ははっ」
「うん?」
「いや、お前なら絶対そこを指摘すると思ってたんだよ。やっぱり長い付き合いなんだなと実感してさ」
彼の反撃に、俺は思わず笑みがこぼれる。それは決して無駄な抵抗への嘲笑ではなく、むしろ彼が依然旧友としての彼のままであるのことに対する、安堵の感情であった。
「櫻木。今お前、自分で言ったよな? 大学には本名を登録していた、って」
「……」
それは失言であったと気付いたらしい。彼は硬直し、強ばった表情を見せる。しかしそれも一瞬のことで、直ぐにまた張り付けたような笑顔へと戻った。
「ああ、言ったね。けど、もう僕達が卒業して何年も経つ。名簿のデータなんてほとんど残ってないんじゃない?」
「ま、そうだな。というか仮に残ってたとしても、生徒の個人情報をそう簡単に見せてくれるとは思えねぇ」
桜木の言葉に同調しつつ、俺は探偵から筒状に巻かれた一枚の紙を受け取る。上質なそれは、純粋な真っ白ではなく少しだけ黄色っぽい色を持っていた。
「でもよ、サークルは違った」
「……」
「桜木。お前、今『サークルには偽名の方を通していたはず』って思ったろ。それ自体は合ってるよ、だからサークルで出会った俺はお前の偽名を今まで信じこんでいたわけだしな」
ポン、と紙筒を左の手のひらで鳴らすと、桜木は訝しむような表情を見せる。だったら何故、と彼の言葉が聞こえた気がした。
「なぁ。お前確かフィーエルヤッペンの大会で優勝したことあったよな?」
「……ある、ね。在籍中に、確か僕と君は一回ずつそれぞれ優勝したはずだ」
「あぁ。そして優勝者には当然ながら表彰状が与えられる。そいつの名前が書かれた、な」
彼の血相が変わる。と同時に立ち上がり、そして俺の掲げるその紙を更に強く凝視した。
「サークルには偽名で通していたみたいだが、どうやら表彰状には大学の名簿が反映されたらしいな――優勝者、桜木圭人くんよ」
「……っ」
丸めたそれを、一気に広げる。
その名前の欄にははっきりとした行書体で、桜木圭人と書かれていた。
沈黙。
呼び出されたにも関わらず、半ば部外者にも近い扱いと化している天海館の人々を始め、警部も探偵も、この場にいる誰もが口を開かなかった。
しかしやがて、桜木の瞳孔が少しずつ縮み始める。と同時に、彼の口角はほんの小さく上がった。
「……いや、島村」
「なんだ」
「僕、言ったよね。探偵は犯人を罠にかけちゃあいけないって」
「あぁ、言ったな」
俺の返事に、桜木は大袈裟に脱力して肩を落とす。それから今度は困り眉の笑顔になると、ゆっくりと俺の持つ表彰状を指した。
「だからさ、やめなよ。そんなニセモノを使うのは。だって――」
「本名が書かれたものは全て犯行前に処分したはずだから、そんなものが残ってるワケ無いってか?」
ちょいと紙を上げて笑ってみせると、桜木は対象的に笑みのまま凍りつく。そこまで知って何故、俺が余裕綽々の態度であるか、全くもって理解出来ないようであった。
「なぁ、知ってるか? 大学とか高校ってよ、歴代部活動のトロフィーとか賞状を飾ってることが多いだろ? アレってよ、貰った学生が寄贈してるわけじゃねぇんだ」
「……まさか」
「気付いたか? 元々賞状は二枚あるんだよ。優勝者に渡すものと、大学に贈られる展示用のな」
少しだけ、俺は声の勢いを強める。と同時に、俺は自分がべっとりと汗をかいていることに気付いた。
――唖然。
彼は今度こそ余裕の姿勢を無くし、全くの感情が読み取れない表情で固まる。
けれど、それすらもまた一瞬であり。次の瞬間に桜木はそれでもまた、いつものような笑顔を浮かべた。
「……凄い。いいよ、認めよう。僕の本名は確かに桜木圭人だ。まぁ、それでも春日商事の清掃員である桜木圭人とは同姓同名なだけで同一人物とは限らない、なんて抵抗はできるけれど……流石にみっともないからそれはやめておくかな」
パチパチ、と心から感激したように彼は拍手をする。その言葉に、俺はいつの間にか緊張で張っていた筋肉を弛緩させつつ確認した。
「春日商事の清掃員だったと、認めるんだな?」
「そうせざるを得ないだろう? そんな決定的な証拠を見せられちゃね。でも――」
「――よっしゃあ!!」
言い終わる前に、俺は腹から歓喜の声を上げる。それから先程春日商事の名簿にやったよう、両手で思いっきり表彰状を引き裂くと、呆気に取られている桜木に向かって手を合わせた。
しかし底抜けに明るい声で、俺は頭を下げる。
「悪い。実はコレ、偽物なんだよ」
「……は?」
「表彰状が展示のために二枚用意されるなんて嘘っぱちだ。証拠を集めに大学まで行ったはいいが、名簿なんか見せてくれるはずもなく門前払いされてな。挙句の果てにフィーエルヤッペン部はその競技のマイナーさ故に二年前に廃部ときたもんだ。仕方がないからそれっぽく自作したんだよ、自分の表彰状を真似てな」
すまん、と俺はもう一度深々と頭を下げる。しかし固まったままの彼は、あんぐりと口を開けて立ち尽くすままであった。
「実際、お前の貰った表彰状に書かれた名前がどっちだったかは知らん。というか、サークルで参加してるんだから偽名の櫻木珪人名義である可能性のが高い。けどよ、お前はこれを見せられて思ったはずだ」
その姿勢のまま、俺は地面に向かって語る。それは勿論禁じ手に頼ってしまったことに対する謝罪の意もあったが、同時に緩みきった口元を隠すためでもあった。
「もしかしたら、あの賞状には本名が書かれていたかも知れない……ってよ。そりゃそうだ。普通表彰状なんかまじまじと見返さねぇもんな。表彰されたのだって何年も前の事なんだから、そう思って当然だ」
「……残念だよ、島村。僕は信じてたのに」
俺の言葉には答えず、ただただ彼は失望したと言わんばかりに首を振る。負け惜しみにも取れる発言であったが、どうやら彼は本気で残念がっているらしかった。
「こんな嘘をつくなんて。島村、君は探偵の器じゃないみたいだね」
「は? そりゃそうだろ。言っとくが俺はただの探偵『役』だ、本職はアッチ」
思わず、俺は傍らの探偵を指しつつ下げていた頭を上げる。だが俺から視線を逸らすことなく、探偵役とポツリそのワードを繰り返した桜木に、俺はゆっくりと深く頷いた。
「お前、確かこうも言ってたよな。『何でもありが許されるのは犯人だけだ』って。だったら安心しろよ」
つかつかと、俺はアクリル壁へ歩み寄る。それから片手をついてそこにもたれ掛かると、この場でただ彼だけに伝わるよう、声のトーンを一気に落として言った。
「――俺も、お前と同じ真犯人だからよ」