25.明日に備えて、探偵事務所
BMWが静止し、サイドブレーキがギリリと上げられる。扉を開けて降り立ったその上空には、東京とは思えない満天の星空が広がっていた。
「――やぁ、綺麗なうみへび座ですね」
「なんでちょっとニッチな星座褒めたんだよ」
普通にさそり座とか夏の大三角とかだろ、と、俺は髪を掻きあげながら言う探偵に困惑しながらツッコミを入れる。それに探偵は微笑みだけで応え、道路を横切った先にある建物へと早足で向かった。
建物はそれほど巨大ではない。せいぜい二階建ての、いわゆる一般的な一戸建て住宅とさほど変わらないサイズであった。
気になるところがあるとするならば、やたら建物の外見がデコボコとしている事くらいだろうか。今をときめく新進気鋭の若手芸術家が建てた博物館です、などとナレーションが入ってもおかしくない程に、なんともイビツな形をした建物であった。
「これ、外見は私がデザインしましてね」
「あ、今ので一気に腑に落ちたわ」
「うん?」
「いや、こっちの話」
手を振って誤魔化すと、探偵は気を取り直してといった様子で門扉の前でこちらを向く。その勢いで、コートの端は円を描くようにふわりと一瞬浮いた。
それからキザったらしいお辞儀を見せると、不敵な笑みを浮かべて彼は言う。月下、その姿はなんともサマになっていた。
「――ようこそ、服部探偵事務所へ」
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重厚な扉を開けると、玄関など何も無くそこにはいきなり応接間が待ち構えていた。
とは言っても当たり前である。何度も言うが、ここはただのド派手な一軒家ではなく探偵事務所なのだ。
「お、お邪魔します」
言いながら俺は客用らしきソファに腰掛ける。刹那、天海館の一件がフラッシュバックしたが、当然ながら体重をかけたところでケツがアタッシュケースを掘り当てることはなかった。
「なぁ。一日だけとはいえ。本当に泊まってって良いのか?」
「ええ。どうせ、眠っている間も見張りの役目を果たさなければなりませんし」
その割にはこの男、天海館で俺より遥かに熟睡していた気がするのだが。首を傾げる俺に、探偵は笑った。
「そんなわけですから、遠慮なくどうぞ」
「じゃ、お言葉に甘えて」
それだけ言って、肺の空気を吐き出しつつ俺は更に深くソファへと沈む。と同時に猛烈な眠気が襲ってきたが、残った理性がすんでのところで意識を保とうと奮闘していた。
「……お前、普段この一人でこの事務所回してんのか?」
「ええまぁ。出来るものなら一人くらい助手を増やしたいと思っていますが、中々集まらず」
眠気に負けぬよう探偵に雑談を振ると、探偵はコートを脱ぎながらそう返事する。重い瞼に遮られて姿は見えないが、どうやら探偵は移動して俺の向かいに座ったらしかった。
「そんなことより。貴方、明日はいよいよ最終日ですが……証拠を掴む算段はあるのですか?」
「ねぇよ」
眠気のせいか、普段ならプライドが邪魔したはずの弱音がするりと口から漏れる。だが、それを今更取り繕うつもりにもなれなかった。
「あれだけ決め打ちしようとしておいてなんだが、そもそも櫻木が犯人かも分からん。留置所からひっそり抜け出して俺をぶん殴るなんざ、普通に考えて無理だろ」
「ふむ」
探偵の相槌は短い。だが声音から察するに、興味がないという訳ではないらしかった。
「……だから、明日はまた天海館に行こうと思う」
「うん? 今の話の流れですと、櫻木ともう一度面会するのかと思っていましたが」
「あいつに直接聞いても、これ以上ヒントはくれねぇだろ」
それは犯人であろうと、なかろうとである。探偵は黙り、代わりにズズッと音が聞こえた。どうやら珈琲か何かを飲んでいるらしい。
「春日商事も何も残ってなかったしな。消去法で、天海館だ」
「そうですか」
また啜る音が聞こえる。探偵に言って俺の分も淹れて貰おうかと思ったが、そのために声を上げるのすら億劫な程に眠気は俺の中で肥大していた。
「……お疲れのようですね」
「ああ」
徐々に、思考も発言も曖昧になってくる。そんなことは有り得ないはずだが、まるでソファに全身が呑み込まれていくようにすら錯覚していた。それほどまでに、感覚と意識が乖離し始めていたのである。
そうして止まりかけた脳で、俺はぼんやりと考える。
明日訪れる天海館は、既に俺と探偵の二人ともが一度は捜査し尽くしている場所である。当然空振りに終わるかもしれないし、むしろその可能性の方が遥かに高いとまで言える。
しかし一方で時間は待ってはくれない。明日、あの警部は今度こそ俺を捕まえるだろう。そこでもう一日の泣き言なんて、聞き入れられるはずがない。
――もし、明日何の手がかりも得られなかったら。
もし、五人も殺した強盗殺人の罪で捕まってしまったら。
その先は考えたくなかった。
考えたくなくて、考えるのをやめて。
そのうち、俺は眠っていた。