23.解答《アンサー》は、途中式よりも先に
櫻木の感情は読めなかった。
けたたましく鳴り響くブザーの中、俺はわざと呑気な態度で伸びをする。櫻木も蒸れたのか、ヘルメットを外して頭を掻いていた。
「……そうなのか? 櫻木」
「とりあえずブザー、止めてよ。うるさい」
「あぁ、そうだな」
パソコンのワイヤレスマウスを触り、同時にブザーを止める。櫻木はそれを見てから、がくりと落胆するようにため息を吐いた。
俺はマウスから手を離し、また櫻木へと向き直る。
「で、だ。もう一度訊くが櫻木。お前、やったのか?」
真剣な表情で、俺は櫻木の顔を見つめる。声は努めて抑えていたが、緊張のあまり今にも震え出しそうであった。
櫻木は俺には答えない。
代わりに、やけに大きな声で言った。
「島村。君は『ノックスの十戒』って知ってるかい?」
「……あん?」
「要は推理小説における禁忌だ。現実世界で言い換えれば、捜査や犯行でやっちゃあいけない禁じ手みたいなものだね」
彼は既に、ヘルメットを置いていた。
この場において優勢であるのは俺であるはずなのに。今の櫻木には何故だか言葉を挟ませることを許さない、ある種の威圧感のようなものがあった。
「文字通り十個、禁忌はある。たとえばその四は『未発見の毒薬、難解な科学的説明を要する機械を犯行に用いてはならない』だ。彼は犯行と言っているが、捜査にだって同じことが言える」
櫻木は置いたヘルメットを指差しながら、俺に言う。言葉だけを聞けば、嘘発見器などという推理小説ではまず有り得ないような反則技を持ち出した俺への批判であったが、しかし彼の目はそういうことでは無いと語っていた。
「僕はね。このノックスの十戒に、前々から一つ付け加えたい項目があると思っていてさ」
櫻木は、そう言いながらおもむろにまたヘルメットを被る。今度は顎紐までしっかり付けると、はっきりと優しい声音で言った。
「たとえば……そうだね。僕の昨日の晩ご飯は、魚定食だった」
ブザーは鳴らない。ただ、水を打ったようにしんと静まり返っていた。
「鳴らないね。いや、鳴らせないか。昨日の僕の食事なんて知らないでしょ?」
俺は何も答えられず、ただ目を伏せる。それは親に叱られると悟った時の、あの思考がぶっ飛ぶ感覚にも似ていた。
「ノックスの十戒に僕が付け加えたいこと、それはね。『探偵は、犯人を罠に掛けては行けない』だ」
「……っ」
「罠や嘘、ミスリード。そんな何でもありが許されるのは犯人だけ。探偵は正義の味方なんだから、ズルなんてしちゃいけないよ」
櫻木はにこやかな笑顔で、俺の腕を指差す。対する俺は探偵役であるにも関わらず、むしろ犯人のようなセリフを吐いた。
「いつ、分かった?」
「ええとね。実はさっきの株の話、嘘なんだ」
あっけらかんと言われ、俺は無意識に自分の瞳が開いたのに気付く。
「ホントに心当たりが無かったから、試しに適当に出任せを言ったんだ。けれどブザーは鳴らなかった。あの時もまだヘルメットは被っていたのにね」
彼はヘルメットを脱ぎ、クルクルとそれを指先で回す。数回転したところでそれは指からすっぽ抜け、机に硬い音を立てて着地した。
「じゃあ、その後知らないつって急に焦り出したのは」
「警告音をどこで鳴らしてるのか確認したくてね。立ち上がって身を乗り出したら、ギリギリ君が握った防犯ブザーが見えたんだよ」
「……なるほど」
「言ったろ? 君は嘘をつくのに向いていないって」
「参ったよ。俺の負けだ」
降参宣言と共に、俺はゆっくりと握った小石サイズのそれを出す。中心のボタンを一度強く押すと、先程から何度も聞いた警告音がまたやかましく鳴った。
「考えたね。ノートパソコンもヘルメットも、全てはダミー。容疑者全員に、犯人かを尋ねてブザーを鳴らすつもりだったんだろ?」
「あぁ、ローラー作戦って奴だ。もっとも一人目のお前でバレちまった以上、ローラーは成立しないからもうこの手は使えねぇがな」
これ以上無いほどの、完敗だ。
潔く、俺はパソコンまでもを片手でひっくり返して櫻木に向ける。そこにはただ、スクリーンセーバーのカラフルなロゴが踊っていた。
櫻木は顔上げて、俺の背後へと視線を移す。いつの間にやら探偵は俺のすぐ近くまで迫っていた。
「探偵さん。これはあなたの作戦ですよね?」
「どうでしょうか。貴方の仰っていたラテラルシンキング、という観点ではむしろ島村さんの方が考え付きそうではありますが」
「島村なら、こんな杜撰なものじゃなくもっとバレにくい手を使いますから」
「おやおや、これは手厳しい」
二人は互いに笑顔であった。
しかしその目は笑っていない。むしろ青い炎の如く、静かな熱を持って相手を見詰めていた。
そうして探偵と相対する親友は、まるで俺の知らない人間のようであった。猛烈な、しかし言葉にできない違和感に俺は鳥肌がぞわりと登ってくるのを感じる。
「……島村さん、そろそろ我々は撤収するとしましょう。すっかり面会時間も過ぎてしまっています」
先に目線を切ったのは探偵であった。俺を一瞥して、それからチェーンの付いた金の懐中時計を取り出す。そんな探偵に何を言って良いかも分からず、俺は無言で手早く機材を回収して立ち上がる。ヘルメットだけはアクリルに阻まれ回収出来なかったが、まぁ勝手に向こうで処分してくれることであろう。
ぺこりと軽く頭を下げ、櫻木から背を向ける。と、そのタイミングで彼の声が背中へ飛び込んできた。
「もし、僕が犯人だったなら」
振り向くと、彼は今度こそ笑顔であった。
正真正銘、間違いなく大学時代の櫻木珪人がそこには立っていた。
彼は、笑顔で続ける。だけどもその声は、恐ろしく冷たかった。
「こんな引っかけみたいな真似じゃなくて、正々堂々と謎を解いて捕まえて欲しいって思うよ。せっかく、わざわざここまでしたんだからさ」
「……櫻木?」
まるで、それは犯人から探偵への挑戦状のような。
そんな櫻木の言葉に、彼が遠く離れてしまったように錯覚して思わず名を呼ぶ。すると、櫻木はもう一度にこりと微笑んだ。
――俺と櫻木は、親友である。
いや、そこには本来ならば天海も含まれるか。俺達三人は正しく以心伝心と言って良いほどに、心の通じあった仲であった。
だからこそ、だ。
「……あ、もちろん僕は犯人じゃないけどね」
白々しく笑う彼のその言葉が嘘であることは、本物の嘘発見器など無くとも明らかであった。