1.冤罪は天下の回りもの
完璧な推理だった。
反論の余地など微塵も残さない、完全無欠の名推理。その披露を終えた探偵は、革手袋に包まれた指を一人の男へと向けた。
「……以上がこの天海館のオーナー、天海聡太さんが殺害された密室事件の真相です。あなたが犯人ですね? 櫻木珪人さん」
言葉と同時に、櫻木と呼ばれた男は声も無く崩れ落ちる。
事件の幕切れの合図は、とても静かなものであった。
「連れてけ」
恰幅の良い警部が指示を飛ばすと、二人の部下が素早く彼に手錠を打ち外へと連れ出して行く。探偵はそれを無表情で見送ると、やがて嘆くように小さく呟いた。
「――罪を犯す人は、罪の奴隷なり」
新約聖書の一文と共に、推理劇の舞台となった応接間には沈黙が訪れる。天海夫人も、メイドも、執事も、そして天海の友人として彼の誕生パーティに呼ばれていた俺達客人までもがみな、俯いて一言も漏らさなかった。
きっと誰もが天海を偲び、そして犯人とされた櫻木の姿を思い返しているに違いない。
少なくとも俺――島村幸次郎は、そうであった。
旧友だった櫻木が、警官二人に連行されていく数十秒前の映像が蘇る。警官に挟まれた彼は虚ろな目で、違う、違うと震えるように唇を動かしていた。
無理もない。
だって天海を殺したの、あいつじゃなくて俺だもん。
**
密室トリックなんか、仕掛けた覚えはない。
現場が密室になった理由はドアの鍵が古びていたからであり、逃げる際に勢い良く扉を閉めたら偶然鍵がかかっただけの話である。ハンガーと磁石を使った遠隔操作での施錠なんてやっちゃいない。
アリバイ工作だって、やっぱり知らん。
だいたいこの殺人、天海から借りている金についての話が口論に発展し、俺が怒りに任せて近くのペンを投げたところ不幸にも頭にクリティカルヒットしたという無計画極まりないものである。アリバイ工作なんて計画できる訳が無いし、そのトリックの肝であった応接間の時計が一時間もズレていることに至っては探偵の口から聞いて初めて知ったくらいだ。
証拠品も、事件には関係ない代物だ。
探偵が証拠として出した曲がったハンガーは、櫻木が誤って館の備品を壊し、それを隠すために外の茂みに捨てたものである。櫻木の指紋がついているのも当然だ。たまたま俺もそのシーンを遠目に見たので断言出来る。櫻木は、壊滅的に運が悪かったのだ。
「……いや、俺が強運だったな」
事件の翌日。
俺はマクドナルドで昼食を貪りながら、あの日のことを思い返していた。
偶然出来た密室の存在や、天海の傷口から流れ出た血液がペンの指紋を洗い流したことにより、事件の捜査は難航必至の様相を呈していた。だがその様子を見てほくそ笑んでいた俺も『名探偵を呼ぼう』と警部が何の迷いもなく携帯を取りだした時は流石に心臓が止まりそうになったものである。
というか、探偵を呼ぶのに抵抗が無さすぎるだろ。もうちょい粘れよ。プライドとか守秘義務とかないのかよ。
「まぁ、結果的にはあのヘボ探偵のお陰で罪を免れた訳だが……」
大口をあけてハンバーガーの残りを放り込みながら、俺は呟く。
あそこまで清々しく推理を外されると、もしや今まで彼が解決してきた数々の難事件も冤罪だらけなのではと心配になってきた。仮にそうだったとしても、俺がどうにかできる訳では無いのだが。
法律には詳しくないが、人ひとりの殺人では死刑にはならないのはどこかで聞いて知っている。あいつも刑期を終えれば、きっと外に出てこられるだろう。
だが、社会的には死んだも同然だ。実際その後周囲から忌み嫌われ、自殺したなんて話もよく聞く。大学教授としてエリート街道を突き進んでいた櫻木の未来は、終わったも同然だろう。
「俺のせいで、ごめんな。櫻木……」
完食したハンバーガーの包み紙をくしゃくしゃ丸めながらポテトへ手を伸ばしたが、その指は虚しく空振る。思考に夢中になるあまり、無意識にポテトまで食べ終えてしまっていたらしい。
罪悪感のせいだろうか。
今日のハンバーガーセットは、普段より腹に溜まらなかった。
俺だって、人の子である。
他人が自分の罪を被ったならば、それに対して申し訳ないという気持ちくらいは湧いてくる。
だけど、じゃあ真犯人として名乗り出ればいいじゃないかと言われるとそれはまた別問題で。今の俺の心の中には櫻木に謝罪する俺と、冤罪最高と万歳三唱する俺が同居していた。
そういや小学校の時、給食のプリンを盗み食いしたと冤罪をかけられたことがあった。どれだけ弁明してもあのクソ教師は耳を貸さず、結局俺はその日のプリンを没収された。
結局分からずじまいだったあの時の真犯人も、今の俺のような気持ちだったのだろうか。
「だったらなんだ、って話だけどな」
あの時は、冤罪を着せた先公を恨んだものだ。
櫻木もきっとあの探偵を恨むのだろう。或いは、警察だろうか。
外に出ると、まるで示し合わせたようなタイミングでビルの液晶に見慣れた館が映し出された。ハッとするような美人が表情ひとつ変えることなく、一瞬下のカンペに目を移した後カメラへ口を開く。
俺はそれの続きを見たくなくて、ウォークマンから伸びるイヤホンを耳に差し込むと俯きながら人通りの少ない路地へ向け歩き出した。
呼び掛ける声に中々気付けなかったのは、ニュースを忘れるために爆音で音楽を鳴らしていたからだろう。
二、三の違和感。四度目で俺はようやく自分が肩を叩かれたのだと知り、イヤホンを外して振り返る。
げ、と思わず声が出た。
「昨日ぶりですね、島村幸次郎さん」
「……そ、そうですね」
並んでいたのは、二つの見知った顔。
名探偵と名警部……いや、今このルビは適切ではないかもしれない。何故なら――
「突然ですみませんが、貴方にある事件の疑いがかかっていましてね。署までご同行願えますか?」
――こいつらが真相に、気付いた可能性があるからだ。
「事件、ですか。なんのことだか私にはサッパリ……」
「ここではなんですので、お話は署の方で」
「ぐっ……分かりました」
手錠を持ち出す素振りは見えない。あくまで重要参考人としての任意同行、ということなのだろう。ダメ元でシラを切るも、警部の有無を言わさぬ迫力に負け俺は早々に白旗を挙げることにした。
彼らに連れられながらふと、空を見上げる。
一羽のカラスが晴天を横切って行った。
**
鈍色だらけの取調室の中で、警部はゆっくりと口を開いた。
「本日は御足労いただき、ありがとうございます」
「はぁ、どうも」
随分と丁寧な出だしである。心の中でお前が連れてきたんだろと毒づきながら、俺は頭を下げた。
「さて、早速本題に入りましょう。貴方には、昨日春日商事にて発生した強盗殺人の疑いが掛かっていましてね」
「いやぁ、そう言われましても私はやっていないとしか……む?」
む? 僅かな違和感に、俺は警部とその隣に何故かいる探偵へ視線を交互に移す。真剣な面持ちを崩さない彼らに、俺は恐る恐る問いかけた。
「今、なんて言いました?」
「貴方には昨日、春日商事にて発生した強盗殺人の疑いが掛かっています」
むむ? 思わず眉間に皺が寄る。
「……春日商事? 天海館じゃなくて?」
「天海館の事件は櫻木が犯人だったではありませんか。何を仰る」
むむむ? 何を仰るはこっちのセリフである。というか、強盗ってどういう――
「私が申し上げているのは先日、渋谷区にある春日商事にて天道光一社長を含めた五人が殺害され、金庫から現金二千万円が盗まれた強盗殺人事件についてです」
「――はぁ!?」
思わず、俺は大声と共に立ち上がる。パイプ椅子が反動で倒れ、ガシャンとけたたましい音を立てた。
「おや、ご存知ありませんか。貴方も春日商事に勤めていらっしゃるというのに」
「い、いや……それは」
昨日から、俺はニュースを回避するため携帯の電源を切っている。固定電話を持っておらず、この二日間出勤していない俺が事件の存在を知らないのも仕方のないことであった。
「――幸次郎さん」
「うわっ、喋った」
沈黙を貫いていた探偵が突如口を開き、俺は驚いてやや失礼な反応をする。だが探偵はそれに気を悪くした様子もなく、淡々と続けた。
「貴方、今日の朝早くに天海館を訪れていますね?」
「……えぇ、まぁ」
「何の為に、わざわざ?」
「ただの見舞い、ですが」
「ふむ、なるほど」
嘘ではない。罪の意識から俺は今朝、改めて天海館を訪れている。だが夫人と話しただけで直ぐに天海館からは撤収したし、当然やましい事など何もしていない。
「そんな事より警部さん、春日商事の事件は昨日起きたって言いましたよね?」
「ええ。死亡推定時刻から、昨日の正午頃に犯行が行われたとみて間違いありません」
「だったら!」
正午。その言葉に俺は息を荒くする。
だったら、俺が犯人であるはずがないのだ。
「その日、俺は天海館に居たんですから! 春日商事で事件を起こせるはずがない!」
俺は丁度その時、天海を殺していたのだから。
「実際、警部さんや探偵さんともそこで出会ったじゃないですか! 俺には完璧なアリバイが――」
「いい加減にしなさい!!」
キィン、と甲高い耳鳴りがするほどの唐突な怒声。
探偵が感情を露わにする姿を見るのは、それが初めてであった。
「貴方のトリックは、もう分かっているんです」
「……」
いやいや。いやいやいやいや。こいつ……嘘だろ?
どうやら俺は、あの時の櫻木と同じ立場に居るらしい。
すなわち、探偵による冤罪だ。
血の気が失せる。
不意に足の力が抜け尻を地面に強打したが、今はそれを痛がる余裕すら無かった。
「……話して、いただけますね?」
警部と探偵は完全に締めに入っている。俺はふらつきながら椅子を戻して乱暴にそれへ座ると、精一杯の虚勢で二人を睨みつけた。
「……やってません」
「幸次郎さん」
「やってないって言ってるでしょう!」
「幸次郎さん!!」
今度は警部がキレた。鉄球のような拳が振り下ろされ、机が轟音の悲鳴を上げる。
だがその一撃はむしろ俺を冷静にさせ、同時に覚めた脳は幾つかの疑問を産んだ。
――待て。何故、こいつらは俺を逮捕しない?
トリックとやらが分かっているのなら――いや実際にはそんなことやっていないのだが、二人が俺を本当に犯人だと思っているのなら――何故、この期に及んでわざわざ俺から自白を引き出そうとしているんだ?
何故俺は今、櫻木のように手錠を掛けられていない?
疑問は、やがてひとつの答えを導き出す。
「――証拠は、あるんですか?」
「……」
返事はない。だが、彼らの表情は何よりも雄弁に語っていた。
間違いない。
こいつら、まだ証拠を見つけていないのだ。
やっていないのだからそれも当然……というかむしろ、証拠も無しによくここまで大きく出たものである。俺は半ば呆れながらも、同時に腹の底から煮え滾る程の怒りを覚えた。
――ふざけんな、この野郎。
僅かに残っていた理性の押さえ込みも叶わず、蒸気機関の如く熱を持った感情が噴き出す。
その勢いに任せて立ち上がった俺は先程の探偵や警部よりも更に大きく見せようと、左足で思いっきり机を踏み付けた。
轟音が、また跳ね回る。
「やい、クソ警部――それと、冤罪探偵!」
そうして俺が切った啖呵は、数奇な運命に対する雄叫びであり。
「三日だ、三日寄越せ! 真犯人を見つけてテメーらの推理が的外れだってこと、この俺が……俺自身が!」
慟哭であり。
「――証明してやるよ!!」
堂々たる、宣戦布告であった。