婚約破棄は、しなかった
全体的に暗いお話です。お暇な時にでもどうぞ。
乗合馬車は、いつもならくたびれた行商人や旅人、歩き疲れた村人などでどこか暗い雰囲気があるものだ。王都行きでもそれは同じ。旅行で乗り込んだ若い娘でもいれば別だが、仕事で向かう人には一種の緊張感を漂わせている。
「マリー、疲れてないか?」
「ええ、大丈夫よ。あなた」
それが今日ばかりは和やかだった。理由は簡単で、若夫婦の腕で眠る赤ちゃんのおかげである。乗り合わせた人々は、自然と赤ちゃんに気を使った。
「いい子だねえ。知らない人と一緒にいても泣かないなんて」
マリーと呼ばれた妻の隣に座っていたご婦人がにこにこと声をかけた。マリーもにっこりと笑う。
「馬車に乗る前はぐずってたんですけど、揺られ始めてからはぐっすりなんです」
「ああ、赤ちゃんにはこの振動が揺り籠みたいなものなのかもね」
ご婦人に見えるように赤ちゃんの位置を変える。とっくに子育てを終えた年齢の彼女は皺の寄った目尻を下げ、さらに皺を刻ませた。
若夫婦はいかにも貧しいものの身なりだった。古着屋で買ったのだろう服にさらに継ぎをあてて、それでも大切に着ている清潔感があった。それに対して赤ちゃんのおくるみは真新しくて、どんなに貧しくてもこの子には不自由をさせないという二人の意気込みが見える。互いを気づかうやりとりに、乗客たちはそれを察してほっこりした。どこにでもいる、幸福な家族だ。
「王都にはなにをしに?」
「家族にこの子を見せに行くんです」
「おやまあ。来てもらえばいいのに」
赤ちゃんは生後半年ほどだろうか。母乳とおむつで、母親は寝る間もないほど忙しい時期である。ご婦人が呆れたように言えば、マリーは顔をうつむかせた。
「ええ……事情がありまして」
「そうかい。まあ、誰にでも事情ってもんはあるからね」
ご婦人は事情について深く聞いてこなかった。そこでマリーの夫が手を差し出す。
「マリー、王都に行くまで休んでると良い。ソフィーは僕が見ているから」
「ありがとう、ヨシュア」
赤ちゃんを受け取ったヨシュアはマリーを肩に寄りかからせ、ご婦人に軽く会釈した。彼女も会釈を返し、唇に人差し指を当てて静かにしているように他の乗客に合図を送る。心得た乗客たちは微笑ましげに赤ちゃんを見て、それぞれ目を閉じた。赤ちゃんは父親に抱かれてよく眠っていた。
やがて馬車が王都に着くと、御者に教えてもらった待合所の隅でおっぱいとおむつ替えを済ませ、二人は歩き出した。
「王都は久しぶりね」
「そうだな。あんまり変わっていないな」
王都の町並みは煉瓦で舗装された道と、石造りの建物で有名だ。特に貴族の屋敷が立ち並ぶ一角は圧巻のひと言である。商会や百貨店は屋根に彫刻を飾ったり、珍しいガラスで店先を飾ったりと工夫を凝らしている。
「ねえ、少し見に行ってもいい?」
「ええ? さっさと済ませたほうがいいんじゃないか?」
「泊めてもらうんだから平気よ。ね?」
それでも渋るヨシュアは、店に寄っても買ってやれないと言うべきか迷った。王都の店はヨシュアが勤めている商会とは規模も値段も違いすぎるのだ。
なぜ快諾してくれないのか、その理由に思い当たったマリーは拗ねたように唇を尖らせた。
「別に、買い物がしたいわけじゃないわよ。自分のものを買うくらいなら、ソフィーの服を買うわ」
財布の中には乗合馬車の代金と、万が一のための予備しか入っていない。家計を預かる主婦でもあるマリーもそれくらいはわきまえていた。
「それに、王都の最新流行は参考になるもの」
「そうか。それなら見に行ってみよう」
マリーは刺繍の腕を認められ、針子をして家計を助けている。王都で流行のドレスを着る女などいない田舎町だが、ワンポイント手を加えたものなら売れるだろう。
三人が向かったのは王都一と名高い百貨店だった。大きなガラス張りのショーウィンドーにはドレスを着たマネキンが飾られ、他にもカジュアルなドレス、バッグに靴、アクセサリーも通り過ぎる人々に見せつけていた。
「素敵ね……」
ほう、とマリーが感嘆のため息を吐いた。
ガラスに映るマリーはいかにも田舎の主婦だ。ヨシュアは難しい顔をして、マネキンを睨みつけている。すぐそこに立つドアマンは「いらっしゃいませ」のひと言も二人に言おうとしなかった。
三年前まで常連だったというのに、薄情なものである。
マリーはそんなヨシュアに気づき、そっと寄り添った。ソフィーはガラスが珍しいのか言葉にならない声をあげて触ろうとしている。
「ヨシュア、私幸せだわ」
「そうだな、僕もだよ」
「ええ!」
お金では買えないものを二人は選んだのだ。綺麗なドレスには憧れるが、ドレスでは満たされないものがある。そんなお金があるのならソフィーの教育費に貯金するだろう。ごく自然にそう思える生活が、マリーとヨシュアには幸せなのだ。
心が通じ合い微笑みあったところで、ありがとうございましたと声が聞こえてきた。誰かが店から出てきたようだ。
「あ……」
ヨシュアが思わずといった声を漏らした。
店のコンシェルジュに先導される形で現れたのは、どこから見ても貴族の美男美女だった。二人は店の前にいたヨシュアとマリーをちらっと見たがそれだけで、コンシェルジュと言葉を交わすと近くに停めてあった馬車に乗りこんだ。凝った装飾に紋が刻まれている。やはり貴族だ。
「……今の、スカーレット様?」
「……ああ」
「結婚なさったのね」
「ああ、そうみたいだな」
マリーはどこか安心したようだった。ヨシュアはこちらを睨みつけているコンシェルジュの視線に気づき、マリーを促す。
「マリー、もう行こう」
今までずっと機嫌の良かったソフィーが、ヨシュアの苛立ちを感じ取ったのかぐずつきだした。
「そうね。ソフィー、どうしたの? おむつ? おねむ?」
父から母にバトンタッチされた赤ちゃんは、火がついたように泣きだした。
◇
三年前まで、ヨシュアはスカーレットと、マリーはランドルフという男と婚約していた。二人は貴族だったのだ。
政略的な意味合いの強い婚約ではあったが、ヨシュアはスカーレットに誠実な夫であろうと尽くしてきた。あの夜、マリーと出会うまで。
マリーの家にはマリーと妹しかおらず、ランドルフは婿入り予定だった。それが彼のプライドに障ったのか、いつ会ってもそっけなく、冷たい態度でマリーは結婚生活に不安を抱いていた。
ヨシュアとマリーの出会いは、それぞれ婚約者同伴で参加した夜会だった。主催は偶然にも、スカーレットとマリーの友人だったのだ。
目が合った瞬間、ヨシュアとマリーは恋に落ちた。お互いに婚約者を連れていて、碌に言葉も交わさなかったが、ダンスがはじまりパートナーを交代しているうちにヨシュアとマリーがペアになった。運命だ、と互いに確信した。
「わたくし、婚約者がおりますの」
「私もです」
これだけで、二人は心を決めた。夜会が終わるのを待たず、手に手を取って駆け落ちしたのだ。着ていた服やアクセサリーは売って旅費にし、王都からできるだけ遠くに逃げた。特に高値で売れたのはヨシュアの袖についていたカフスで、大粒のダイヤモンド、クオリティの高いそれは、スカーレットからのプレゼントだった。
駆け落ちなんて手元の金が尽きれば冷めるものだが二人は違った。王都で役人だったヨシュアは田舎町の商会の会計係に、マリーは針子の仕事を見つけ、やさしい人々に囲まれて慎ましく暮らしはじめた。結婚に反対されて駆け落ちした、と嘘ではないが本当でもない説明に、なにも知らない人々は真実の愛だと称賛した。二人は田舎町に溶け込んでいった。
やがてソフィーが生まれて、ほとぼりも冷めただろうとこうして王都にやってきた。今更ではあるが両家に結婚の報告と、子供の誕生を祝ってもらいたかったのだ。
「そのような方は当家にはおりません」
きっと許してくれる。そう思っていたヨシュアは、それがいかに甘い考えであったのか思い知らされることになった。
「どういうことだ、チャールズ。私だ、ヨシュアだよ。私を忘れたのか?」
「怒るのはごもっともですが、お義父様とお義母様にこの子と会ってもらいたいんです」
青くなって言い募るヨシュアに老執事は顔色も変えなかった。
実家の門前で、三年前と同じように門番に声をかけて通ろうとしていたヨシュアは、闖入者だと止められていた。この家の息子だと言いあっているうちに騒ぎに気づいてやって来たのがチャールズである。
幼い頃から仕えてくれている執事に安心したのも束の間、チャールズはヨシュアを知らないと突き放した。
「ですから、当家にはヨシュアなどという方はいらっしゃいません。どこかの家とお間違えでは?」
「なっ!?」
「酷いです、ヨシュアを他人扱いするんですか!?」
チャールズは同じく蒼ざめていたマリーに一瞥をくれると、極めて冷静に言う。
「ヨシュアヨシュアとあまり連呼しないでいただきたい。昔、当家に多大な迷惑をかけた男の名など、この家では禁句です」
「チ、チャールズ……」
ここへきてようやく――本当にようやく、ヨシュアは実家に迷惑をかけたのだ、と実感した。
スカーレットの実家はヨシュアの家より家格も爵位も上だった。同伴した夜会でスカーレットを放り出し、馬車で送り届けることもせずに逃げたヨシュアを許すことはありえない。なにより謝罪もしなかった。本人不在の謝罪の場で、両親と兄弟がどれほど肩身が狭く、屈辱的な扱いを受けたのか、想像もつかなかった。
「お引き取りを」
記憶の中ではいつもやさしかった執事が、今は憎悪の眼差しでヨシュアを射る。その鋭い眼光に怯んだ隙を突いて、門番がヨシュアを突き飛ばした。
「食い下がるようなら警察に突き出せ」
「はっ」
「そんなっ」
悲鳴をあげたのはマリーだ。ソフィーを紹介するために危険を冒して王都に来たのに、家族の誰も会ってくれないなんてあんまりである。
「ヨシュアの子なのよっ? せめて一目くらい……っ」
「マリー、いいんだ」
「ヨシュア!」
「僕らが悪かったんだ……。もう行こう、ソフィーに怖い思いをさせたくない」
ソフィーはマリーの腕の中で泣き続けてぐったりしている。少し休ませたほうがいいだろう。
ヨシュアはマリーの肩を抱き、チャールズに頭を下げて実家を後にした。
できるだけお金は残しておきたい。二人は喫茶店ではなく公園で休憩することにした。
「……迷惑をかけたのはわかってるけど……会ってもくれないなんてひどいわ」
「そうだな。……怒られるだろうと覚悟はしていたけど、まさか絶縁されていたとは思わなかった」
「絶縁って、そんな」
「家にいない、とはそういうことだ」
ヨシュアにはもう、あの家に関する権利はなに一つない。両親が死んでも通知はこないし、相続からも外されたのだ。貴族の顔に泥を塗った者の結末である。
「ソフィーの具合はどうだ? もう少し休憩してからマリーの家に行こうか」
「え、ええ……。少し熱っぽいみたい。泣きすぎたのね……」
ソフィーは公園の木陰でおっぱいにありつき、ようやく人心地ついたようだ。ぐずってはいるが、泣き喚いてはいない。
「チャールズがすまない……。怖かったんだろう」
汗ばんだ額を撫でてやり、ヨシュアが痛ましそうに顔を歪ませた。
こんなにやさしい人がなぜあんな目に遭わなくてはならないのか、マリーは悔しくてならなかった。たしかに、なにも言わずに逃げたのは悪かったが、あの夜を逃せばマリーとヨシュアは別々の道を歩んで二度と重ならなかっただろう。あの夜、決断したからこそ、今の幸福がある。
「私の家に行きましょう。ちゃんとしたところで休ませたいわ」
マリーの実家はおそらく妹が婿を取っているはずだ。妹なら歓迎はしてくれなくても一晩くらい泊めてくれるだろう。
重い足取りで向かったマリーの実家は、マリーの元婚約者であったランドルフが妹のミリヤと結婚して家を継いでいた。
正門からは入れてもらえず裏口に回され、客間に通されることもなかった。かろうじて使用人の休憩室に入れてもらえたのは、ソフィーがぐずっていたからだろう。
応対にやってきた家政婦は、呆れを隠そうともしなかった。
「旦那様はマリーさんの態度をいつもフォローしていたミリヤ様のお立場を思って、結婚を承諾してくださったのですよ」
家が傾くほどの慰謝料をスカーレットに請求され、ランドルフが婿入りすることでなんとか立て直したのだと言う。
「ミリヤ様は姉の不始末に、いつも申し訳なさそうなお顔でした。しかし今では旦那様の手腕に惚れこみ、心酔していらっしゃいます。旦那様もミリヤ様が不憫だと大切になさって……。ええ、今では立派なご夫婦になられましたわ」
「ランドルフ様とミリヤが……。そう、それなら良かったわ」
好きでもない男を押し付けてしまったが、今が幸せなら。そうホッとしたマリーに、家政婦は鋭い目を向けた。チャールズと同じ目だ。
「なにが良かったんですか?」
「え?」
「え? ではありません。娘の不始末で家が傾き、先代様と奥様は心痛のあまりお倒れになり、そのまま儚くなりました。ミリヤ様はたった十四歳でお一人で残されたのですよ。社交界での立場も失い、ランドルフ様が手を差し伸べてくださらなかったらミリヤ様はどこぞに身売りでもして借金を払うしかなかったでしょう。その元凶であるあなたに「良かった」などと言われたくありません!」
マリーは蒼ざめた。両親が死んだなど初耳だ。
「そんな、お父様とお母様が? どうして教えてくれなかったの?」
家政婦の目がますます吊り上がった。
「どこに知らせろと? お金に困っているだろうあなた方を探さないことが最大の恩情でした。それを、子供が生まれたから? よくものこのこ会いに来られたものです」
「……!」
その通りである。
家から逃げ、誰も二人を知らないところに行こうと決めたのはヨシュアとマリーだ。知らせようにも居場所さえ教えていなかったのはこちらなのである。文句など言える筋合いではなかった。
ヨシュアの実家にしてみても、連れ戻さなかったのが最後の情けだった。なんの権利も与えずに放り出す。関係を繋いでいればいつか飛び火するだろう。連れ戻したところで二人に責任など取れないことはわかりきっていた。
「旦那様もミリヤ様もあなた方に会いたくないそうです。お帰りください」
「待って!? この子の具合が良くないの、一晩でいいから泊めてくれないかしら?」
「お断りします。これ以上恥の上塗りはお止めください」
「私からも頼みます。せめて、マリーとソフィーだけでも」
ヨシュアが座ったまま頭を下げた。家政婦が冷めた目で彼のつむじを見つめ、ため息を吐く。
「あなたが頭を下げたところでなんの価値もありません。もっとはっきり言いましょうか? ミリヤ様の傷口を抉る真似はするな、と。ミリヤ様があれほど苦しんだのに、よくもまあ自分たちだけ幸せになれたこと。旦那様はおっしゃっていましたわ。どうせ不幸になるのが目に見えているが、もしも幸福なら許せない、とね。当然ですわね」
生まれた時から慈しんできたマリーにここまで言わなくてはならないのが情けないのか、家政婦の目が潤み出した。
「どうして今さら会いになんて来たんです!? その子を祝福してくれるとでも思ったのですか!? もうミリヤ様に関わらないで、帰ってください!」
「お願い、一晩だけでいいのよ」
「帰りなさい!!」
ついに家政婦が立ち上がり、ドアを指差した。
泣きながら拒絶する彼女にこれ以上なにも言えず、ヨシュアは泣き崩れるマリーの肩を抱いて立ち上がった。弱々しい赤ちゃんの泣き声が切なかった。
二人は泊めてくれる家を探そうと、友人だと思っていた人たちを回ったが、顔を見た途端不愉快そうに断られ、あるいは名前だけで拒否する者ばかりだった。あの一件は双方の家だけの問題では済まなかったらしい。
「よくまあ王都に来られたわね。あの後、わたくしずいぶん責められたのよ、なにか知っていたんじゃないかって。当然よね。まさか一目会ったその日に駆け落ちするとは誰も思わないもの。どうしてきちんと手順を踏まなかったの? 婚約を解消だけでもしておけば、あそこまで酷いことにはならなかったでしょうに」
最後に訪ねた友人――元友人は、呆れと嫌悪を込めて言った。ヨシュアとマリーが出会った夜会の主催者だ。
彼女はやはり裏口に回れと指示を出し、それでも会ってくれた。期待を込めて頭を下げても、返ってきたのは罵倒だけだった。
「もうあの夜しかなかったの。あなたには申し訳なく思っているけど、あの夜に逃げなかったらヨシュアと引き離されて、二度と会えないと思ったのよ」
「名前は知っているんだから、時間をかけても説得するべきだったわ」
「スカーレットの家が許すはずがない。マリーも結婚秒読みだった」
「だから逃げた、と? スカーレット様はまだ許してないわよ。ご結婚はされたけど、あの時の怒りは凄まじかったわ。わたくしも共犯と思われて縁を切られたし」
今は誤解も解けたが、スカーレットに招待状を出せるほどではないと言う。どちらも気まずいのだ。スカーレットとマリーの共通点は彼女しかなかった。あの夜マリーさえ招待していなければ、と何度も後悔した。それほどに、スカーレットに切られたのは大きい。
「それで、今さら何の用?」
「今晩、泊めて欲しいの。お願いよ、どこも断られて……」
「宿代もないの? みじめねぇ」
彼女はせせら笑った。会ってくれたのは友情からではなく、こうして面と向かって笑い者にするためだ。
ヨシュアは奥歯を噛みしめ、勢いよく土下座した。
「お願いします! どうか、どうか……!」
「お断りよ。はっきりいって気が済んだわけじゃないけど、もういいわ。恥を恥とも思わない者同士、お似合いね」
「ねえ、お願い! この子、もうぐったりしているの!」
「こんなに遅くまで連れ回されたら当然ね。あなたたちのせいじゃない」
「でも、この子にはなんの罪もないのに!」
子供を盾にして縋るマリーに、彼女は蔑みの眼差しを向けた。
「そうね。あなたたちから生まれたことには同情するわ」
マリーは固まった。ヨシュアも顔をこわばらせた。
無情にも閉められた裏口のドアに、マリーはもう泣くこともできなかった。
「……マリー、とにかく宿を探そう。ソフィーを休ませなければ……」
「ヨシュア……」
甘かった。
ソフィーが生まれたからといって、許されるなど期待してはいけなかったのだ。もう三年経つが、まだ三年しか経っていない。傷が癒えるには早すぎたし、謝罪するには遅すぎた。
ヨシュアとマリーが結婚して、子供まで生まれるとは誰も考えなかったのだろう。会う人は皆驚き、そして嫌悪を浮かべていた。のたれ死んでいれば良かったのに、とまでは言われなかったが、なぜお前らが幸福なのだと詰られた。
家族も、友人も、ありとあらゆる交友関係に迷惑をかけたのだ。特にスカーレットの実家の怒りは凄まじく、辺り一面焼け野原にされた。そんな中でも二人を連れ戻して責任を取らせようとする者がいなかったのは、本当に恩情だったのだ。
「王都になんか来なければ良かった……」
マリーが呟いた。ようやく見つけた安宿の女将はぐったりした赤ちゃんと、医者に診せる金もないというヨシュアとマリーにたいそう同情してくれた。
見知らぬ他人のほうが、よほど親切だ。
「マリー、明日には僕らの家に帰れる。もう忘れよう。あそこが僕らの家だ」
「そうね。……そうね」
一軒家でもない、狭いアパートの一室。メイドの一人すらいない。そこが二人の愛の巣だ。物がなくても金がなくても、お互いに愛し合っている。それを望んだのだ。そのはずだ。
固くて臭いベッドにソフィーを真ん中にして三人で潜り込む。目を閉じたマリーは、実家に断られたのは良かったのかもしれないと思った。
綺麗なドレス。きらめく宝石。傅く使用人。あたりまえにあった貴族の日常は未だに夢に見る。暗い中、針に糸を通す時、たまらなく惨めな気持ちになるほど。
もう、マリーはお嬢様ではない。ただのヨシュアの、ただの妻なのだ。
実家のベッドで眠ったら、帰りたくないと思ってしまったかもしれなかった。ふかふかで清潔なベッド。何不自由ない暮らし。
だから、これで良かったのだ。
妻と娘の寝息を胸に感じながら、ヨシュアは胸にくすぶる炎を鎮めていた。
スカーレットはヨシュアを見ても顔色ひとつ変えなかった。目が合ったはずなのに、もしかしたら、かつての婚約者であるとすらわからなかったのかもしれない。
うつくしいスカーレット。ヨシュア様、と甘えて呼んでくれたことを思い出す。政略での婚約で、恋などはなかった。ヨシュアが彼女に誠実であろうとしていたように、彼女もヨシュアに寄り添おうとしてくれていた。
あの一瞬、叫び出しそうになった。自分のものになるはずだった女を、別の男が抱いている。
時折たまらなくあの世界に帰りたくなる。上司に叱責された時、小遣いもなく酒も飲めない時、苦労の連続でくたびれた妻を抱く時。華やかな貴族社会が恋しくなった。本来なら私はこんなところにいるような男ではないと叫びたくなる。
だが、今隣で眠る妻と我が子こそがヨシュアの選んだ幸福なのだ。すべてを捨てて、自分の力で摑んだ幸福。
明日になれば家に帰り、野菜のスープを食べて出勤するだろう。お小言を言われながら仕事をして、愛する妻と娘のためにと頭を下げるのだ。ちっぽけで平凡な、どこにでもある幸福。
これから先、今日の事が二人の幸福に影を差すのだろう。ソフィーの成長を喜びながら、自分の子供の頃との格差に愕然となる時が来る。
それでもヨシュアはマリーに愛していると告げ、マリーはヨシュアに幸せだと微笑むのだ。後悔しないために、過去は忘れるしかなかった。もはや二度と帰れない道。祝福されない幸福。
あの時、正式な手続きさえしていれば、こんなことにはならなかった。
疲労に抗えず、ヨシュアは眠気に身を任せた。明日には帰るのだ、あの家に。
いつも感想・評価。誤字脱字報告ありがとうございます!
ヨシュアとマリーはまさに「知らぬが花」だったわけです。ソフィーが生まれて頭がハッピーになって顔見せしなくちゃ!!とはっちゃけなければこんなことにはならなかった。
ヨシュアの家族。火消しに奔走。戸籍から排斥して許しを請う。莫大な慰謝料を取られた。
スカーレット。夜会でほったらかしにされたあげく会ったばかりの女と駆け落ちされ大激怒。周囲を巻き込んで焼き尽くした。夫に愛されてヨシュアを忘れてるけど、会ったら許さない。顔見ても人相変わりすぎててわからなかった。
マリーの家族。一番悲惨。マリーを勘当したが、いまだに社交界ではハブかれている。
ランドルフ。政略なんて、というマリーに嫌気がさしていたが、まさか駆け落ちされるとは思わなかった。ミリアは妹だと思ってたのに妻になり、気の毒になと同情している。
元友人。おめーらグルだろ!と責められた。とんだとばっちり。