第1話過去に戻ったのは俺だけじゃない
高校で出会った胡桃と結婚してはや25年が経とうとしていた。
昔でこそ仲が良く周りからは、おしどり夫婦だなんて呼ばれていた。
しかし、時が経つにつれ関係は冷えて行った。
私が43歳の頃に異例の出世で勤めている会社の役員になった時だ。
妻の胡桃にこう言われてしまったのを今でも思い出す。
『あなたの好きな人は仕事なの?』
この時、私がしっかりと彼女の声を受け止めていれば良かった。
冗談で受け流すんじゃ無かった。しっかりと受け止めるべきだった。
妻ではなく仕事ばかりを優先した過去はもう取り返しがつかなくなってから私は気が付いた。
胡桃は若くして病気で子供を産めない体になり、家族は私と胡桃だけ。
子供もいない。家では一人だった。
本当に寂しい思いをさせてていた事に気が付いたのはつい最近だ。
寂しい思いをさせている事を認識した私は、これからを思い胡桃に告げる。
「離婚しよう」
54歳になった私は離婚を決意した。
今の時代、54歳と言えばまだまだ現役。
私なんかと一緒にいるよりもっと良い人が居るはずだ。
結婚する前も含めれば39年という日々を奪ってしまった。
返すことはできないが、これからを幸せに過ごしてほしいと切に願った末の決断だった。
目を閉じ、答えはまだかまだかと待ちわびる。
答えは帰ってこない。
静けさが支配する我が家のリビングで妻である胡桃は、うんともすんとも言わなかった。
「そろそろ答えを……」
目を開け、胡桃の方を向く。
しかし、目を開けるとそこには……
「胡桃が居ない?」
姿がない。
離婚届けを目の前に突き出した私はさっきまでリビングに居たはずだ。
おかしい。
目を開けたら、何故私はこんなところに居るんだ?
「実家にいるなんて……」
数年前、両親は他界。
住む人が居ないこともあり、取り壊した実家。そして、そのリビング。
なぜか、私はそこに居た。
焦り、動揺を感じながら私は周りを見渡す。
揺れる視界。回る景色。
ふと、自分の手が見えた。54歳になりしわが目立ち始めたていたはずだった。
「しわがない」
肌がまるで10代の時と同じくらい若々しい。
それどころか、すっかり老眼で見えにくくなっていた視界は鮮明。年のせいか痛む足腰もなぜか痛くない。
薄々感づいて来た私はリビングから飛び出し、鏡の前に立った。
「やっぱりか」
そう、若返っていた。
いいや、違う。若返ったのではなく、
「過去に戻った?」
体は当時のまま、未来を経験して培われた精神が過去の私に上書きされた。
いわば、タイムリープをしてしまったのだろう。
離婚届けを突き付け、目を閉じ、目を開けたら15になっていたという事は記憶だけではなく、これから先を経験して来た私の意志を決定づける精神が上書きされたに違いない。
今の私の考え方はどう見ても年不相応。
記憶だけが過去の私に上書きされたわけでは無さそうだ。
「意味が分からない」
もしかしたら、54歳までの経験と記憶は今の俺が考えた妄想の可能性では?
だけど、だけど、そうとは言えない何かが私に訴えかけて来る。
あれは妄想ではなく、現実に起きた出来事だと確かに実感があった。
「確かめればいいだけだ。まずは日にちを確かめよう」
携帯電話を探す。
たしか、もうこの頃には買って貰っていたはずだ。
ポケットにある携帯電話の重みらしきものに気が付き、手を突っ込む。
あった。
数世代前の携帯電話を手に取り、日付を確認する。
2010年4/4日 日曜日 11:29
私が15歳の時で――明日は高校の入学式だっけか?
かれこれ39年前の記憶などあやふやである。
さて、日付は分かった。もし、本当に15歳の私に記憶や経験が上書きされているのなら、これから起きる出来事を予知できるはずだ。
「明日は胡桃が車に轢かれそうになった日だ」
忘れもしない。
妻の胡桃と出会ったのは、車に轢かれそうになっている所を助けたのがきっかけだ。
「明日になれば全部わかる」
本当に54歳の私が15歳の私に上書きされたのかが明日には分かる。
だがしかし、そんな悠長に待つ必要は無かった。
「いや、今日は母さんが入学祝でケーキを買ってきてくれる」
4月4日。明日から、俺は晴れて高校生になる。
そのお祝いに母さんが大きめのチョコレートケーキを買ってくれた覚えがある。
しかも、高校の入学祝で用意したのにプレートには15歳おめでとう! となぜか誕生日っぽい字が書かれていたはずだ。
この予想が当たれば、紛れもなく私は54歳までを一度経験したと言えるであろう。
「にしても、この時の私は何をしてたんだか」
ソファーに座り、ボーっとする。
仕事漬けの毎日。何もしないでいられる時間は眠る前と移動時間くらいだ。
久方ぶりの暇を持て余す感覚に得も言われぬ気持ちになってしまう。
「テレビでも見るか」
それから、私は普通に時間を過ごしていった。
そして、その時はやって来た。
夕方になり母さんが帰って来た。
「ただいま。一馬」
手にはケーキの入った箱。
中身がチョコレートケーキであれば、私は本当に54歳までを経験したと言える。
でも、ケーキの入った箱なんかよりも、別の事に気を取られていた。
「母さん。お帰り」
私が50の時に死んでしまった母の顔に涙を流さずにいられなかった。
もう会えないと分かっていたのに。思いがけない形でまた会えた事が、心を締め付ける。
「あら? 泣いてるの?」
「目にゴミが入っただけだ」
「そう? それはそうと、一馬。高校生になるお祝いとして、奮発してケーキを買ってきちゃったわ」
ケーキの箱を開け母さんは中身を見せてくれる。
出て来たのは
「チョコレートケーキか……。ったく、誕生日でもないのになんで年齢を入れたんだ? 入学祝だってのに」
「言われてみれば、これじゃあ誕生日ケーキみたいね。高校のお祝いなのに、15歳おめでとうって我ながら言葉選びのセンスが酷いわ」
「ああ、まったくだ」
そして、私は理解した。
54歳まで生きた私がここに紛れもなく存在していると。
4月5日。
54歳までの記憶を持っている私は目を覚ます。
もう二度と手を通すことがなかったはずの制服に着替えて家を出た。
ドクンと脈が高鳴る。
体中の血の流れが速まっているのが良く分かった。
私はこれから結婚した相手である神楽坂胡桃を助ける。
信号無視をして轢かれそうになる胡桃を庇うのだ。
こればかりは絶対にしなくてはいけない。
彼女が轢かれて死んでしまうなど、見過ごせるわけがないのだから。
それに、私は……仕事に夢中でほったらかしにしてしまっていたというのに、
まだ、胡桃の事が好きだ。
好きな人が車に轢かれて死亡。
そんな未来は絶対に防いで見せる。
そして、仕事でないがしろになどせず、今度こそはちゃんと彼女を大事にする。
いわば、これはチャンスだ。
離婚届けを突き付けて、離婚まで秒読みであったがやり直したい。
15歳の今なら、ゼロの状態からやり直せる。
だったら、やり直さない訳がない。
私は離婚届を突き付けたが、都合の良い話だが胡桃の事がまだ好きなのだから。
「ここだな」
忘れもしない横断歩道に辿り着く。
ここを胡桃が渡っている時、トラックが突っ込んで来る。
轢かれそうになった正確な時間は覚えていないからこそ、横断歩道で胡桃が訪れるのを待つことにした。
1分、2分、3分、4分――
「――でしょ」
「そう?」
横断歩道に近づく者を見ながら、気を張り詰める。
胡桃が現れるのを待っていたのだが、
「来ない?」
学校に辿り着いていなくてはいけない10分前になっても胡桃は轢かれそうになった横断歩道に姿を現さなかった。
正確な時間こそ覚えてはいなかったが、絶対にもう胡桃が車に轢かれそうになった時間は過ぎ去っている。
「54歳まで経験したのは勘違い?」
胡桃という人物が存在しなくて、母さんが入学祝でチョコレートケーキを買って来たことを当てたのは、ただの偶然だったのか?
さすがに遅刻するの不味いと思い、高校へと向かおうとした時だ。
「ずっとそこに居るけど、なにかあったの?」
背後の路地裏から現れた胡桃に声をかけられた。
「おまっ」
変な声が出た。しわひとつなく、愛らしくて可愛い胡桃が現れたのだ。
ああ、胡桃は居たんだ。
54歳までの記憶は嘘じゃ無かったんだと安心する。
変な声を出してしまったと後悔しながら、胡桃の顔をしっかり見た時だ。
「その反応……。あんたも?」
「え――」
「答えて。あんたは一体、いつから戻って来たの?」
「もしかして、お前もなのか?」
「ええ、私も未来からやって来たの。まったく、私が横断歩道を渡るのを待ってるとか、どんだけ私の事が好きなのよ」
「あ? 車に轢かれたらヤバいから助けてやろうって思って人になんて事を言う」
「それはそうね。ごめんなさい。今の言い方はさすがに酷かったわ」
「お、おう。それよりも、入学式に遅刻するから歩くか」
「え、ええ」
54歳までを経験し15歳に戻った私。
胡桃と上手くやり直せるかもしれないとそう思っていた。
だが、それは叶わないのかもしれない。
だって、胡桃も私と同じく過去に戻っており、冷たくされた記憶をしっかりと覚えているに違いない。
そうとなれば、やり直しなんて出来る訳が――ない。
「今の私達は結婚もしてないし、離婚届を出す手間が省けたわね」
0からやり直せると思っていた。
妻である胡桃を今度こそ大事にして見せると意気込んで居た。
だというのに……神というのは残酷だ。
「……ねえ、あんたさ。あの時、どうして私に離婚届を突き付けたの? 理由を教えてよ」
「大事に出来てないのに気が付いた。お前が寂しがっているのに、仕事仕事と何もしてやれなかった。54歳からでも俺に縛られない人生を送って欲しかった」
苦しくなりながら思いを打ち明ける。
そしたら、胡桃は不機嫌そうに文句を垂れた。
「まあ、今となってはそんなの関係ないけれどもね。だって、私達、別に夫婦でもないんだから」
「そりゃそうか」
「でも、はっきり言うわ。私が好きなら、もう一度だけチャンスを上げる。だって、あんたが私に構わなくなったのは、私にも原因はあったと思うもの」
「え?」
「あら、チャンスはいらないの? 多少は私に原因があると言っても、一番悪いのはあんたよ。せっかく、私に未練があると思って譲歩してあげたのに良いの?」
「是非、お願いします。今度こそは超大事にする。仕事なんてそっちのけで、お前だけを大事にする」
54歳であれば俺は諦めていた。
しかし前提が違う。今の俺と胡桃は15歳だ。
だったら、俺は都合が良いと言われようが、好きな人ともう一度やり直したい。
強い気持ちを込めて胡桃に宣言していた。
思いはどうやら伝わっていたようで、神妙な面持ちの後、胡桃は俺に言う。
「良いとこも悪いとこも全部知り尽くしているから、今度はちょっとやそっとの事じゃ、落ちないわよ?」
こうして、俺と胡桃の二度目の恋愛が始まった。
互いに互いを知り尽くす中、どんな風に恋していくのかは神のみぞ知るところだ。