第4章 カイルの計略
††(ライバッハ視点)
砦の主は、ハザン王国の宿将で、齢40を超える熟練の将軍だった。
肉体的にも精神的にも円熟期を迎えており、まさに男盛りの将であったが、弱点がないわけでもない。
この男、極端に臆病なのである。
石橋を叩いて歩く、を地で行く男で、容易に冒険をしないことで有名だった。
無論、無能ではない。
無能な将軍にこの砦を任せるほど、ハザンは人材に困っていなかった。
それに、臆病という属性は、必ずしもマイナスにはならない。
砦の主、特にマリネスカのような要害を守る将にとってはむしろプラスにさえなるのだ。
事実、この砦の主、ライバッハは、砦に赴任して以来、幾度も戦功を上げた。
敵軍が出てきても、決して突出することなく、冷静に判断し、砦に引き籠もった。
猪武者ならば、功を焦り、野戦を挑むこともあっただろうが、ライバッハは常に冷静に対処し、王都からの援軍を辛抱強く待った。
それゆえに、マリネスカの不敗記録を更新し続けたわけであるが、その臆病な将軍のもとにもたらされた情報は、酷く本人を惑わせるものだった。
「なんと、3万の兵がこちらに向かっているだと!?」
ライバッハは思わず部下を問いただしてしまう。
「最低でも3万との報告にございます。5万の大軍という噂も」
「ご、5万だと」
ライバッハは顔を蒼く染め上げる。
「そのような大群に囲まれたら、さしものマリネスカとてひとたまりもない。その情報は真実なのか?」
「先日、解放された捕虜共から仕入れた情報にございます」
「ううむ、捕虜どもからの情報か、ならば流言の可能性もあるわけか」
「可能性は否定できませぬ」
「そうなるとこれは敵の策略か、確かに5万もの大軍をこの時期に用意するのは不自然ではあるが……」
確かに先日、ハザンの王太子がエルニカの国境を侵す、という不祥事を起こした。今回はその報復と見れば皆は納得するが、ライバッハには違う見解もあった。
ライバッハは、クルクス砦が半ば王国の中枢から見捨てられた存在であることを知っていたのである。
なんでも、王妃と王女には確執があり、王女が宮廷を追われる形でクルクス砦に赴任してきたらしい。
なぜ、実の親子がそんな確執を抱えているのかといえば、詳しい事情は知らないが、王女は実は不義の子であり、 トリステン4世の実の子ではない、という噂もある。
真偽のほどは確かではないが、このマリネスカ砦にたったの5000で攻め込んできた、という事実をかんがみる限り、その噂は本当ではないか、とライバッハは考えるようになった。
ただ、5000の兵が攻めてきたとき、ライバッハはこうも思った。
まさか5000の兵で本気でこの砦を攻め落とせると思っているわけがない、ということは、この部隊は囮か、或いは足止めか?
ライバッハの直感がもしも正しいのだとすれば、捕虜達の情報は真実、ということになるのだが。
老練にして慎重な武将は大いに迷った。
果たして、敵の援軍は本当にやってくるのだろうか。やってきたとして、その規模はいかほどになるのだろうか。
と――。
元々、慎重な男であるが、この時のライバッハは、優柔不断な男と言い換えてもいいかもしれない。
いや、カイルがこの男を優柔不断にしてしまったのだ。
カイルは思案の海で溺れているライバッハに、更に水をかけた。
半分残していた捕虜達の檻を、内側から破れるように細工したのである。
脱出に成功した者達は、己達の努力で脱出に成功したと思い込むだろう。
なぜならば、この牢馬車に閉じ込められて以来、錠前に毎日、塩味のスープと小便をかけていたのだから。
しかし、そのこと自体、捕虜達の中に混ぜていた間者が主導したことであったし、錠を脆くさせたのもカイルの手の者がやったことだっだ。
塩分を用いて錠前を破壊するのは、古典的手法であるが、土台、数週間で鉄が腐るわけがないのである。
だが、捕虜達はそんなことにも気がつかずに、自分たちの力のみで脱出を成功させたと思い込み、マリネスカ砦に逃げ込んだ。
そんな捕虜達に、迫真の言葉でこう言われてしまえば、ライバッハの迷いは深まるばかりだった。
「ライバッハ様、我々の収集した情報によれば、王女の軍隊は、単独でマリネスカ砦攻略を指示された模様です。しかも、ろくな準備期間も与えられずに行軍してきた様子。このマリネスカの精兵8000ならば、一戦にして打ち払うことも可能でしょう。どうか、我らの無念を晴らす復讐戦の機会を与えて頂きたい」
その迫真の訴えを聞き、ライバッハは迷った。
今ならば、自分の力だけでエルニカ軍を打ち払えるのではないか、と思ったのだ。
マリネスカ砦の必勝パターンは、堪え忍ぶことによって救援を待つ、守備戦法だったが、そのことを揶揄する人間もいる。
「城に籠もって援軍を待ってればいいだけの楽な仕事だ。無能な人間の左遷先には丁度良い。あの砦にだけは赴任したくないものだ」
マリネスカ砦の城主の地位は、決して他の将軍職に劣るものではない。
むしろ、名誉の位といってもいいくらいなのだが、籠城を主とする仕事というのは、やはり武人の侮蔑を買うこともあった。
ライバッハは、その侮蔑を長年無視してきたのだが、捕虜達から得た情報は、ライバッハにそのことを思い出させるに十分だった。
「思えば、最初の情報は明らかに偽情報だった。敵が放った捕虜の情報など信用に値しない。自らの力で逃げ、敵の貴重な情報を教えてくれた貴殿らの情報にこそ価値があるというものだ」
「ならば我々の望む復讐戦を挑んで頂けるのですね?」
捕虜達は喜び勇んだが、ここで煮え切らないのが、ライバッハという男の短所であった。
しかし、そのライバッハという男でさえ、戦功を焦らせる事態が起こる。
王都から使者がやってきたのだ。
ハザンは現在、ふたつの派閥があり、王太子イカルディと、その弟ギュネイによって、国は二分されていた。
ライバッハは、ギュネイ派に属する武将で、マリネスカ城主の位を得たのも、ギュネイの一派に加わったおかげなのである。
そのギュネイからの使者とあっては、丁重に迎えざるを得なかった。
ギュネイの使者は、司令官室までやってくると、命令書を読み上げた。
「丑の月の第2風竜の日、王都より援軍が向かった。あと、2週間ほどで救援に駆けつけるだろう」
その言葉を聞いたライバッハは思わず頬をゆるめる。
あと2週間耐え抜けばいいのだ。それならばなんの苦労もない、と思ったのだ。
だが、ギュネイの使者は、思わぬ言葉を付け加える。
「ただし、救援に向かった先発隊は、我が兄、イカルディの重犀騎士団である。このままでは兄に手柄を独占されてしまう。もしも可能であるならば、兄がマリネスカに到着する前に、敵軍を駆逐することを望む」
「………………」
使者の言上を聞き終えたライバッハは、自室に閉じこもり、思案の上に思案を重ねたが、結局はギュネイの命令に従うことにした。
ここで主君の不興を買うのも損だ、と思ったこともあるが、それ以上に命令書の行間に書かれたギュネイの思いも感じ取ったからである。
兄が到着する前に敵軍を駆逐せよ。
つまり王太子イカルディに武勲を立てさせるな、ということである。
もしもイカルディに武勲を立てさせてしまったら、先日の失態を帳消しにさせてしまう。それは、次期王位の最有力に躍り出たギュネイにとっても、その腹心であるライバッハにとっても、都合が悪いことだった。
ライバッハは、半日ほど自室に立て籠もると、決心をした。
砦から打って出て、エルニカ軍を叩くことにしたのである。
捕虜達からの情報、ギュネイの命令、そしてライバッハのこれまでの経験によって導き出された答えであるが、ライバッハは一つだけ見落としていた。
ライバッハの経験以外の事象すべてが、カイルの工作によってもたらされた策略だということを。