第3章 女にしてください!
†
我らのお姫様が浮かぬ顔をしている、
という噂がクルクス砦内に流れ始めたのは、木々が緑一色に色づき始めたころだった。
フィリス・エルニカという少女は、庶民の生活も長いせいか、一兵士にまで笑顔を向け、語りかけるような少女であった。
民思いなのは当然として、一兵卒にまでその様な態度で接する王族将軍など、エルニカ建国以来、そうはいなかったのではないだろうか。
姫の安全を配慮せねばならないアザークなどにとっては、悩みの種でもあるが、ともかく、砦内の兵士達の評判はすこぶる良かった。
ゆえに、そんなお姫様が浮かぬ顔をしている、という事実は、兵士達の噂の端に上らざるを得なかったのである。
その話を食堂で聞きつけたカイルは、エリーに相談をした。
「おい、お姫様が悩んでいるらしいぞ。どうする?」
「どうするって……」
「いや、自慢じゃないが、俺は女心という奴がよく分かっていない」
「ほう、分かっていないということを分かっているじゃないか。もっと鈍感な男だと思っていた」
「そこまで酷くはないぞ」
「いいや、酷いね。それを証拠にお前は四六時中姫様に付きまとっていて、姫様の変化にも気がつかなかったではないか」
「むう……」
そう言われてしまえば、うなるしかない。
近くにいながら気がつかなかったことは事実なのだから。
だが弁明させて貰えれば、女とはそういう生き物なのだろう、ということになる。
女心とは、リエージュ(セレズニア南部の国の名前)の空のように移ろい変わりやすいというか、猫のように気ままというか。
それに、カイルは師匠から、
「女とは月に一度は愁いに満ちるもの、そういうときはハイとYESという言葉以外、用いるべからず」
という格言を教わっている。
カイルが誤解するのも無理からぬことであったが、無論、口にはしない。
目の前にいるこのチンチクリンも、一応、女に分類される生物だからだ。
しかし、エリーは確かに女に分類される生物だったが、女という生物の生態について尋ねるには不適切な相手だったかもしれない。
エリーは普通の婦女子のような思考をしていない。
身なりこそ小綺麗にしているが、余暇があればずっと目をつむり、瞑想をしている。
カイルが何をしているかと問えば、
「以前記憶した本を読み返している」
と返すだけだった。
何でもエリーは、一度読んだ本は一字一句完全に記憶しているらしく、いつでも脳内で索引できるのだそうだ。
最初こそ信じられなかったが、オーガ・シックス先生の名著、華と蜥蜴の6章の5ページ目、4行に書かれている文章は? と問うたら、
「恥丘を弄ばれたリリンは女としての喜びを知った」
と、一字一句間違えることなく言い放った。
……つうか、完全記憶術より、エロワードを臆面もなく、言い放てる性格の方に驚きを感じた。
というわけでやはり、この女に女心の解説を求めるのは無意味だと悟った。
カイルは直接、フィリスのもとを尋ね、浮かぬ顔をしている理由を尋ねることにした。
フィリスの執務室へやってくると、案の定、フィリスは浮かない顔をしていた。
というか、ここ最近、このような表情をしていたような気もする。
するとやはりカイルは鈍感だったということだろうか。
カイルは、己の鈍感さを補うように尋ねた。
「つうか、姫様、何か悩み事でもあるのかい?」
単刀直入である。
エリーあたりに言わせれば、お前は馬鹿か、ということになるのだろうが、カイルが今更繊細な男になって乙女の悩み事相談に乗れるとは思わない。
ならばいつものように明快に尋ねた方が、相手も相談しやすいだろう、そう思ったのだ。
カイルの作戦は成功した。
フィリスは相談しても良いか迷いつつも、結局は悩み事を打ち明けてくれた。
「ある意味、これはカイル様にしか解決できない問題かもしれません」
そう意味深な前置きをして。
フィリスは愁いに満ちた表情で告白する。
「――最近、眠れないのです」
「眠れない?」
カイルは問う。
「はい、実は、わたくし、こう見えても健康には自信がありまして、今まで不眠になどなったことがないのです」
「まあ、そりゃあ寝る前に素振り300本を欠かさないんだから、ぐっすりと寝れても不思議はないんだが」
カイルはフィリスの生活習慣を思い出す。
フィリスは眠る前に剣の素振りを欠かさない。カイルの知る限り、この砦で一番剣を振るっているのは彼女だ。
それだけ振るえば、自然と眠りも深くなりそうなものだが、それでも寝付きが悪いというのだろうか。
カイルは、ならば、と、こんな提案をした。
「なら、素振りの数を500本に増やすのはどうだ? 疲れて眠れるかも知れん」
我ながら単純明快な策だと思うが、複雑なことを試して余計に思い悩むよりは、効果があると思ったのだ。
だが、お姫様の答えも単純なもので。
「……すでに素振りの数は800本にしてあります」
「なるほどね……、お姫様らしい」
カイルはそれ以上やると翌日、腕も上がらなくなるだろう、とアドバイスをすると、切り口を変えた。
「つうか、そもそも、お姫様は何に悩んでいるんだ? まずはそれを聞かせてくれ」
カイルは、単純というか、当たり前の質問をした。
フィリスはその当たり前の質問に言いよどむ。
「そ、それは……、い、言えません。恥ずかしくてとても言えません」
フィリスは顔を真っ赤にしてうつむいてしまう。
その姿はとても愛らしかったが、カイルはその表情と、今までの発言から、彼女の悩みを推測した。
カイルの灰色の脳細胞が活発に活動する。
姫様の一連の行動と、カイルの蓄積された経験と勘が融合したとき、ひとつの答えが導き出される。
「………………」
――答えは導き出されたが、カイルはその答えを口にすることはできなかった。
なぜならば、カイルは、姫様の軍師であり、姫様の部下だからだ。
古来より、上官と部下が恋仲になって良いためしなどない。
――とは、エリーの言葉だが、ともかく、今、そういう関係になるのは良いとは思えなかった。
だから、カイルはこう言った。
「もしかして、その悩みは俺に関係があるんじゃないか?」
……カイルは沈黙する。
やべえ、嬉しさのあまり、一番言ってはいけないことを口走ってしまった。
つうか、隠すこともないが、カイルは姫様に惚れていた。
惚れている相手に好意を寄せられていると分かれば、あとはベッドインしかないと思うが、今のカイルに一国の姫君に手を出す度胸はなかった。
カイルはとんでもないことを口走ってしまったな、と自分に呆れたが、その言葉を聞いたフィリスの答えは意外なものだった。
「……そうなのです。実は、わたくし、カイル様に教えて貰いたいことがあるのです」
「………………」
カイルは沈黙する。
自然と心臓の鼓動が早くなる。この展開はカイルの愛する官能小説に近いものがある。
もしもこの後の展開がカイルの望む物ならば、フィリスはこう言うだろう。
「カイル様、わたくしを女にしてください!」
と――。
ちなみにフィリスは、一字一句、間違うことなく、カイルの妄想と同じ発言をしたが、たぶんそれはカイルの妄想の産物だろう。
一国のお姫様が、あのお淑やかなフィリスが、そんな破廉恥な言葉を使うわけがないのだ。
ゆえにカイルは「聞こえなかった」と言い、フィリスにもう一度繰り返すようにうながした。
フィリスは、表情と息を整えると、顔を赤らめながら言った。
「カイル様、わたくしを女にしてください!」
と――。
カイルは一応、己の耳を疑ったが、早々聞き間違えることなどない。確かにフィリスは上記の発言をした。
それを確認したカイルは、慌てて否定する。
「ば、馬鹿野郎、一国のお姫様がそう簡単にその身を委ねるな。いくら俺が格好良くて魅力的だからと言ってもそんなにあせるな。そのうち機会はやってくる」
「ですが、カイル様、わたくしには時間がないのです。この歳になるまで一度も経験をすることなく、姫将軍となってしまったのです」
「早くやればいいというものではないだろう」
「いいえ、こればかりは早いに越したことはありません。近い将来、必ずそのときは訪れるでしょう。それまでにカイル様に教えて頂き、そのときに備えたいのです」
「そのときって……」
カイルは言いよどむ。
「はい、もうじき訪れる。試練の時です。今、各国から次々と不穏な噂が入ってきます。新たな戦乱の世は近い、と賢者達は口々に予言しております」
「賢者達まで姫さんを女にしたがっているのか?」
カイルは思わずそう発してしまったが、言葉にしてからとあることに気がついた。
カイルは素朴な疑問を口にする。
「……ああ、姫様。さっき、自分を女にしてくれ、と言ったが、あれの意味を知っている?」
「はい、もちろん。男の人が大事を成すとき、周りの人間に自分を男にしてくれ、と協力を要請します、それを真似てみました」
……いや、つうか、姫様、その使い方、絶対に間違っていますから。
そう思ったが、カイルは説明できなかった。
極楽鳥が子供を運んでくる。
エリーズの実がそのまま子供に成る。
と、信じ込んでいそうな少女に、真実を伝えることは、今のカイルにはできそうもない。
カイルは真実を伝える代わりに軽く咳払いをすると、こう尋ねた。
「つまり、お姫様は、その歳まで一度も戦場に立ったことがない。ゆえに、戦争になったとき不安だ。だから今のうちに戦場がどういうものか、戦略とは何か、俺から習いたい、ということでOK?」
フィリスは、
「その通りです!」
と、決意に満ちた表情で返すと、再び、
「わたくしを女にしてください、カイル様」
という発言をした。
カイルはその真剣さと滑稽さに呆れたが、「分かった」とOKしてしまう。
その答えを聞いたフィリスは破顔したが、ともかく、カイルはこう思った。
あとでマリーあたりと相談をして、
「女にする」
という言葉を早急に封印せねば、と――。