第2章 龍星王フォルケウス始動Ⅱ
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ロウクス遠征軍は、まず全力でアルメニア砦を陥落させると、そこを拠点とした。
ルシフェンタール侯爵が討伐軍を率いてくるにしても、まだ時間に余裕があるのである。その間に現地の戦力をできる限り削り、拠点となる場所を確保するというのは、戦略上当然のことであった。
セイラムの謀略、フォルケウスの武勇によって、国境地帯の砦を次々と落としていくと、セイラムは砦の糧秣(食料)を本国へ送れ、と命令した。
「ロウクスに送るのですか?」
とある将軍はその指示に疑問を持った。
今回の遠征はまだ始まったばかりなのだ。ここで兵糧を本国に送ってしまったら、長陣に堪えられないではないか、と思ったのだ。
セイラムは答える。
「長陣になど備える必要はない」
その言葉を聞いた将軍はさすが漆黒のセイラム、と思った。
この男の脳裏にはすでに勝利の形が見えているのだ、と解釈したのだ。
無論、セイラムの脳裏には、いくつもの勝利のパターンが描かれていたが、今回用いる作戦は、将軍の予想したものよりも遙かに雄大で、遙かに狡猾な作戦だった。
ジルドレイ帝国軍6万と、ロウクス王国軍2万の戦闘は、夜明けの開始を以て行われた。
典型的な遭遇戦だった。
ジルドレイの先発部隊が、威力偵察も兼ねてアルメニア砦に迫ったとき、後背を扼そうと裏に回り込んでいたロウクスの部隊と激突したのである。
ロウクスのロシェ将軍は、セイラムから、
「敵と遭遇した場合は、無理をせず撤退せよ」
と、言明されていたが、このような形で遭遇してしまっては、退却のしようがなかった。ロシェは、なし崩し的に戦闘に突入してしまう。
一方、自分の作戦を台無しにされたセイラムだったが、怒りはしなかった。
「机上通りに物事が動くならば、そこら辺の乞食を掲げて天下を取っているさ」
「つまり、ロシェは有益な人材だから、殺すには惜しい、ということかい?」
フォルケウスは勝手に解釈をすると、ロシェに援軍を送った。
ちなみに送った援軍の数は、5000である。
今、動かせる兵の最大数だった。
「兵士をちびちびと送って戦線を拡大させても意味はない。兵力は有機的に連動させなければ」
セイラムはそう言い放つと、こう言明した。
「敵が逃げたら深追いはするなよ。ロシェを助けたらすぐに戻ってくるのだ」
援軍を送ったフォルケウスは、ロシェが無事戻ってきたことを確認すると、即座に戦場を移した。
「東方に決戦向きの平原がある。そこに全軍を集めて会戦を挑む」
「ほお、君にしては大胆だ」
フォルケウスはそう言ったが、非難の口調ではない。
「大軍と正面から戦うは、武人の血をたぎらせる何かがある」
「まあ思う存分戦ってくれ。ここで可能な限り敵の戦力を削いでおきたい」
「その口調だと、ここですべてを決めるわけではないんだね」
「それはお前次第だ」
セイラムはそう言ったが、セイラムにとってこの会戦は、壮大な計略の一環にしか過ぎなかった。
土竜の日の正午丁度に始まった決戦は、後に、
「ユグノー平原の戦い」
という呼称が与えられることになる。
この戦い、実に特殊な戦いであり、戦いの勝者がどちらであるか、後の歴史家は大いに論争することになる。
結論から言ってしまえば、ロウクス王国が負けた戦いとして歴史書に記載されることになるのだが、その敗北も意味のない敗北ではなかった。
まず戦いは、ロウクス側の優勢で始まった。
ロウクス王国の兵は、古来より強兵として知られ、各国に傭兵を多く供給している。
要は戦い慣れているのだ。
一方、ジルドレイは強国として知られているが、強国特有の悩みもある。
文明に触れている兵は弱い、という格言が古来よりあるのだ。
そこは経済力を背景にした装備の充実、兵学を発展させることによる軍師の質の向上、人口を頼みにした人海戦術、などで補ってきたのだが、今回はその弱点がもろに出る。
フォルケウスを先頭に突撃を繰り返すロウクスの勢いに、抗しきれなかったのだ。
次々と討ち取られるジルドレイの兵士達、その数は三日で2000を超えたという。
しかし、いつまでもフォルケウスの専横を許すほどジルドレイ軍は無能ではなかった。
正面突撃では敵わないと認めると、馬防柵を築き、防御戦に切り替えたのである。
これはルシフェンタールの軍師、オートパスによる献策だった。
ルシフェンタールは、強欲で権力欲の塊である、と評判は宜しくなかったが、部下の献策に耳を傾ける度量は持っていたのである。
帝国軍が馬防柵を築き始めると、ロウクスの攻勢はぴたりと止まった。
すると、圧倒的に優勢だったロウクス軍にもほころびが見え始める。
ユグノー平原に、ロウクス兵の死体が徐々に増えていく。
「ふはははあ、ロウクス、恐れるに足らずだ。所詮、蛮勇頼みの蛮族の群れ、同じ条件で戦ったのならば、文明人が負けることはないのだ」
ルシフェンタールの宣言通り、こうなってしまえば、数が多い方が有利になる。
ここは見渡す限りの平原であり、地形を利用して戦うことはできない。
そうなれば兵の数が物を言うに決まっている。
あとは時間の問題でロウクス軍は決壊し、全滅することになるだろう。
ルシフェンタールは大将として、どっしり構えながらその時を待っていればよいのである。
だが――、そのときは思ったよりも早く訪れた。
ロウクスの本隊が、一角獣の角笛を鳴り響かせたのである。
その音色は、全軍撤退の合図であった。
「なるほど、全滅するのは厭というわけか」
ルシフェンタールはそう独語すると、自分の髭を持て余す。
次いで軍師達の方を見やると、こう尋ねた。
「ここは追い払ったのをよしとしてこのまま撤退すべきか、それとも絶好の機会と見なして追撃すべきか、どちらだと思う」
主席軍師であるオートパスをはじめ、側近の軍師達は全会一致で追撃を薦めた。
自分たちの主人がそれを望んでいる、という事情があったからである。
ルシフェンタールは今回、国軍を用いずに自分の私兵と手下の貴族の兵だけで迎撃にあたった。
その意図は当然、功績を挙げ、国内の有力貴族達を牽制する目的がある。
特にライバルである末妹のラクチェとの差を広げ、奴らの勢力に付け入る隙を与えさせない、という意味では、武勲に勝るものはないのだ。
この功績を盾に帝国宰相の位さえ手に入れてしまえば、もう自分を追い落とそうとする競争相手はいなくなる。
それを熟知していたオートパスは、主に更なる武勲を立てさせるため、追撃とロウクスへの逆侵攻を提案した。
主の心証を良くするための甘言であるが、今が絶好の機会であることも確かだった。
ここでロウクスを叩き、有利な条件で講和を結べれば、主が帝国宰相になれるだけでなく、ジルドレイの武威も国外に響き渡ることになる。
それはジルドレイ国民にとっても、セレズニア北部地域の民にとっても、良いことであるはずだった。
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ロウクス軍が撤退に成功したのは、事前に多くの砦を奪取していたおかげであった。
セイラムはそれらの砦に最低限の兵士を配置すると、死を覚悟して戦うことを命じた。
ジルドレイの文明人には理解できないだろうが、北部の氏族にとって、戦は神聖なものであり、戦死はこの上ない名誉でもあるのだ。
例え自分たちが死んでも、兄が、弟が、後を引き継ぎ、家を、国を守ってくれるだろう。そう信じているからこそ、彼らは喜んで死ねるのだ。
フォルケウスは殿軍を志願した者達に、
「残された家族に不自由はさせない」
と、約束すると、ロウクスへと撤退していった。
ルシフェンタールは、自国の砦を奪還する際、その頑強な抵抗に驚いた。
「むむう、さすがは世に聞こえしロウクス兵、一筋縄にはいかぬか」
そう賛辞を送ったが、いかんせん、数が圧倒的に不足していた。
砦は次々と落とされ、ロウクス王国への国境線が無防備にさらされた。
ルシフェンタールは満足すると、早速、ロウクス王国への進撃を始めた。
しかし、侵攻を始めると、すぐに異変に気がつく。
「……妙だな」
そう独語する主に、オートパスは尋ねる。
「何か気になることでもございますか、侯爵」
「いや、ロウクス兵の精強なことは世の評判と先日の戦でよく分かった。だが、妙なのだ。その屈強な兵士を輩出しているはずの国の民が、こうも穏やかとは……」
ロウクス王国に侵攻して以来、ルシフェンタールは多くの村々を落としてきたが、どの村も大した抵抗もなく、占領されていったのだ。
「ロウクスの国民は全員が誇り高い戦士という伝聞は過大評価であったのか? 我がジルドレイのことを忌み嫌っているとも聞いたが」
その問いにオートパスは答える。
「それはひとえに侯爵の人徳のなせる業でしょう」
オートパスはごく自然に主を褒め称えると、こう続けた。
「更に付け加えれば、この国は大変貧しい。それにも関わらず、昨年の北部氏族平定戦以降、戦続きなのです。いい加減、ロウクス王家への忠誠心も衰えるというもの。それがしは、ロウクスの国民がジルドレイに併合を申し入れてきても驚きませぬ」
「相変わらず口だけは上手い男だ」
ルシフェンタールはそう鼻を鳴らしたが、内実、悪い気はしなかった。
「確かに、この国の民は困窮している。今こそジルドレイの、いや、俺の慈愛を見せつけてやるときかもしれないな」
ルシフェンタールはそう言い切ると、
「先ほど、村々から陳情があった食料の要求を認めてやれ」
と命じた。
「は! すべての村々にですか?」
「あの村に渡したのに、自分の村にはくれなかった、などという噂が立てば、俺の名誉に関わるだろう」
「……確かにその通りでございます」
オートパスは、自軍の兵糧の総量を把握していたので即座に返答した。
今回の反転攻勢は、計画になく、またジルドレイ北部の砦に備蓄されていた兵糧は敵に奪われていたので、量に余裕があるわけではなかったが、それでも村々に配るくらいの余裕はあった。
オートパスは部下に侯爵の命令を伝えると、即座に実行した。
無論、すぐに反応は返ってきた。
「侯爵、民草は大いに喜び、侯爵の徳を褒め称えております」
「ふむ、そうかそうか」
侯爵は満更でもないようだ。
「更に、噂を聞きつけた村々や砦、都市までもが抵抗を諦め、使者を派遣してきました」
「なんと、もうそんなに噂が広まったか」
「はい、我こぞって恭順の意を示しています。ただ、フォルケウス王の報復が恐ろしいと、兵の派遣を求めています」
「あの王は北部一、いや、セレズニア一の残虐性を誇るからな。良かろう。求めに応じてやれ」
「は!」
オートパスは侯爵の命令に従う。
こうしてルシフェンタールは、一週間でロウクス王国の国土の3分の1を支配下に置くことになる。
このまま行けば一ヶ月も掛からずにロウクスを陥すことも夢ではなかったが、帝国宰相を夢見る男はまだ気がついていなかった。
ユグノー平原の勝利から続く、一連の幸運が、一人の軍師によって仕組まれていた、という事実を――
ルシフェンタールは、その事実を、武力によって思い知らされることになるのだが、今はまだ、歴史的勝利に酔っていられる立場を失ってはいなかった。