第4章 フィリスの夢
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「一国のお姫様が、どうしてあんな場所で、あんな小汚い格好をして、端女の真似事をしているんだ?」
フィリスの部屋にやってきたカイルは、開口一番に素朴な疑問をぶつけた。
その質問に答えたのは、フィリスではなく、マリーだった。
「あの場所にいたのは、あの場所が救いを求める民が集まる場所だからです。小汚い格好をしていたのはおひいさまの身分を隠すため、端女の真似事をしていたのはおひいさまのあふれる慈愛のためです」
「つまり、身分を偽って、困窮する民のために尽くしていた、というわけか」
「その通りでございます」
カイルはマリーにではなく、フィリスに視線をやる。
「慈愛にも満ちあふれていませんし、民に尽くしているなどとも思っていません。わたくしはただ教区長の志に共感し、そのお手伝いをしているだけです」
「なるほど、ね。まあ、大体事情は飲み込めたわ。要は姫様は隠れて善行を積んでいたわけか」
「善行だとは思っていませんが、隠れてことに及んでいたことは認めます」
「その物言いだと、自分がいけないことをしている、ということは理解しているようだな」
カイルがそう言うと、フィリスは、
「……はい」
と、うなだれる。
「まあ、確かにな。一国のお姫様が、砦の最高指揮官が砦を抜け出して、危険に身をさらしていたんだもんな。言い訳はできないな」
「お言葉を返すようですが、危険など何もありません。あの場所に集まっているのは、神に救いを求めて集まった者たち。神の下僕である我々を害するわけがありません」
反論したのはマリーだったが、カイルは即座に返す。
「本当に? あの場に王妃派の手先が忍び込まないと言い切れるのか? 姫様の身分がばれないと絶対に言い切れるか? 言い切れるわけないよな、実際に俺にばれたんだもんな。まあ俺だから良かったものの、不埒な考えを持った奴らだったら、今頃、砦に残された者たちは身代金を要求されて四苦八苦してる頃だろうな」
その言を聞いたマリーはうなだれる。当然である。感情的にも理論的にも完全にカイルの方が正しいのだから。
だが、そんなマリーをフィリスは庇う。
「マリーを怒らないでください。すべてはわたくしが独断でやったこと。マリーはむしろ、わたくしが砦の外へ出るのには大反対だったのです。どうか、彼女ではなく、わたくしをお叱りください」
「おひいさま!」
そう言うとマリーは逆にフィリスを庇おうとするが、このままでは無限連鎖なので、マリーには黙ってもらい、フィリスにのみ語りかける。
「まあ、いい、どちらが言い出した、どちらが止めたかなんてのはどうでもいいんだ」
カイルはそこで言葉を句切ると続ける。
「俺が気にしているのは、今後もこの危険な奉仕を続けるか否か、だ。もちろん、一国の姫様として、この砦の兵士5000の命を預かる者としての答えを聞けると思っているが」
その言を聞いたフィリスは、しゅんとしながら、
「カイル様は卑怯です。そのような物言いをされたら、奉仕を続けるなんてとても言えません。……いけずです」
と、漏らした。
「もちろん、それが目的でこの論法を用いたんだ。もしもNOと答えた場合は、アザーク辺りに告げ口をするがね」
「………………」
快活なフィリスが珍しく言葉をつぐむ。
それほどまでに秘密の奉仕活動は彼女の一部となっているのだろう。
カイルは攻める方向を変えてみることにした。
「てゆうか、お姫様、なぜ人々に奉仕をするんだ」
「不幸な人々を一人でも減らすためです」
「なるほど、確かに姫様の行動で、何人かの無宿人や浮浪児達は腹を満たせたかもしれない。そういった意味では不幸な人間を減らせたかもな」
だが、と、カイルは言葉を句切る。
「しかし、それは姫様でなくてもできる。そこにいるマリーでも、他の侍女たちでもだ。言い方は悪いが、姫様よりも遙かに上手く炊き出しでも洗濯でもこなすだろう。彼女たちはそれが本職だからだ」
「……つまり、わたくしでは足手まといだと?」
「姫様には姫様にしかできないことがあるはずだ。姫様は王族で、しかもこの砦の将軍なんだ。姫様の行動次第では、より多くの人を不幸の底から救うことだってできるんだ」
「………………」
我ながら理想論だな、そう思わなくもないが、この際どうでもいいことだった。これで姫様が砦を抜け出すなどという馬鹿なことをしなくなればいいのである。
「………………」
フィリスは暫し沈黙すると、
「……昔、……昔ですが、同じようなことをとある方に言われたことがありました。人にはそれぞれ役割があるのだ、と。カイル様がおっしゃりたいのはそのことなんですよね」
と、カイルの顔を覗き込む。
「おおむねそんな感じだ。だからもうこんな勝手はするなよ」
そう結び、話を切り上げようとしたのだが、フィリスはそれを許さなかった。
「分かりました。わたくしにはわたくしの努めがあります。今後はそれのみを果たすことをお約束します。ですからカイル様、カイル様はわたくしの側に寄り添い、その手助けをして貰えませんか?」
「……つまり、姫様に正式に臣下の礼を取れと?」
「はい、カイル様さえ宜しければ」
「前にも言ったが俺は――」
「分かっています。カイル様ほどのお方を永遠に留め置くことなどできないことは承知しています。ですが、今のわたくしには確かな依り代が欲しいのです。あの白銀のエシル様が側に居てくれるという確信が欲しいのです。そうでなければわたくしは――」
フィリスはその先を続けなかった。
齢14にして親元を離れ、辺境の砦にやってきたのだ。思うところがあるのだろう。ましてや実の親に命を狙われる身、本当ならば泣き崩れてしまいそうなほど心細いはずだ。
正直、このまま彼女の肩を抱きしめ、彼女の軍師となってしまいたい気持ちがないと言えば嘘になる。
短い邂逅ではあるが、カイルはこの姫様が良い姫であることを知ってしまったし、良い主になることも知っていた。
しかし、カイルはだからこそ彼女の臣下になるわけにはいかなかった。
なぜなら、カイルは白銀のエシルではないからだ。
カイルのような詐欺師が軍師となってしまえば、彼女をより危険な目に遭わせてしまうことは明白だった。
ゆえにカイルは何度請われても正式な軍師になるつもりはなかった。
いや、なれないのだ。
「………………」
カイルは下唇を噛み締めたまま王女の部屋を辞そうとした。
王女は、「お待ちください」とカイルを止めると、テーブルに置いてあったハサミを手に取る。
そしてマリーの制止を振り切り、己の髪にハサミを入れる。
ばさり、と美しい髪の一部が彼女の身体から切り離される。
彼女はそれをカイルに手渡すと、こう説明をした。
「エルニカの民にはこんな伝承があります。命の次に大切な物を命よりも大切な人に渡しなさい。さすればいつかその者と必ず再会できるでしょう、と」
「だから髪を?」
「エルニカの乙女にとって髪は命の次に大切なものですから」
そんな台詞を聞いてしまったからだろうか、手にした髪が実際よりも遙かに重く感じる。
少女は、フィリスは、カイルがこのままこの砦を辞することを肌で感じたのだろう。だからこのような馬鹿な真似をしたのだ。
今のカイルにそのようなことをする価値もないとは知らずに彼女は続ける。
「わたくしには夢があるのです。その夢とはこの国に住まう民すべてを幸せにすることです」
「幸せ? 不幸から救うのではなく、幸せにするのか?」
「はい、どうせ大業を達成するならばより大きなことをしたいのです。不幸ではない、よりも、幸福と言い切れる人生をより多くの人たちに、それがわたくしの目標です」
「壮大な理想だな」
「わたくしの蒙を啓かせたのは他ならぬカイル様です。カイル様のような英雄に出会ってしまったから、カイル様に助けられてしまったから、わたくしはこんな壮大な夢を見るようになってしまったのです」
「……まるで俺が悪いみたいな物言いだな」
「はい、端的に申し上げれば。ですからカイル様に責任を取って貰いたいのです」
フィリスはそう言うと、
「もう一度だけお願いします、どうかわたくしの軍師となって頂けませんか?」
と、結んだ。
カイルは少女の真剣な眼差しと願いから逃れるように呟いた。
「そのときがくるまでは君の側に居るよ」
と――。
要は逃げ出したわけであるが、カイルはそのことを恥だとは思わなかった。