第4章 姫様の一日
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エルニカ王国の王女、フィリス・エルニカの朝は早い。
小鳥たちのさえずりよりも早く目を覚ますと、侍女達が現れ、彼女に絹のドレスをまとわせる。
王族の者は自分では服を着ないというから、両手を挙げ、侍女達が恭しく彼女に衣服を身にまとわせているのだろう。
できればその役目を代わって欲しいが、それは白銀のエシルに成り代わることより難しそうなので諦める。
次いで、朝の礼拝を済ませる。
彼女はその大きな瞳をゆっくり閉じると、カイルが二度寝してしまいそうなほどの時間をかけ、神に祈りを捧げる。
彼女に付き合う形で礼拝に参加しているが、彼女は何を祈っているのだろうか?
カイルは、好きな小説の続刊がでないかな、とか、淫らな貴婦人が手招きしてこないかな、とか、そんなことばかり祈っているが、フィリスは生まれてからこの方、そんな不埒な願いなど考えたこともないのだろうな、と思った。
それほどまでに彼女の表情は真剣なのである。
さて、そのような退屈な時間を終えると、念願の朝食である。
フィリスは、いつものように指揮官用の食堂に訪れる。
フィリスほどの身分ならば、自室に御馳走を並べ、ベッドの上で寝そべりながら優雅に食事をすることさえ叶うのだろうが、彼女は特権を行使することはない。
それどころか、
「兵士達と同じ物を食べてこそ、彼らと気持ちを共有できるのです」
と、兵士用の食事をとっていた時期もあるそうだ。
ただ、それは兵士には評判がいいが、指揮官達からは評判が悪かった。
当たり前である。
自分の上司である王族がそんな粗末なものを食べている中、自分だけ指揮官用の食事に舌鼓を打つわけにはいかないからである。
ゆえに、ある日、その苦情を聞きつけた侍女のマリーがごく控えめに進言した。
「おひいさま、兵士達の気持ちを御理解しようと努めるのは宜しゅうございますが、姫様はこの砦の主でございます。兵士達だけでなく、指揮官達の気持ちも御理解なされませ。姫様がそのような粗末な食事をされていては、彼らも余裕ある食事はとれませぬ」
フィリスは賢い少女であり、忠実なる侍女の言葉の意味を察すると、翌日からは指揮官用の食事に切り替えたそうだ。
ザハードは、そのことでフィリスの器を感じ取り、こんな台詞を漏らした。
「宜しい。拙者達は兵士の将だが、姫様は将の将でござる。兵士の苦楽を理解する姿勢は正しいが、兵士と苦楽を共有するのは王者の勤めではない」
さて、このような経緯があったゆえに、本日の食事はまともな物ではあった。
土豆と野菜のスープにはちゃんと肉が入っているし、パンも全粒粉ではなく、麦芽などを取り除いた物に蜂蜜を加えた奴だ。
鶏卵の目玉焼きも添えられていて、そこそこの宿にでも泊まらない限りありつけない御馳走である。
しかし、王族の食事の御相伴、を期待していたカイルには失望を禁じ得ないメニューであることも確かだった。
カイルは、早朝の礼拝に引き続き、退屈を持て余しながら、食事を手づかみにする。
フィリスは、貴人の模範のようにナイフとフォークを使い、パンも一口大に区切って口元に運ぶ。
フィリスはカイルの半分の量の食事を3倍の時間をかけて食し終えると、席を立った。
ちなみにフィリス達一行は最初に現れたが、一番最後に食堂を後にしたことになる。
食事を終えると、次は執務室に向かう。
この砦は軍事施設でもあるが、この辺り一帯を治める行政府としての役割もある。
税の取り立てや、村々の陳情、商人達から買い付ける武具や食料の決済、やることは山のようにある。
フィリスはそれらの事務仕事を午前中には片づけてしまう。
彼女の生真面目さとたぐいまれな行政処理能力の合わせ技であるが、一日の仕事を終えてしまったからとはいえ、その後自堕落に過ごさないところが、カイルとは根本的に違うところなのだろう。
事務仕事を終えると、余暇を己の研鑽にあてる。
本日は剣の稽古のようだ。
フィリスは、はつらつとした笑顔で、
「カイル様、わたくしに剣の稽古をつけて頂けませんか?」
と申し出てきた。
カイルはもちろん断る。
理由は、間近でその巨乳が揺れる様を見てしまったら後れを取るかもしれない、
――からではなく、単純に負けてしまうかもしれないと思ったからだ。
細身の剣を巧みに操るフィリスは、達人とはいえないまでも相当の使い手で、我流のカイルが教えられそうなことなど何もなかった。
結局、砦内の若手の騎士達を集め、日が暮れるまで乱取り稽古に励むのだが、フィリスは男達から一本も取られることはなかった。
男達が手加減をしている可能性も考慮したが、汗だくになり地面に大の字で寝ている連中と、手ぬぐいで汗を軽く拭っている少女、どちらの実力を信じるか、口に出すまでもなかった。
さて、このように午後は大抵、剣術の稽古か、書物などを読むことにあてられる。
彼女は、勤勉であり、努力家でもあった。
正直、王族うんぬん抜きにしてもカイルとはまったく釣り合わない少女である。
無論、そんなことはカイルも分かっているのだが、世の中には口に出さないと気が済まない人間もいるようで、銀髪の少女はからかうように絡んできた。
「すごいお姫様だな。仮に彼女が王族でなくても、お前みたいなチャランポランと釣り合うとは思えない」
「うるせー、そんなことくらい分かってるわ」
「あれは仮にもし、町娘に生まれたとしても修道院にでも入って地元では聖女とあがめられるタイプだ。まかり間違っても詐欺師に惚れることはないな」
「だから分かってるっつーの、しつこい女だな。だから乳が膨らまないんだ。お前も姫様の万分の一でもお淑やかになれば、乳も膨らむんじゃねーの? 少しは見習え」
「何を言っている。私の方が遙かにお淑やかではないか」
「お前のどこが」カイルは胡散臭そうにエリーの全身を見やる。「慎ましいのは胸だけじゃねーか」と皮肉を漏らす。
「私は姫様のように剣術はできないぞ。それどころか戦術書よりも重い物を持ったことがない」
「戦術書って物によっては人の頭をかち割れるくらい重いだろうが」
「私は馬に一人で乗れないぞ。姫様は騎士のように勇壮に乗りこなす」
「お姫様乗りもできるけどな」
「横乗りという奴か。あれは一見優雅に見えるが、メチャクチャ高難易度なのだ。ゆえにできない方が逆にお姫様っぽい、と私は思っている」
「勝手に思ってろ、貧乳娘が」
その言を聞いたエリーは、むすっとした表情で言う。
「……ていうか、二言目には貧乳貧乳と、お前のボキャブラリーは乳に関する言葉しかないのか、それとも私が完璧すぎて、乳くらいしか欠点がないのか」
きっと、後者なのだろうな、とエリーは欠点だらけの発言をするが、カイルはその言で改めてエリーに視線をやる。
「………………」
エリーは自分で美少女と言い放つだけあり、それなりに容貌の整った少女だ。
……いや、正直に言ってしまえば、やはり美少女だった。
綺麗な目鼻立ちをしており、その銀髪も相まってか、それなりの服を着せればどこぞの国のお姫様と言い張っても通用してしまうだろう。
実際、カイルがエリーを奴隷商人から救い出したとき、エリーのことを貴族の娘だと誤解してしまったほどだ。
もちろん、すぐにこの毒舌家がそんなご大層なものではないと分かったのだが、人間、見た目は大事であると悟る一例にはなる。
さて、エリーに対する観察はここまでにする。
「黙っていれば人形みたいだな」などという感想を漏らそうものなら、付け上がること必定だからだ。
「つうか、俺は姫様のところに行くぞ。姫様の乳は倫理的や生命の危機的な意味で触れられない事情があるが、見る分にはタダだからな。物理的に触れない、見れないのお前といるよりはずっとましだ」
「ふん、まだ言うか、このストーカーめ」
「何とでもいえ、……って」
そう返すカイルだったが、聞き慣れぬ言葉に思わず問い返してしまう。
「って、ストーカーってなんだ?」
「なんだ、ストーカーも知らないのか。無学だな」
「俺は無学だよ。つうか、それでも気になる。なんか最上級の侮辱言葉なような気がする」
「まあ、お前が知らないのも当然だな。これは異世界の言葉だ」
「異世界の言葉? 天秤評議会の軍師ってのは異世界の言葉も学ぶのか?」
「まあ、人によってはな。私は異世界などに興味はないが」
「じゃあなんで知ってるんだよ、そんな言葉」
「これは、天秤評議会の仲間であるサクラという者に教わったのだ」
「サクラ?」
「ああ、サクラという者は、異世界からこの世界にやってきた軍師だ」
「へえ、そんなのがいるのか。すげいな、天秤評議会は」
「まあ、変わった奴だが気が良い奴でもある。偏屈者が多い評議会の中では気が合う方ではあった。ゆえに色々と話すようになり、奴の国の文化や風俗なども聞いた」
「その中にストーカーって言葉があるのか」
「うむ、そうだ。意味は、一方的に異性に懸想して、相手の迷惑を考えないで相手をつけ回す破廉恥な男、という意味だそうだ。まさしく今のお前だな」
「………………」
「ちなみにサクラの世界にはこんな言葉もあるそうだ」
エリーはそこで言葉を句切ると、
「ニート」
と一言口にした。
これまた意味は分からないが、とても侮辱された気持ちになる。
「意味は、働きもせずに、一日中遊びほうけて、他者の臑をかじる穀潰しのことらしい」
「……っけ、俺のことだと言いたいのかよ」
「それ以外に聞こえたなら、私の言い方が悪かったのだろうな」
「………………」
さすがに頭にきたので無言のまま背を向ける。
確かにカイルは、ザハードの一件以来、良くいって穀潰しのようなことをしていたが、それはカイルの当初の目的通りなので、今更指摘されるようなことではなかった。
ゆえに、そのままこの部屋を出ようとしたのだが、この娘はさすが伝説の軍師と言うべきか、たったの一言でカイルの歩みを止めてしまう。
「そこまで姫様のことを見つめているなら、そろそろお前も姫様が水竜の日に必ず部屋に籠もる法則性に気がついているのではないか?」
エリーはカイルが今、一番気にしている事実を淡々と語った。
カイルは振り返り、「理由を知っているのか?」と問おうとしたが、そう問うまでもなく、エリーは種明かしをしてくれた。
「理由は知らないが、姫様と侍女が抜け道を使い、城の外に出ているということまでは突き止めた」
「城の外に? なぜ?」
「それは知らない。でもお前にその抜け道の出口を教えれば、姫様が何をしているか探ってくれるのではないか、とは思っている」
「………………」
カイルはにやにやとこちらを見つめている銀髪の娘に溜息を漏らす。
もちろん、カイルはエリーの策略に乗ることになる。
我ながら情けなくはあるが、フィリスが何をしているか、気になって仕方ないのだ。