六話 頼られる恐怖
その日は食事だけして帰った。
店までの足取りが重い。
充君はどんな反応をするのだろうか。
今までだってそれほど仕事中に会話をすることはなかったが、きっとカットに集中できなくなってしまうような気がする。
「おはようございます」
それでも恵美さんに悟られるわけには行かないので、気を引き締めて扉を開けた。
「おはよう」
「おはよう」
普段はあたしの後に来ている充君がすでに来ていたので、飛び上って驚いてしまった。
「春美ちゃんったら大げさね。あたしもさすがにそこまで驚かなかったわよ」
「そうですよ。僕だってたまには早く来るんですから」
充君はそう言いながらもとても嬉しそうだ。
恵美さんが奥に行ってから、充君がそっと近づいてきた。
「本当は昨日のことが嬉しくて眠れなかったんです。早く目がさめちゃったし、一人でいると落ち着かなかったんです。
男のくせにバカですよ」
充君は照れたように笑っている。
あたしと付き合えたことを本当に喜んでいるようだ。
あたしはただ笑いかけることしかできなかった。
でも、今だから、今だからまだ充君は何も思わないんだよ。
恋に酔っているから、でも見えてきたらあたしのぎこちなさに気づいて、充君が苦しむ。
そしてあたしは・・・。
ここを辞める?
そうなったら充君も辞めそう。
そしたら恵美さんが困っちゃう。
そうこうしているとお客さんが来た。
「春美ちゃーん。もうこの日を待ち望んでいたわー」
三カ月前から予約を入れていた由美さん。
由美さんは世界を飛び回るエステキシャンだ。
いつもこんな美しい人があたしに大切な髪を切る作業任せていいのだろうかと心配になる。
でも由美さんはあたしのカットじゃなきゃ嫌だと言ってくれるのだ。
「思い切ってね、ボブにしてみようかなって思うんだけど、どう思う?」
胸の辺りまで髪を伸ばしていて、いつもはパーマをかけたり、色を変えたり、段を入れたことはあったが、長さはそれほど変えなかった。
「思い切りますね」
「結構手入れ大変だし、仕事するのも楽でしょう? 今ボブが結構流行ってるみたいだし、どうかな?」
由美さんは輝いた目をあたしに向けてくる。
本人がそうしたいと言っているのだからしてあげるべきなのだろうが、どうした方がいいと聞かれるといつも困る。
髪は一度変えてしまえばすぐには戻らないものだ。
ましてこんな長さをボブにしてから由美さんが後悔するようなことになってしまったら、あたしは美容師を辞めたくなってしまう。
「お似合いになると思いますよ。どういった風にしましょうか」
あたしはできるだけ慎重に考えられるように雑誌を持ってきた。
ただボブと言っても仕上がりは様々だ。
毛先を少し巻いてみたり、全体的にボリュームを出したり、キノコカットのようにしてしまったり・・・。
「そうねー。ふわっとしているのがいいかもね。こんな感じにしてちょうだい」
由美さんはたくさん並ぶ女性の髪形から、一つを指さしてくれた。
これで一安心だ。
後はこの髪型を由美さんに合うようにするだけ。
力の入っていた肩を落として、シャンプーに取り掛かった。
カットを始めようと元の位置に戻ると、鏡越しに充君がカットを始めている姿が見えた。
あたしは由美さんに悟られないように深呼吸をしてからはさみを取り出した。
「本当ここに来たら髪の毛切ってもらえるだけじゃなくて安らげるわ。明るい春美ちゃんと、可愛い充君に会えるからね」
由美さんは鏡越しにカット中の充君をうっとり見つめた。
「あたしたちなんて職場に男の人いないでしょ? どこ回っても客も女の人だけ、そりゃね、各地に行って色んな男の人ひっかけてるわよ。
でも所詮その場でかっこよかった、優しかった。ってなって終わりでしょ。ひと時すぎる癒ししかないのよ」
由美さんは不服そうに言っているが、あたしにしては結構衝撃的なことを聞いてしまった。
これほど美しくて仕事のできる由美さんに恋人ができないのはそれが問題なのだろう。
「でも色んなところでお仕事ができるのは羨ましいですよ。色んな出会いがあって楽しそうですしね」
あたしが言えば、由美さんはニヤニヤと笑いながら
「でも春美ちゃん目当てでくるお客さんいるでしょ?」と聞いてきた。
「そんなのいませんよー。恵美さんに取られちゃいますから」
あたしがおどけたように言えば、由美さんもくすりと笑ってくれた。
「確かにあの人羨ましいわー」
由美さんは感心したように言っている。
「春美ちゃんは結婚しても仕事続ける派?」
由美さんは少ししてからあたしの目を見つめながら言った。
「えー、どうですかね。まだそんなこと考えたことないですよ」
「でも春美ちゃんだって一年後には結婚してるかもしれないのよ。決めとかなきゃ」
由美さんは何故だか少しだけ悲しそうだった。
「由美さんは結婚しても続けるんですよね?」
あたしができるだけ明るく言うと、由美さんは「まあね」と言ってから考えるような顔になった。
何か触れてはいけないものに触れてしまっただろうか、はさみを持つ手が震えそうになった。
背中には嫌な汗が流れている。
「あのね、あたしってば本当にこんな生活してるから友達もそんなにいないの。
職場の子だってあたしが上だってなったら向こうは同等で話してくれないでしょ?
だからね、本当にここは癒しなの」
友達に話したいようなことをあたしに話してくれている?
このあたしなんかに大切なことを話そうとしてくれている?
それであたしは、なんと言えばいい?
心臓がどくどくと打っているのが伝わってきた。
はさみが手から落ちそうになる。
どうしてあたしみたいな人に、由美さんが、心のよりどころにしようとしている。
頼られるのが怖かった。
あたしはきっとこの人の期待には添えられない。
そう思うと怖くて怖くて・・・。
「春美ちゃん?」
はさみを落さないように左手でがっしりと掴んで立ち尽くしているあたしを、由美さんは心配そうに見つめてくる。
「すみません。ちょっと、続けますね」
なんとか気持ちを落ち着かせると、はさみを握りなおした。
もう震えは止まってくれていた。
由美さんはそれからは口を開かずに、ただじっとされるがままになっていた。
癒しであるはずだったあたしを、あたしは拒絶した。
拒絶したことが由美さんに伝わってしまっただろうか。
最後まで口を開かなかった由美さんにただただ罪悪感だけが溢れていた。