三話 暴かれた心の闇
そして迎えた日曜日。
日曜日は午前中に予約が大量に入り、休む暇もないのがお決まりだ。
覚悟はしていてもやはり体は疲れる。
三時になってようやく少し落ち着いてきたので休憩を取らせてもらえた。
奥にある休憩スペースのソファーに体を預けると、優馬が入って来た。
アルバイトは呑気でいいものだ。
優馬はあたしの疲れ果てた様子を見てまたもや鼻で笑った。
全く不快な男である。
しかし今のあたしにはそれを咎める体力はなかった。
少し休憩すればまた戦場に赴かなければいけないのだ。
それに今日は説教をできる場があるのだ。それまで我慢だ。
あたしは自前のお弁当を貪りながらまた店へと戻って行く優馬の後ろ姿を睨んだ。
全く大学生の分際であたしになんの恨みがあると言うのだ。
疲れとイラつきが重なり、弁当を流し込むような勢いで食べてしまった。
体に悪すぎる。
それに今日はまた酒をたくさん飲まなくてはならないのだ。
胃がただれてしまいそうだ。
「よし、行くか!」
店に戻って残りの予約を確認する。
午後にもなればほとんど入っていないが、予約なしの客が押し寄せることもある。
今は客は一人だけだ。
それも恵美さん目当てでわざわざ新幹線に乗ってくる男性だ。
この客は長くなりそうだ。
「充君、休憩してきていいよ」
先程の客の片づけをしていた充君は、ホッとしたような顔で「ありがとうございます」と言った。
まだ途中だった片づけを請け負おうとモップを手にした時だった。
「これぐらいなら俺がやるよ」
相変わらず口の利き方がわかっていない優馬がモップをひったくるように取った。
やはり今ここで説教をしてやろうかと思っていると、タイミングがいいのか悪いのか、客がきた。
日曜日のこの時間は皆でテレビを見ながらそろそろ食卓を囲もうかと言う時間だ。
七時に閉まるこの店は日曜日は六時にもなれば客はほとんどやってこない。
「そろそろ片づけ始めましょう」
恵美さんの掛け声であたしと充君はせわしなく動き始めた。
シャンプー台を綺麗にしていると、恵美さんは奥に入って行った。
今のうちに今日の分の売り上げの確認と、明日の予約の確認だろう。
ふと優馬は何をしているのかと鏡越しにフロアを見てみたが、目につく場所にはいなかった。
恵美さんと一緒に奥に行ったのだろうか。
特に気にする必要もないが、まだ入ったばかりだからかあたしの担当する客のアシストはしてもらったことがないので、どんな仕事をしているのか気になった。
結局それから客が入ってくることはなく、閉店時間には粗方の片づけが終わっていた。
「ねえ、あの子にアシストしてもらったことがある?」
恵美さんが出てくるのを待つ間充君に駆け寄って話せば、充君は少し嫌な顔をしながら首を横に振った。
あたし以上に優馬のことを嫌っているようだ。
「今日歓迎会でしょ。でもきっと優馬も慣れればこっちにひきこめるよね?」
あたしが笑顔で言えば、充君もなんとか笑顔になってくれた。
「春美さんがいれば安心だよ」
突然充君がらしくないことを言うので、動揺してしまった。
何か返さなければいけないだろうか、あれこれ考えていると恵美さんが奥から出てきてくれた。
「もう終わったのね。それじゃあ行きましょ。準備しなさい」
恵美さんは優馬を引き連れてあたしたちを奥においやった。
「まさか優馬って恵美さんが連れ込んできたのかな?」
あたしが言うと、充君は今日初めて声を出して笑った。
「ありえるね」
「それじゃあ今日は優馬に預けてあたしたちは早めに逃げちゃおっか?」
冗談交じりに言えば、充君は何故か真剣な顔をしていた。
「もし、本当に早く出られたら、二人で飲まない?」
充君があまりにも真剣な顔をしているので、あたしは吹き出してしまった。
「そんなに堅くならなくても、いいよ。それぐらい」
「それでは、新しい仲間が加わることを願ってー、かんぱーい!」
何度乾杯をするのだろうか。
要するに恵美さんは乾杯がしたいだけではないのだろうか。
そんなことを思いながらもグラスを高々と上げる。
今日の席順は狙った通りいつもの席に優馬を恵美さんの隣に配置させている。
「優馬君は美容師になるために勉強しているのよね」
恵美さんは既に酔っ払いモードで絡むように優馬に話しかけている。
「さー、色々試案中なんですよね。とりあえずファッションとか、そういうの興味あるから来たって感じですよね。
次はアパレルいこうと思ってますし」
優馬は真面目に恵美さんに答えているが、内容は真面目ではない。
こんな奴が店員だと売れる服も売れないのではないかと思う。
「でも、もし美容師になるって決めたら是非うちに来てね」
恵美さんは優馬の両手をがっしりと握って潤んだ目で見つめた後、倒れて行った。
既に十杯は通り越している。
優馬がいることでいつも以上に弾けている。
「あたしちょっとお手洗い行ってくるね」
はー、全く酒にも強くないのに恵美さんに付き合ってたら大変だわー。
ハンドタオルを濡らして額に当てて少し休憩した。
いつもよりまだ飲んでいないのにいつも以上に疲れる。
優馬がいるからだ。
それにしても変な子が入ってきて、皆のペースは乱れっぱなしね。
そろそろ出ないと心配されそうだったので、お手洗いを出ると、廊下に優馬がいた。
「はっ、相変わらず大変そうで、嘘の笑顔浮かべて嘘の明るさで周囲の人気を得て、大変だなー。
本心隠すって疲れるよなー」
優馬はあたしの顔を見るなり嘲笑うように言った。
「何を言っているの?」
「だからバレバレなわけ。あんたは笑ってても心は笑ってない。本当は怖いんだろ?」
「何が」
「人間が」
優馬の言葉が悪魔のささやきに思えた。
高校生になってしばらく戦い続けていた心の声がまるで飛び出してきたかのようだ。
「わかるよ。あんたみてたら、無理してんだなってさ」
優馬がいやらしく笑う。
どうしてこんな奴に。
「馬鹿じゃないの。あんたが嫌いだからあんたに向ける笑顔がひきつってるからそう思うんじゃないの?」
「ちげーよ。俺ずっと仕事中のあんたの顔見てる。明るく振る舞って相談乗って、すごい気さくで入りこんでるように見えるけど、
あんたは相手に気づかれないように客の顔色すげー気にしてる。だろ?」
今まで誰にも気づかれなかったのに、入りこみたいと思った人にも気づかれなかったのに、入り込んできた奴だって気づかなかったのに。
「なんであんたみたいな奴に」
声が出ていたことに気づいたのは言い終わった後だった。
「ごめんなさい」
「だから、そういうのだって。俺今あんた挑発してて、なんであんたがやっちまったみたいに謝んだ。
第一嫌いなら嫌われてもいいんじゃないのか?」
優馬は先程から正当なことばかり言ってくる。
喧嘩売られてるのか、助けられてるのかわからない。
「俺が信じさせてやるよ。怖くならないように、心から笑顔を出せるようにしてやるよ」
優馬は得意げな笑みを浮かべると、あろうことかあたしの唇に唇を重ねた。
「なっ、にすんのよ」
思い切り突き飛ばすと、優馬は満足したように笑った。
「そうそう、そういう調子」
一体何がしたいんだ。
あたしは数秒その場で放心状態になった。
少しして戻ってくれば、優馬は何事もなかったかのように酒を飲んでいる。
恵美さんは既に眠っていて、充君は肩身が狭そうに酒を飲んでいる。
「充君、ごめん。あたし先帰ってもいいかな?」
あたしの顔色がそれほど悪かったのか、充君が心配そうに近づいてくる。
「体調悪いの?」
「ううん、大丈夫だけど、ごめん後任せるね」
優馬はビールを喉に流し込みながら一瞬こちらに目を向けたが、何も言って来ない。
「お疲れ様」
あたしは逃げるようにその場を後にした。
充君と抜け出せたら飲もうなんて言っていたのに、何も言わずに出てきてしまうなんて嫌われたに違いない。
忘れかけていた思いが溢れてきた。
明日は休みだけど、明後日あたしは平気な顔でお店に立てるかな?
恵美さんにも迷惑かけたらどうしよう。
あの二人に嫌われたらあたしの全てが終わってしまう。
「春美ちゃん!」
後ろから呼び止める声が聞こえてきた。
よく見れば充君だった。
充君が息を切らせながら全速力で近づいてくる。
「どうして」
「心配だったから、もしかしてさっき優馬になんか言われた?」
充君が心配そうに見つめてくる。
言われたのは確かだ。
そして最低なこともされた。
でもそんなこと充君に言ったら余計にこれからの空気が変わってしまう。
「違うよ。本当に今日疲れて飲んだから、少し体調が悪くなっただけ、恵美さんが寝ちゃったから今しかないと思ってね」
あたしが笑顔で言えば、充君は安心したように「そっか」と言った。
ほら、普通の人は皆騙されるじゃない。
それなのにどうしてあいつは気づいちゃうの。
涙が溢れて止まらなかった。
「どうしたの? 大丈夫? どこかで休もうか」
充君は慌てながらもあたしの肩を抱いてくれた。
こんな状態で店に入るわけにも行かず、お互いの家も遠かったので、充君は仕方なくホテルに入って行った。
あたしはそれどころではなく、そんな充君を咎めることもできなかった。
「本当はなんか言われたんだろ」
充君が真剣な調子で尋ねてくる。
「ごめん、何も言われてないよ。ただ」
「好きだ」
「えっ?」
充君が真剣な目であたしを見つめてくる。
「春美ちゃんのことがずっと好きだ。出会った時から君の笑顔が好きだった。誰にでも気さくに話す君を見ているのが好きなんだ。
だから、苦しんでいるのなら助けてあげたい」
充君の言葉が余計に心に突き刺さる。
いつもそうだ。
いつもみんなこうして告白してくる。
女性にもそういうところが好きだって言われる。
誰もあたしの本当の姿なんて見えていない。
「そう、思うなら・・・。愛して」
いつもこうだ。
愛してくれるものに縋り付いて、でもそれ以上踏み込めない。
だから付き合ってもすぐに向こうから別れを告げられてしまう。
本当は好きじゃないんだろ。無理してるんだろ。
何度そう言われただろうか。
充君は驚いていたけれど、愛おしそうにあたしを抱きしめた。
本当に誰か、本当のあたしを助けてほしい。