元主人、元執事
「随分とふざけた事してくれたじゃねぇか」
絵理に馬乗りになっていた男は既に動かない。相手が返答するより早く、オレは残りの二人に近寄り、思い切り殴り飛ばす。
呻き声を上げて、二人の男はあっけなく昏倒した。
けっ。どいつもこいつも一発でダウンかよ。
オレは絵理を助け起こし、ブレザーを脱いで絵理に着せた。
「それ着てろ。じゃないと胸が丸見えだ」
「む……。すまぬ。しばし借りるぞ」
「おう」
さて、と。
「千沙子。お前、自分が何やったか解ってるか?」
「ふん……。解ってるわよ。そのくらい。
問題児を三人お金で雇って、貴方のご主人様を襲わせた。
……殴りたければ殴ればいいわ」
千沙子はそっぽを向いたまま、こちらを見ずに答えた。不貞腐れた時の、こいつの癖だ。
「不貞腐れた挙句、開き直ってんじゃねぇよ。
お前のやった事は犯罪だ。第一、絵理は関係ないだろう」
「関係ないですって? 貴方、この子が裏で何やってるか知ってるの? 貴方のいないときは他の男をはべらせて、いい気になって。……私から貴方を奪って、そんな事をしている女を許せると思う?」
青司のことを言ってるのか。やれやれだ。
「んな事は知ってる。というか、今日はその男と、三人で一緒に昼飯食ったぞ。嫉妬に狂って邪推ばっかしやがって。だから女は面倒なんだ」
「その嫉妬を駆り立てたのは一体誰だと思ってるのよ! 私よりもその子が良くなったから突然出て行ったんでしょ。正直に言いなさいよ」
千沙子の言い分に、オレは心の底から溜息をついた。まったく……。人の事情が全て色恋で片付くと思ってるのか?
「順番が逆だ。お前の家にいられなくなったから出て行った。絵理の家に雇われたのはその後。ついでに言うと、絵理に会ったのもな」
「私の家にいられなくなった理由って何?」
「それは言えない」
「ふざけないでよ!」
千沙子がオレに詰め寄った。
「じゃあ言うよ。お前に飽きた。それだけ」
「嘘ばっかり」
「嘘じゃねーよ」
嘘だけどな。
「嘘だわ。貴方、嘘つくときいつも自分の髪に手をやって、私から目を逸らすの。上手に嘘つきたいなら、その癖直した方がいいわ」
千沙子に言及され、無意識に髪にやっていた手を思わず凝視した。
自分にそんな癖があるなんて、気付いてなかった。オレのこと、結構良く見てたんだな……。
あっさり見破られて少々気まずい。
「とにかく、理由は言えない。知らない方がいい事もあるんだよ」
「何その言い方。
……ふぅん。さては、母にでも誘惑されたの?」
いきなり核心を付かれて、オレは面食らった。
「お前、何で知って……! いや違う。今のなし」
「図星、ね。隠さなくてもいいわ。母が昔からそういう事を繰り返してたのは知ってるもの」
待て。今何て言った。
「知ってた?」
「ええ。何年一緒に暮らしてると思ってるの?
母は常に誰かが側にいて、自分を見ていてもらわないと耐えられない弱い人。……恋愛中毒なのね。
父はあの通り家を空けてばかりだし、必然的に異性の使用人に、その役割を求めることが多かったの」
「そうだったのか……」
もうそれしか言えん。知ってたんですかそうですか。
「馬鹿ね。気を使って屋敷を出て、母を恨むより自分を恨んでくれればいいとでも思ったの? お生憎さま。私はもうずっと前から、母のことは大嫌いだわ。私は、あの人のようにだけはなりたくなかった」
そこまで言って、千沙子は自嘲的に笑った。
「だけど、私も母と同じね。主人という立場を利用して、貴方の恋人気取りで。母とまったく同じことをしていた。その癖、貴方の気持ちも考えず、私の気持ちばかり押し付けて。全部あの子のせいにすることで、自分を正当化して……」
千沙子は、既に涙声になっている。搾り出すように、言葉を続けた。
「ごめんなさい。謝っても許してもらえるなんて思ってないわ。だけど、ごめんなさい、陣。ごめんなさい、御剣さん……」
あのプライドの高い千沙子が、地面に手をついて謝っている。
正直、千沙子が自分が見えなくなるほど追い詰められるなんて、考えてなかった。安易に考えて、何のフォローもせず突き放しただけだった。絵理を直接襲わせたのは千沙子だが、そうさせた責任はオレにあるんだよな……。
「まったく……私は結局そなたらの壮大な痴話喧嘩に巻き込まれただけか?」
黙って話を聞いていただけだった絵理が、いつの間にかオレの隣に来ていた。ぼろぼろになったスカートと、脚の擦り傷が痛々しい。
「千沙子とやら。そなた、馬鹿だろう」
絵理は傷心の相手にも容赦は無かった。
「事実確認もせず、一方的に決め付け、挙句暴行の教唆。一時の感情で身を滅ぼしてどうする」
「本当、その通りね。私の思い込みで、貴女に随分と酷い目に合わせてしまったものね。
……本当に、ごめんなさい……。私にできることなら何でもするわ」
「ふむ。私の意図するところが伝わっていないようだな」
「え?」
「戦いを仕掛けるのは構わん。だが、今回そなたがやった事は、犯罪であり、自身の身の安全をまったく考慮していない自爆テロだ。敵だけでなく、味方まで不幸にしてどうする。公になったときの事は考えなかったのか?」
絵理の言わんとするところが良く掴めず、千沙子はきょとんとしながら絵理を見ている。
「つまりだ。他人に戦いを仕掛けるなら自分自身の身の安全を考慮した上で、もっと狡猾にやれということだ。私に危害を加えたこと自体は、既に怒ってはおらぬ。……呆れてはいるがな」
「もっと狡猾にやれって、危害を加えた相手に言う言葉じゃないわよ。ほんとにそうしたらどうするの?」
泣いているような、笑っているような顔で千沙子は言った。
「その時は、持てる手管を使って迎え撃つだけだ。無論、私とて容赦はせんぞ」
そう言って、にやりと千沙子に笑ってみせた。
まったく、一体どんな育ち方をしたら、こんな豪気な性格に育つのだろう。
「それから。私や陣に謝罪する前に、あの者達に謝罪すべきだ。同情は全くできぬが、だからと言って、巻き込んだ事実が消えるわけではあるまい」
絵理はそう言って、昏倒している男どもを一瞥した。
「そうね……。後で謝っておくわ」
「さて、互いに解決したようだし、私はそろそろ行くぞ。迎えが来るまでに体育着に着替えて来なければ。さすがにこの格好では、運転手の差脇が卒倒しそうだからな」
そう言って、絵理は校舎へ駆けて行った。オレもその後を追いかけようとして、一旦立ち止まる。
そして、千沙子の方を振り向いて言った。
「千沙子。お前の気持ち考えなくてごめんな。
お前がそんなに追い詰められるなんて、考えてなかった。フォローもせずに、安易に突き放しただけだった。……悪かったと思ってる」
「いいの。理由を話そうとしなかったのは、貴方なりの優しさだったんだって解ったから。
私のほうこそ、ごめんなさい」
そう言って、互いに深々と頭を下げた。
「御剣さんのところに行ってあげて。あの格好で一人で校舎に向かうのは、心細いと思うわ」
「ああ」
そう答えて、今度は後ろを振り返らずに絵理の後を追いかけた。