流す涙は誰が為に
紅葉の葬儀は街外れの教会でしめやかに行われた。
青司は暫く塞ぎこんで元気がなかったが、冬休みが終わる頃には気持ちの整理もだんだんとついてきたようだった。
絵理と青司は相変わらず恋人としての付き合いを続けている。
オレと千沙子は大学への推薦が決まり、進路に関してもほぼ悩む必要はなくなった。
あの日、青司が言った事を絵理は知っているのだろうか。
胸に押し込められた鉛は未だに居座り続けていた。
絵理がパソコンに向かう時に見せる表情や、日記帳に文字を綴る時に見せる表情を見るたびに、それは激しく自己主張を繰り返す。
その表情を独占したいという欲求がそうさせるのか、それとも別の何かが原因なのか、解らないまま季節は巡り、オレは高校を卒業した。
就職という道を選ばなかったのは、単にこのまま絵理のそばでバイトを続けたかったからという単純な理由だった。
絵理と出会ってもうすぐ一年になる。
最初に会ったときは変な女だと思った。
思考回路が独特すぎて付いていけず、無駄に疲れる日々を過ごしていたと思う。
だが彼女は時々、あまりにも鋭利にオレの心に切り込んできた。
それは、何気なく言った一言だったり、何気なく取った行動だったりと様々だが、自分自身ですら気付かぬうちに被っていた仮面をも粉砕するほどの威力だった。
けど、それはけして不快ではなく。
心の奥にいつの間にか寄り添っていて暖めてくれるような、そんな不思議な感覚だった。
気が付けば、そんな絵理の存在が、オレにとって無くてはならないものになっていた。
だから、離れたくない。無くしたくない。手放したくない。
だけど、絵理自身はどうなのだろう?
絵理の心は、あまりにも理路整然と整理されすぎているように思えた。
一見突飛に思える行動も、彼女なりの理由の元に行われている。後で聞けば納得のいく回答が返って来るのだが、そこに至るまでの過程が常人と比べてあまりにも鋭利なため、突飛に見えるのだ。
そんな絵理が、時々ひどく危うげに見えるのに、どんなに心を研ぎ澄ませても、絵理の心のありかをオレは未だに捕らえきれずにいた。
「陣。普通のデートに着ていく服装は、これでおかしくないだろうか?」
「いいんじゃねえの?」
今日は、青司とデートに行くらしい。
数日前に絵理は何を思ったのか、普通のデートの作法を教えてくれ、と質問してきた。
デートなんてのは本来、二人で楽しめればそれでいいのだが、絵理はどうしても普通のデートがしたいという。青司に聞いても、絵理の行きたい所でいいと言われてしまい、途方に暮れていたそうだ。
オレは半ば呆れながら、半ば自分の馬鹿さ加減に嫌気が差しながら、絵理にオススメデートコースを教えた。
「まったく。せいぜい楽しんできやがれ」
「そなたは何故そんなに不満そうなのだ。心配せずとも土産くらいはちゃんと買って来るから、あまり拗ねるでない」
「土産が欲しいわけじゃねええ!」
不意に、絵理の携帯が鳴った。
無機質なベル音が部屋に響く。
絵理はバッグに入れてあった携帯を取り出し、オレに背を向けて電話に出た。
「青司か。どうした? ……そうか。解った。……気にするな。そなたのせいではない。……ああ。私もだ。……新学期にまた会おう」
絵理はパタン、と携帯を閉じ、そのまま机の上に置いた。
そして、オレの方に振り向き、さびしげな表情で笑った。
「服について悩む必要がなくなった。今日のデートは取りやめになった」
そしてそのまま机に座り、日記帳を取り出した。しかし何を書くでもなく、自分が過去に書いた文字を眺めたまま、絵理は人差し指と中指で挟んだ右手のペンを、宙に彷徨わせるばかりだった。
「ま、あんまり気にするな。デートなんかいつだってできるさ。予定空いて暇なら、オレが……」
「もう無いのだ。次は」
穏やか過ぎる絵理の声がこの空間の空気を止めた。
「婚約が決まってな。先方の都合で、今日会うことになったそうだ。最後に何か思い出に残るデートを計画したかったのだが、結局行けず仕舞いになってしまった」
絵理は淡々と事実を述べた。
ペンは相変わらず空中を彷徨ったまま。
胸の奥の鉛が、再び自己主張を始める。
あまりに穏やかな絵理の声。
空中を彷徨い続ける絵理のペン。
過去の文字を見つめたままの絵理の瞳。
「……いいのか?」
「いいも悪いも無い。豪族の子息というのは、得てしてそういうものだ。抱えている者たちの生活を守るためだ。致し方あるまい」
「お前は、それでいいのか?」
オレは、再び同じ質問を繰り返した。
捕らえ切れなかった彼女の心。
その輪郭が、おぼろげながら見えてきた。
「ノブレス・オブリージュという言葉を知っているか?」
「ノブレス……響きからして、フランス語か?」
「そうだ。実は、何処の言語かというのはあまり関係が無い。英語ではノーブル・オブリゲーション。日本語では貴族の責任、と訳される」
オレの質問には答えず、絵理は淡々と話を続ける。
「財産、権力、社会的な地位には責任が伴う、という概念だ。組織の長、というのはある意味で人柱だ。抱える者たちを守るために、自分を犠牲にしなければならない時もある。それゆえに、広大な屋敷に住み、裕福な生活が許されているのだ。
我らの祖先が築き上げてきたものを守るためには、それ相応の対価がいる。その対価の一つに婚姻が含まれるのなら。それは甘んじて受けねばなるまい。
……私の方にも、既に何件か話が来ている」
絵理の言葉は正論だ。
それこそ、嫌になるくらいの。
「……聞いてないぞそんな話」
「今初めて話したのだから当然だ。もっとも、我が家は叢雲家のように切迫した状況にあるわけではないから、すぐにすぐ、という訳ではないがな」
絵理の声には、悲壮感は全く無かった。自分自身の境遇を宿命として全て受け止め、淡々とこなそうとしているように思えた。
「私は御剣家の長子として生まれた。いずれ家督を継ぎ、御剣財閥を率いていかねばならぬ。そのために今まで生きてきたのだ。私の代わりは誰もいない。だから私がやるしかない」
私は御剣財閥を維持するための駒。
絵理の言い分は、オレにはそう聞こえた。
絵理と一緒に過ごして、一つ気付いた事がある。
彼女は物を欲しがらない。
絵理が求めるものは、全て何かの目的の為に使われるものばかりで。
自分自身のために何かを欲しがった事は一度も無かった。
絵理が娯楽と言い切っていた読書でさえも。
いずれ組織の長になるための糧となるようなものばかりだった。
本当に絵理が置き去りにしてきたものは、一般常識とか、同年代の友人とか、そんなものではなくて。
他ならぬ、彼女自身だったのだ。
捕らえ切れないはずだ。
見つからないはずだ。
だからオレはもう一度、絵理に問う。
「絵理。お前は、それで、いいのか?」
空中を彷徨っていたペンが、絵理の手から離れて床に転がり、オレの足元付近で止まった。
絵理は椅子から降り、ペンを拾い上げ、淡々とした声で言った。
「言っただろう。いいも悪いも無いと。私は、私に課せられた責任を果たさねばならぬ」
だから、顔を見るまで気付かなかった。
「じゃあ、何故お前は泣いてるんだ」
絵理は泣いていた。
いつもと変わらぬ表情のまま。
いつもと変わらぬ声のまま。
自分自身ですら、気付かぬまま。
ただ、その両目から、とめどなく涙が溢れていた。
オレに指摘されて、絵理は初めて自分が泣いている事に気付き、戸惑った表情を浮かべた。
いたたまれなくなって、オレはそのまま絵理を抱きしめた。
オレの胸が、絵理の涙で濡れる。
「なあ絵理。お前、大事な事忘れてるよ」
オレは絵理を抱きしめたまま、言葉を続けた。
「何かを守ろうとするなら。
誰かを守ろうとするなら。
まず、自分自身を守らなきゃ駄目だ。
自分自身の幸せを考えないと駄目だ。
自分自身の幸せも解らないのに、他人の幸せなんか、解るわけが無いだろう」
「幸せ……。私、の?」
「オレは、お前が自分のために何かを欲しがるのを見た事が無い。
お前が必要とするものは、全て何かの目的で使われるものばかりだ。
お前自身が欲しいものは何だ。
お前は、何故泣いている?
今、お前の心にあるものは何だ?」
今を逃したらきっと。
絵理はずっと自分自身を置き去りにしたままになってしまう。
置き去りにしている事すら気付かずに。
いざという時には無私の行動を求められる立場にいる者にとって、ある意味、それは幸せなことなのかもしれない。
だけどそれは、他ならぬオレ自身が我慢できない。
絵理の心のありかを、見つけてしまったから。
「私の、心にあるもの……」
胸の奥の鉛の正体がやっと解った。
オレは、こいつの泣き顔が見たくなかったんだ。
こんな風に泣くのを見たくなかったんだ。
だから、オレは言葉を止めない。
オレ自身の為に。
「言ってみろ。お前が欲しいものの名前を!」
絵理は、そこで初めて嗚咽を漏らした。
暖かい涙を、オレの胸が吸い込んだ。
「せ……いじ」
解ってたよ。お前の答えは。
「青司に逢いたい。このまま離れたくない……」
オレは泣きじゃくる絵理を抱きしめる腕に力を込めた。
その後で絵理の肩に手を置き、絵理の瞳を真っ直ぐに見た。
「だったら。お前にはやることがあるだろう?
心配するな。お前の背中はオレがずっと守ってやる。
だから、お前はそのまま前を見て、お前の幸せを掴んで来い!」
絵理は涙を拭うと、覇気の戻った瞳で真っ直ぐにオレを見て頷いた。
数ある絵理の表情の中で、オレの一番好きな顔。
「いかが致しますか? 絵理様?」
そう言って、絵理ににやりと笑ってみせた。
主はお前だ。ご命令をどうぞ。
「行くぞ、青司のところへ!」
オレは絵理に頷くと、そのまま手をとって駆け出した。
バイクに跨り、エンジンをふかす。
目指すは条星学園の男子寮。
この時間なら青司は出かける前のはずだ。
見慣れた学校の隣にある学生寮の目の前にバイクを横付けすると、丁度スーツ姿の青司が出て来た所だった。
「絵理さんに会長? どうして……」
絵理はバイクから降り、驚いている青司につかつかと歩み寄った。
「青司。私も連れて行け。どうやら私には、そなたを手放すのは無理のようだ」
「連れて行けって……本気で言ってんの?」
戸惑う青司に、絵理は力強く頷いた。
「伊達や酔狂でこんな事を言う訳が無かろう。どちらにせよ、私も同行して話をつける。
それとも、私が相手ではそなたは不服か?」
「不服じゃないけど、少し怒ってる。あれだけ悩んでたのが馬鹿みたいじゃないか」
「許せ。私も、本当の自分の気持ちに気付いたのはつい先ほどだ。恥ずかしい事に。
……陣がいなければ、ずっと気付かないままだったかも知れぬ」
青司は、意外そうな顔でオレを見た。
「絵理の隣で一緒に手をとって歩く役はお前に任すわ。オレはこのまま帰るから、責任もってエスコートしろよ」
オレは二人の返事を待たずにそのままバイクを走らせた。
ミラーの端に二人がオレを見送る姿が映っていた。




