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純愛バトラー  作者: 天沢 祐理架
其の四 執事、奔走す
20/30

真夏の夜の夢

 自由時間の終了時刻、すなわち、屋敷の門限はとうに過ぎていた。

 とりあえず、連絡をしなくては。

 携帯を開くと、メールの着信が一件。


 件名 : 業務連絡

 差出人 : 御剣 絵理

 本文 : 私の離れの鍵を開けておくので、今日はここで休むように。戻ったら通用門と離れの施錠をする事。


 必要最低限の文だけの、絵理らしいメールだった。

 どうやら、閉め出されて野宿する心配はなさそうだ。

 絵理にメールの返信をして、屋敷に戻った。

 離れには照明がついており、絵理はまだ就寝していなかった。

「戻ったか」

「悪い。連絡もいれずにだいぶ遅くなっちまった」

「あまり気に病むな。たまにはこんな日もある」

 絵理は何も聞こうとはせず、門限を大幅に破った事を咎めたりもしなかった。

 寝巻きにしている浴衣に着替えていた所をみると、オレの事を寝ずに待っていたのかもしれない。

 こういったさりげない優しさが、今のオレの心に染みた。

「私はもう寝る。陣、そなたも休め」

「そうすっかな。隣の部屋で寝るわ」

 そう言い残して来客用の部屋に行こうとした時、絵理の声がオレを引きとめた。

「寝具がないが」

「え?」

「寝具がないと言っている。来客用の部屋はあるが、あくまでも応接用であり、寝泊りをすることは想定していないのだ」

 直に畳で寝ろってか。

 だが、野宿じゃないだけだいぶマシというものだ。無断で門限破ったのはオレの責任だし。

「ま、雨風凌げるだけましさ。夏だから寝冷えの心配もなさそうだしな」

「うむ。多少狭くて申し訳ないが、二人分寝るスペースくらいは確保できよう。不便を強いるが我慢してくれ」

 絵理の返答に違和感を感じる。会話が食い違っている気がするのは気のせいだろうか。

「二人分? オレの他にも誰かいるのか?」

 離れに戻った時に他の来客の姿はなかった気がするのだが。まさか、実は青司が来てるなんてオチじゃないだろうな……。

 好きな女と一つ屋根の下で恋敵と雑魚寝とか、悪趣味すぎるシチュエーションだ。

 オレの質問に対し、絵理は不機嫌な表情を隠さずに言い返した。

「元は私の寝床だ! まさか私を追い出して一人でのうのうと寝るつもりではあるまいな? さすがにそれは許さぬぞ」

 ………………………………。

 あの。

 すごく……嫌な予感です。

「ええと。それって、つまり……?」

「私の横で休めばいいと言っている。だが布団を明渡すのは却下だ」

 ぴぎゃー。

 かろうじて喉元で押しとどめたが、あまりに衝撃的な出来事が起こると意味不明な奇声が自然に出るもんなんだね。ギャフンなんて普通言わねえだろと思っていた、昔のオレは浅はかでした。

 奇声だけに留まらず、オレの脳内では非常に小憎らしい表情のペンギンどもが嘲るようにラインダンスを踊り始めた。

 まともな思考ができない、というのはこういう状態のことを言うのだろうか。

 機能停止したオレを不思議そうな顔で眺めると、絵理は自分の枕を横にずらした。

 絵理が寝ている布団は元々かなり大きいサイズなので、二人寝られるスペースは余裕であるのだが、この状況は非常にまずい。

「さすがにまずくないか……?」

 やっとの事で声帯の機能を復活させて出てきた言葉は、非常にぎこちないものだった。

「まずいとは?」

「あの……オレ、男だし。ねぇ?」

「だから?」

「襲われても知らんぞ……。お前は何を考えてるんだ」

「そなた、自分で色情症でも変態でもないとつい先ほど私に釈明したばかりではないか。それとも、あれは嘘だったのか?」

「断じて嘘じゃないっ!」

「なら問題なかろう」

 駄目だ、埒が明かん。

 若くて健康な男子の生態を、絵理は理解していないようだった。

「また、キスとかされそうになったらどうすんだよ」

 昔の失敗を自ら引き合いに出すのは非常に心苦しいが、何とか絵理に納得して貰わなくてはならない。

 しかし、絵理はそんなオレの心の内など露知らず、きっぱりと断言した。

「それはないな」

「何故そう言い切れる」

「変態でも色情症でもないとするなら、出会ったときに陣が何故あのような行動に出たのか、私なりに考えてみた。

 そなたは自分の魅力というものを非常に良く理解しており、それを利用できる計算高さやしたたかさも持ち合わせている。感情の機微にも聡く、駆け引きもうまい。

 おおかた、私の反応を見て篭絡ろうらくした方が今後の主導権をとりやすいと考えたのだろう。違うか?」

 全くもってその通りでゴザイマス。

 沈黙を肯定とみなしたのか、絵理は更に続けた。

「そして。手の内がばれている上で、再びそのような愚行を犯すほどそなたは馬鹿ではない。よって、色仕掛けを迫る理由がない。私の身は安全というわけだ」

「まぁ、打算的な面から見ればそうだな」

 絵理は、計算や打算といった人間の心理を非常に良く理解しているようだった。

 しかし、決定的に足りないものがある。

 感情論だ。

「打算的な面を抜きにしても、だ。

 陣は私に非常に気を使ってくれている。大事にされている事くらいは私でもわかる。

 そんなそなたを疑う事など、私にどうしてできようか。そうでもなければ、いくら私の執事といえど、隣で寝ることなど許したりはせぬ」

 ……結局、押し切られたのはオレの方だった。

「そういうわけだから、余計な心配はせずとも良い。もう夜半過ぎだ。休め」

 断定口調で言われて、オレは仕方なく布団に横になった。

 絵理は照明を消すと布団に入り込み、二秒と経たないうちにすやすやと寝息を立て始めた。

 密着、とまではいかないまでも、少し手を伸ばせば届く距離で絵理は無防備に寝ている。

 信頼されている事は素直に嬉しいが、異性として見られていない証明でもあり、それがじりじりと胸の内を焦がした。

 思わず手を伸ばしてしまいそうになって、オレは慌てて絵理に背を向けた。

 このまま衝動に任せて何も考えずに行動できたら、どれだけ楽だろう。

 しかし、それは絵理の信頼を失うことを意味していた。

 一線を越えた事がきっかけで始まる恋もある、という人もいるかもしれない。だが、そんな危険な賭けは到底する気にはなれなかった。

 暴行を受けようが、陵辱されそうになろうが、毅然と相手を睨み返し、瞳の輝きを失わない女が、無理矢理肉体関係を持った相手に心を許すわけがない。

 たとえその動機が好意からくるものであったとしても。

 こんな時ですら冷静に損得勘定をしている自分に、思わず溜息が出た。

 そんな時。

 寝返りを打った絵理の身体がオレの背中に密着した。甘い体温が背中に広がり、首筋に吐息がかかる。心臓が跳ね上がり、このまま振り向いてしまいたい衝動に駆られた。

 だけど今振り向いてしまったら、一時の蜜事と引き換えに、彼女を永遠に失うことになるだろう。

 そんなことは耐えられない。

 居場所を失うのはもう耐えられない。

 だったら今耐えるしかないわけで。

 余計なことを考えずに寝てしまおうと思えば思うほど、背中に神経が集中していく。

 羊の数も円周率も素数も、オレの心を落ち着けるのに、全く役に立たなかった。

 カーテンが開いた窓から月光が差し込み、部屋を蒼く照らしている。

 結局一睡もできないまま、オレは黄色い朝日を拝む羽目になった。

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