姫とロマンス
絵理はオレの顔をまじまじと見つめている。
思った通り、簡単そうだな。
「お嬢様? 私の顔に何か?」
にっこり笑って問いかける。
「す、すまぬ。無作法であったな。そなたの顔があまりにも美しかったので、つい見とれてしまった。許せ」
絵理は真っ赤になり、俯いて視線を外した。
動揺しているのか、声に落ち着きがない。
やれやれ。
こうあっけないと、面白味に欠けるが、そこまで贅沢は言ってられないな。
「お気になさらず。こんな顔でよければ、好きなだけ見つめてください」
オレは絵理に近寄ると、顎をくいっと上に向けさせる。
そのまま、まっすぐ絵理の瞳を見つめた。
「く、草薙殿?」
「陣とお呼びください」
「……陣」
絵理は金縛りにあったように動けない。
畳み掛けるか。
「……もっと、近くで見てみます?」
耳元で囁き、挑発的な視線を向ける。
そのままゆっくり顔を近づけ、唇を……。
むぎゅ。
二人の唇をさえぎったのは、絵理の手だった。
「……しばし待て」
そう言って本棚へ向かう。
何冊かの本を手に取り、最後に机の脇に置いてあったティッシュボックスを本の上にのせる。
それを、半ば強引に押し付けられた。
体を押され、部屋の外に出される。
「そなたの趣味に合うかどうかは解らぬが、裸の女体の資料だ。遠慮せずに使え。隣に来客用の部屋がある。防音設備はそれなりにしっかりしているから気兼ねするな。終わったら声をかけてくれ」
バタン。
目の前で扉が閉じた。
押し付けられた本を改めて見てみる。
女性のヌードポーズデッサン集と、写真図解付きの女性の医学書だった。
一緒に押し付けられたティッシュボックスがあまりにシュールすぎる。
えーっと………………。
暫く思考停止状態に陥っていたが、我に返ると絵理のいる部屋のドアを開け、思わず叫んでいた。
「ふざけんな!! なんだこりゃあ!」
「何だと言われてもな……。手持ちにはこれしかないのだ。後は自身の想像力で補ってくれとしか言いようがないぞ」
「本の内容の話じゃねえ!!」
絵理は困惑したようにオレを見ている。
「む。もしかすると特殊な器具を使う性癖があるのか? 生憎そのような器具は手元に……」
「人を変態呼ばわりするな! 特殊な器具って何だ、特殊な器具って!」
「初対面の相手にロマンスを求め、性欲解消の手立てにする人間は立派な変態であろう? 私にも確かに至らぬところはあったかも知れぬ。だができる限り平和的に、そなたの性欲の解消ができるようにと慮っての事だ。そのような誹りを受けるいわれはない!」
「変態」という言い草にカチンと来て、苛立ちながら反論する。
「へぇ? オレに見とれているのに気付かれて、真っ赤になって視線外してたのは他ならぬ絵理サマだろ。ロマンス求めてたのはそっちの方だろーがよ。オレはそれに答えただけだ。そんな風に言われる筋合いはないね」
「己の無作法に気付いて恥じ入るのは、人として当然の事であろう? よしんば、私にフォローを入れるつもりだったのだとしても、直後の台詞は納得できるが、その後の対応は全く意味がわからぬ。
それから、そなたの顔を断りも入れずにまじまじと観察したのは確かに非礼であったが、それがロマンスと一体どう結びつくのだ? 納得できる釈明をせよ!」
はい??
観察????
二人の間にある、決定的な認識の違いに気付いた時は、既に遅かった。
「……なるほど。男性に対して好意を感じた女性は、視線を投げかけたり逸らしたり、恥らって赤くなったりすると。そういう事なのだな」
絵理はしきりに頷きながらオレの釈明を聞いていた。
「ご納得いただけましたか?
お言葉ですが、齢十五になる乙女が男女の機微に全く無知というのも、些か問題があるように思われますが?」
憮然としながら、嫌味たっぷりに言ってやった。
「ふーむ。そなたの言う通りかも知れぬ。確かに、今回私の取った行動はそなたに勘違いを起こさせるに充分であった。非を認めよう」
突っかかってくるのを少し期待していたオレは、あまりにあっさりと自分の非を認める絵理に肩透かしを食らった気分になった。
「だがな、陣よ」
そう言って、まっすぐ俺を見据える。
「ロマンスというものは自分一人の問題ではない。必ず相手というものがいる。己の感情だけで突っ走っては、また今回のような事が起こるぞ」
真剣な様子の絵理サマは、なおも言葉を続けた。
「確かに私はそなたの主だが、そこまで面倒は見れぬ。やはり自己処理をするのが一番良いと思う。何、恥ずかしい事ではない。男にとっての生理のようなものなのだろう? その程度の知識と理解はあるつもりだ」
「……あの、絵理サマ?」
「具体的な方法は解らぬが、後で私の方でも調べておく。そなたは大船に乗ったつもりで、安心しているが良い」
そうにっこり笑うと、力強くオレの背中をぽんと叩いた。
「いやその……。そうではなくてですね……」
「案ずるな。サチリアジスは必ず治る。気をしっかりもつが良い」
サチリアジスて。いつの間にオレは色情症になったのだろう。
治さなきゃいけないのはオレじゃなくて、あなたのぶっ飛んだ思考回路です。
そう言ってやりたかったが、話がややこしくなるだけなのが目に見えている。
「……ソウデスネ」
このときオレは既に、棒読みの投げやりな台詞しか返す気力がなかった。
就寝時間になり、オレは宛がわれた私室へ帰された。
ものすごい脱力感が体を襲う。
「……ありえねえ」
布団に倒れこむと、自然と独り言が漏れた。拒絶される可能性を全く考えて居なかったほど、オレも阿呆ではない。
しかし、あんな切り返しをしてくるなんて予想の範囲外だ。例えるなら、丸腰の相手に近づいて行ったらいきなりバズーカ砲で撃たれたかのようなショックを受けたぞ……。
あの後絵理は、オレのために、寂しい夜の過ごし方・男性版を調べてから休むと言い張ったが、全力で辞退しておいた。
『大事な執事のために、私もできる事をしたいのだ』と真剣な眼差しで言われれば言われるほど、地獄に突き落とされるんです。
昔書いた黒歴史にしたいほど恥ずかしいポエムを発掘され、大声で朗読された後に、それを皮肉でなく全力で褒められた時の気持ちを想像してみるといい。オレの味わっている気持ちの何割かが解る筈だ。
結局、絵理の中でオレは色情症の変態という事になってしまったらしい。
たかがキス一つで色情症とまで言われる事を、一体誰が予想できたというのか。
かといって、辞表を書くわけにはいかない。
何より、条件としては最高のバイトだったし、これしきの事で逃げ出すのはオレのプライドが許さない。
見てろよ。絶対に落としてやるからな。
今思うと、このとき既に相手のペースに乗せられていたのだろう。
だが、何よりたちが悪いのは、相手には全くその自覚がなかった事だった。