時には昔の話をしようか
駐輪場に自転車を停め、オレは目の前の建物を見上げた。
視界に映るは白亜の病棟。
駐輪場は病院の中庭に面したところにある。昼間には、比較的体調の良い入院患者やその家族がここで外の空気を楽しむのだろうが、この時間には誰もいない。
冴え渡る月だけが、中央にある噴水を照らしていた。
病院に入ると、面会時間は終了間際で、院内に人の数は多くない。受け付けに寄ることなく、オレはまっすぐに目的の部屋へ向かった。
部屋の表札に、一人ぽつんと書かれた名前。
[草薙 小夜]
この世でたった一人の、オレの家族の名前だった。
ここに来る度に、目にしたくない現実を突きつけられる。
こういう事だけは絵理は妙に察しがいい。屋敷でのオレの態度だけで、あらかたの予想はついたのかも知れない。
扉を開け中に入ると、カーテンで囲まれたベッドに、何本ものチューブで繋がれた女性が横たわっていた。
オレの母親。草薙小夜。
生命維持装置によって、かろうじて命を繋ぎとめている。
一年半前の事故によって脳の大部分を損傷し、回復は絶望的だと医師に言われた。
それでも、一抹の望みを捨てきれずに治療の継続を頼み込んだ。
幸い医療費は保険で賄えたから、多額の借金を抱える事だけは避けられた。
最初のうちは毎日のように病院へ通った。母に呼びかけ、学校でのたわいも無い出来事を話し、看護をした。
だけど。
徐々にオレの心は折れていった。
どんなに話しかけても、呼びかけても、母が答える事は無く、ただ眠り続けているだけで。
成績維持のために勉強もしなければならず、何より生活していくために金銭を得る必要があった。
学校を辞めて働こうか。
そんな事を考え始めた頃に、千沙子から自分の執事にならないかと持ち掛けられた。
住居を兼ねた母の店はずっと閉店の札がかかっており、オレが一人きりで暮らすには、静か過ぎて、広すぎた。
家や店のいたるところに思い出がありすぎて、孤独な現在というものを否応なしに感じてしまう。それに耐え切れるほど、当時のオレは強くも無くて。
住み込みで働ける執事という仕事は、とても有り難かった。
孤独な現実から目を逸らすように、オレは千沙子の理想的な執事兼彼氏として振舞った。
いつしか病院にも、必要最低限しか足を運ばなくなり、母の看護は病院のスタッフに任せきりになっていった。
千沙子がオレの心労を減らそうと、病院へ口利きをしてくれた事も、それに拍車をかけた。
自分でも、随分と酷い息子だと思う。
オレに父親はいない。
既に亡くなったとか、遠くで別の暮らしをしているとか、そういう事ではない。
文字通り、「いない」のだ。
戸籍の父親の欄は空欄になっていた。
まさか単為生殖でオレが生まれたわけではないだろうから、遺伝子上の父親は存在するのだろう。
だが、オレにとって「家族」と呼べる存在にはなりえない。
生物学上の繋がり。血の繋がり。
そういったものだけでは、駄目なのだ。
共に暮らし、共に長い時間を過ごし、心の中に互いの存在を刻みつける。
その過程を経ない「家族」という言葉だけの存在など、有って無いようなものだろう。
祖父母の顔すら見た事がないオレにとって「家族」と呼べる存在は、この病室で一人眠る母だけだった。
それなのに。
つい最近まで、自分の母親から目を逸らそうとするばかりでいた。
そんなオレを変えたのは、あいつが何気なく言った一言。
『大事なものに想いを馳せるのは、大切な事だと私は思う。たとえそれが、痛みを伴うものであったとしても、な』
あの日からだ。
再び、オレがここへ足を運ぶようになったのは。
執事の仕事は年中無休で、しかも住み込みだから、毎日通うという訳にはいかないけれど。
母の手に、そっと触れてみる。
アタタカイ。
暖かい。
生きている。
ここにいる。
どんな形であれ、ここに、いる。
そんな事すら、忘れそうになっていた。
「また、来るから」
オレは母にそう告げて、病室を後にした。




