はじまり
「草薙殿。そなたには娘の専属執事になって貰う」
新しい住み込みのバイト先でそう告げられたのは、春麗らかなエイプリルフールの日だった。
「お嬢様の専属……ですか」
「左様。あれももう十五だ。そろそろ自分専用の執事がいてもよい年頃だと思うての」
目の前にいる、和装の男の名は御剣兼定。御剣財閥の現当主であり、この屋敷の主。
がっちりとした体躯に鋭い眼光、時代がかった口調は、戦国時代の武将を髣髴とさせる。屋敷が純和風の武家造りという事もあり、本当に戦国時代に来てしまったような錯覚を覚えた。
ここは一体いつの時代の日本ですか、と思わず心の中でつぶやいた。
そんなオレの思考を中断するように、ししおどしの音が響く。
「まだまだ子供で、至らぬところも多いが、宜しく仕えてやって欲しい」
「かしこまりました、旦那様」
内心の突っ込みは億尾にも出さず笑顔で言い、恭しく一礼する。
かくして、オレ、草薙陣は、武家屋敷に住まう姫君の専属執事になったのだった。
しかし、十五の女の子の専属、とはね。ずいぶんとやりやすそうだ。
新しいご主人様の御剣絵理は、今年高校生になったばかり。
オレよりも二つ年下か。
自分で言うのもなんだが、容姿には自信があるし、勉強、スポーツでも他人に後れを取った事はない。
同年代の女なんて、にっこり笑い、甘い言葉を囁けば簡単に手玉に取れる。
惚れさせて主導権を握ってしまえば、使用人生活も快適なものになるだろう。
ましてや、相手は世間知らずのお姫様。男に耐性があるとは思えない。
執事長の佐伯さんに案内されて、広い広い武家屋敷の廊下を進んだ。
こりゃあ、慣れるまで少し迷うかもしれないな。
母屋の廊下の終着点には、中庭に面した渡り廊下への出口があった。満開の桜の花が風を受けてそよそよと揺れる。
渡り廊下の先には、この屋敷の離れと思われる建物が見えた。
「こちらが、絵理様の離れになります」
離れといっても普通の平屋くらいの大きさがある。
……私室がまるまる別棟かよ。
金持ちの家は色々とおかしい。
「絵理様。佐伯です。先ほどお話いたしました草薙を連れて参りました」
「ご苦労。通せ」
佐伯さんがインターホンに向かって言うと、短い返事が聞こえた。
「絵理様、失礼いたします」
そう言って佐伯さんが部屋のドアを開けると、そこには机に向かい、本と格闘している一人の少女がいた。
椅子から立ち上がってこちらを振り返り、ふわりと微笑む。
白い素肌に肩の少し上で切り揃えられた黒絹の髪。
整った鼻梁ときれいなアーチを描く柳の眉。
一際目を引くのは強い意志力を湛えた黒曜の双眸。
清純。潔癖。こんな言葉を擬人化して、意志力という名の瞳を填め込んだら目の前の少女になりそうだった。
なかなかの美人だが、予想通り男慣れはしていないな。下手すると付き合った経験もなさそうだ。
「少しこなさなくてはいけない課題が貯まっていてな。わざわざこちらに呼びつけてすまない。佐伯。案内ご苦労であった」
そう言うと、部屋の主はオレに視線を向けた。大人しそうな容姿と口調のギャップに、オレは思わず心の中で苦笑する。
「そなたが私の専属執事か。私の名は御剣絵理。御剣兼定の娘だ。名は、確か草薙と言ったな」
「草薙陣と申します」
姫君に極上の笑顔を向ける。
「それでは絵理様。私は母屋に戻ります。ご用事の際は草薙に何なりとお申し付けを」
そう言い残して、佐伯執事長は退室した。
……さて。邪魔者はいなくなった。