救うことは、罪ですか?
潮の匂いが体を吹き抜けた。
夕暮れ時の島外れ、潮の匂いが濃くなる岩場で、俺は一人海を眺めていた。
波は穏やかで、空は焼けるような朱が広がっている。
考え事をしているわけでも、何かを待っているわけでもない。ただ、ここに立っていると、胸の奥が少しだけ静かになる。
コツ。
軽い足音。わざわざ振り返る気にはならなかった。どうせ、観光客か何かだろう。
「こんにちは。一緒にお話ししていただけませんか?」
落ち着いた女性の声が背中に響いた。
ゆるりと視線を動かして、声の主を捉える。
息をのんだ。
腰まである絹のように美しい白銀の髪が、幻想的に揺れる。淡いクリーム色の瞳は、静かに俺を見据えていた。
「いいでしょう?心優しい神様」
ドキリ、と胸が大きく跳ねた。
…何者だ?知ってるのか、あるいは何も考えてないのか?
「こりゃあ、ずいぶんと冗談の上手なお嬢ちゃんだな」
彼女はクスクスと淑やかに笑う。
「自己紹介が遅れましたね」
ふわっと花が舞うような優美な動作で軽く頭を下げ、軽く口を開いた。
「現神……フキと申します」
顔を上げて、フキは一層笑みを深めた。
少し子供っぽい、可愛らしい微笑み。
ネイビーのシンプルなワンピースが、潮風にふくらみ、ゆっくりと波打った。
「少し休暇をいただいて、会い来させていただきました。………貴方が人間に堕とされた経緯を聞いて」
波が強くさざめいた。
拳に力が入る。月光のような瞳を見ていられなくて、思わず目を伏せた。
「話すことはない。帰ってくれ」
「いやです。私は貴方の考えを知りたくてはるばるここに来たのですから」
びくっと体が跳ねる。
「………頑固だな」
「お互い様では?」
気まずい沈黙が落ちる。その中でも、彼女は笑みを崩さない。
ため息を一つ、口からこぼした。
「ついてきてくれ。少し離れた場所に使われなくなった岸壁がある」
あそこなら滅多に人も来ない。話をするには最適だ。
フキは軽く頷いて、俺の後ろを歩き始めた。
コンクリートに腰を下ろすと、フキは真隣に座ってきた。
「貴方は、なぜ自分が人間の身に堕とされたと思っているのですか?」
「おいおい、急に話をぶっ込んでくるなよ」
へらりと笑ってみる。しかし、彼女は俺の表情ではなく海を眺めていた。
「……人間を助けすぎたからだと、他の神たちには言われた。ま、姿や名前とかは記憶消されてるんだけどな」
彼女は視線を海から外して俺の手を見つめる。そして、こてん、と顔を傾げた。
「堕とされた理由が、わかっていないような言い方ですね」
「わかんねーよ。助けるっていいことじゃないのか?」
髪をぐしゃりと掴む。眉がへにょりと下がった。
助けてと乞われれば原因を退治した。不作だと言われれば神力で少しの果物を実らせた。生きたいと願われたら少し身体を治した。
「助けたらみんな喜んでくれる。苦しんでるなら、助けてあげればいい。そうじゃないのか?」
「さぁ?」
「さぁ、って………」
あまりにも軽い返しに、盛大なため息が漏れた。やけに気が抜ける。
考えがあるから、俺のところに来たのだと思った。だが、違うのか?
「貴方はそうなのでしょう。しかし、私にとっては、半分あっていて、半分間違っているのです」
変わらない笑みがどうにも癪に思えて、眉間に皺を寄せる。
「間違ってるって、何がだよ。……なんでわざわざこんな話をしに来たんだ」
「ふふ、……私はいまだに変わらない、貴方を諭すために来たのです」
ぽかん、と大きく口が開く。わざわざ来るものか、現神が、人間に。
昔の俺は別として、基本的に神は人間に姿を見せない。そう言うものだ。
それに諭すってなんなんだ。そっちも答えを持っていないのに。
「クスクスクス………。間抜け面ですね?」
イタズラっぽい光が瞳の中に浮かぶ。
そして、また海へと向き返った。
「貴方が人間を助けた時、彼らはどんな反応をしましたか」
「え?そりゃあ、感謝してくれたよ」
急に突拍子のない質問に面食らう。何を求めているのか、全くわからない。
「では、何を求めるようになりましたか」
「……助けを求められるようになった」
「では、その次は?」
「……俺だけを求めるようになった」
口に出してみると、それはあまりにも危険なことだった。
独占、依存、執着。
そんな感情が混ぜこぜになった人間たちの顔が、浮かんでは消えていく。
無意識に海へと視線が向かった。
「………それが、俺の罪なのか?」
少しずつ夜に染まっていく夕陽を見ながら、フキはしばらく黙っていた。
ザザン、ザザン……。
いつも通りの波の音が、規則正しくさざめく。
『助けてくださりありがとうございます!』
助けた人間たちは、皆涙を流して感謝した。安心したその笑顔を守りたい。そう思った。
でも、人間たちの様子は少しずつおかしくなっていった。
『私を助けてほしい』から、『私だけを助けてほしい』へ。
そして最終的には、『あの方は私の神だ』と言う人間が増えた。
当時は、こんなに俺のことを思って感謝してくれるなんて嬉しいな、なんて呑気に思っていた。
『あの神様は私を一番にしてくれる!』
『いや、私のことを一番愛している!』
しかし、落ち着いて思い出すと、感謝の気持ちは薄れ、人間たちは特別を求めるようになっていた。
穏やかだった笑顔は焦燥に歪み、瞳は充血していた。
『『『神様!神様!!』』』
願う声が、頭に染み付いて離れない。
みんな助けるのに、救いたいのに。でも、その気持ちは全部俺の独りよがりで、止めるべきだったのかも知れない。
…止めたとして、あの人間たちはどうなった?
苦しむ、悲しむ、道を踏み外す。そうなる姿がありありと浮かぶ。
じゃあ、その原因を作ったのは?
…俺だ。
あれは、人間たちを自分に依存させる行為だったんじゃないか。
…もしそうなら、俺は、なんて__。
「私は」
澄んだ声が、記憶の渦から意識を引っ張り出した。
フキに顔を向けると、彼女も俺の顔を見ていた。お互いの視線が、静かに絡む。
「それが罪なのかそうではないのか、私にはわかりません。きっと、わかる方なんていないでしょう。たとえ神であっても」
静かな声だった。でも、本心のような気がした。
涙が溢れかけて、乱雑に拭った。見せたくなかった。
「……なぁ、俺が助けたと思ってしてたことは、人間を壊すことだったのかな」
少しだけ、声が震えた。
肯定されても、否定されても、自分の何かが壊れる気がする。でも、聞かずにはいれなかった。
「そうかもしれません。ですが、そうではないかもしれません」
もう夜になるはずなのに、ふっと、視界が明るくなった気がした。
「貴方が慈しみ愛した人間たちの行動は、とても自然なんです。一度、絶対に自分を見捨てない存在を知ってしまった。ただ、それだけ」
穏やかな風が頬を撫でた。
白銀の髪が風にさらわれる。夕陽に照らされて、控えめにきらめいた。
「……もし、貴方が神に戻れるとしたら、戻りたいと思いますか?」
真剣な瞳だった。見極めようとしてるような、そんな目。
少しだけ目を閉じる。潮風を感じる。もう、人間の願う声は聞こえない。
真っ直ぐ瞳を上げる。彼女は、静かに俺の答えを待っていた。
「……いや、人間の方が性に合ってるから、戻りたいとは思わないかな。神に戻ったら、また無闇に人に手を差し伸べそうだし」
少し間を置いて、視線を彷徨わせる。軽く頬を掻いた。
「何より、人生を救わなくても、隣で慰めることはできる!」
そう言って、にかっと笑った。風が気持ちいい。心の中がスッキリしてる。
「フキのおかげでようやく気づけた。ありがとな!」
フキはほんの数秒固まって、発火したように顔が真っ赤になった。
「あっ!?顔真っ赤だぞ、大丈夫か?」
「うるさいです」
プイッとそっぽを向かれる。耳まで真っ赤になった彼女は、風船みたいに頬を膨らませていた。
「貴方、神の時になんと呼ばれていたか覚えていますか?」
「いや、覚えてないが……」
一拍間を置いて、フキはジトリと俺を見た。
「人間だけでなく神までもを籠絡する、天然たらし、ですよ」




