22話 帰路の侵入
20時18分。
警察庁地下のSERT区画は、夜になっても明るかった。
合同訓練センターから戻ってきた後、全員がそれぞれの報告書と解析に追われていた。
訓練ではない訓練。
NOISE-00。
OBSERVER-3。
次段階、個別対応へ移行。
その言葉は、誰の頭からも消えていない。
梶原伊織は、自分のデスクで端末を3台並べていた。
押収した端末。
訓練センターの制御ログ。
NOISE-LINEに関係する通信断片。
画面には無数の文字列と時刻、IPアドレス、端末識別子が流れている。
誰が見てもただの数字の羅列だ。
だが、梶原には違う。
それは人の足跡だった。
どこから入り、どこで迷い、どこで隠れ、どこで焦ったか。
通信にも癖がある。
嘘にも、手癖が出る。
「帰らないんですか」
吉田が声をかけた。
梶原は画面から目を離さずに答える。
「帰ります。あと5分だけ」
戸張が後ろを通りながら言う。
「それ言うやつの5分は、だいたい1時間だ」
「副班長と違って、僕の5分は誠実です」
「俺の5分も誠実だ」
水瀬が横から言った。
「副班長の5分は、現場では7分30秒です」
「細かいな」
片桐が書類を閉じながら言う。
「梶原、今日は帰った方がいいですよ。端末に見られすぎると、端末の向こうからも見られます」
梶原は苦笑した。
「怖い言い方しますね」
上原が奥の席から顔を上げた。
「梶原」
「はい」
「今日はそこまでにしろ」
梶原の指が止まる。
上原の声は強くない。
だが、決定だった。
「了解です」
岡野も室長室から出てきた。
「単独行動禁止は継続中よ」
梶原は肩をすくめる。
「分かっています。帰りは誰かと」
戸張が言う。
「俺が送るか?」
「いえ、遠慮します」
「即答するな」
吉田が少し笑う。
「私は方向が違いますね」
水瀬が言う。
「私は途中まで同じです」
梶原が少し安心した顔をした。
「じゃあ、水瀬さんと途中まで」
岡野は頷いた。
「その後は?」
「駅から自宅までは近いので」
上原が言った。
「近い距離が危ない」
梶原は黙った。
前回の護送でもそうだった。
短い移動ほど狙われる。
自分で言ったことを、今度は自分に返されている。
「分かりました。自宅近くまで所轄の巡回ルートに合わせます」
上原は短く頷いた。
「そうしろ」
20時47分。
梶原と水瀬は、警察庁を出た。
外は冷えていた。
霞が関の街灯が、ビルの壁を白く照らしている。
夜の官庁街は、人が少ない。
昼間の忙しさが嘘のように、道は広く、音が遠い。
水瀬は淡々と歩く。
梶原は肩にバッグをかけ、少し眠そうな顔をしていた。
「水瀬さん」
「はい」
「単独行動禁止って、いつまで続くんですかね」
「危険が下がるまでです」
「その危険が下がったって、誰が判断するんですか」
「岡野室長と上原班長です」
「じゃあ、長そうですね」
「長いでしょうね」
梶原は小さくため息をついた。
「非番も監視されるの、サイバー担当としては複雑です」
「監視ではなく警戒です」
「言い方の問題では」
「実際に違います」
水瀬は前を見たまま言った。
「あなたが狙われる可能性は高いです」
梶原は少し黙る。
「……ですよね」
「制御奪取速度高。そう書かれていました」
「そこ、褒められてるみたいで嫌なんですよね」
「敵の評価は、褒め言葉ではありません」
「分かってます」
交差点の信号が赤になった。
2人は足を止める。
その時、梶原のスマートフォンが震えた。
画面には、通知。
**未送信ログの復元が完了しました。**
送信元は、SERT内部解析端末。
だが、梶原はすぐに眉を寄せた。
「おかしい」
水瀬が見る。
「何がですか」
「この通知、内部端末からのものに見えますけど、時刻がズレてます。今、地下端末はネットワークから切っているはずです」
水瀬の表情が変わる。
「開かないでください」
「もちろん」
梶原はスマートフォンを操作せず、画面だけを見る。
通知の下に、もう1行表示された。
**梶原伊織。
あなたは帰路でも解析を続ける。**
水瀬が短く言った。
「罠ですね」
「はい」
信号が青に変わる。
だが、2人は動かない。
梶原はすぐに別回線の端末を取り出した。
SERT用の緊急通信。
上原へ接続する。
「班長、梶原です。帰路で端末に直接メッセージ。内部端末偽装です」
上原の返答は早かった。
「位置は」
「霞が関駅近く。水瀬さんと一緒です」
「動くな。周囲は」
梶原が視線を上げる。
タクシー。
自転車。
歩道の会社員。
交差点向こうの白いワゴン。
路肩に停まる配送車。
誰も、特別に怪しくはない。
だから怪しい。
「白いワゴンが1台。配送車が1台。あと、歩道橋側に人影」
水瀬が横から言う。
「歩道橋側の男性、こちらを見ていません。ですが、スマートフォンの向きが固定されています」
上原の声が低くなる。
「撮影か」
「可能性があります」
梶原のスマートフォンがまた震えた。
**止まるな。
止まれば、君の端末ではなく、信号が止まる。**
梶原の顔が変わった。
「班長、信号制御を触っている可能性があります」
梶原が周囲を見る。
交差点の信号が、青のまま長い。
反対側の車両が止まっている。
不自然に長い。
水瀬が言った。
「交通を操作して、こちらの移動を誘導するつもりですか」
梶原は短く答えた。
「たぶん、僕を歩かせたい」
上原が言った。
「その場で待て。龍一が向かう。神崎も近い」
戸張の声が割り込む。
「梶原、動くなよ」
「動くなと言われると、逆に動きたくなるタイプじゃありません」
「ならいい」
水瀬は周囲を見ていた。
「歩道橋の男、移動します」
男はゆっくり階段を下りてくる。
スマートフォンを持っている。
会社員風。
だが、歩き方が一定すぎる。
視線を上げない。
梶原を見ない。
見ないようにしている。
水瀬は低く言った。
「私が声をかけます」
梶原が止める。
「待ってください。あの人、端末を持たされているだけかもしれません」
男のスマートフォン画面に、反射で文字が見えた。
**近づけ。
止まるな。**
梶原は息を呑む。
「操られてます」
水瀬の声が少しだけ冷たくなる。
「脅迫ですか」
「たぶん」
男が近づく。
梶原のスマートフォンには、次のメッセージ。
**彼には妻がいる。
止めれば、別の通知が飛ぶ。**
水瀬が言う。
「人を端末として使っている」
梶原は歯を食いしばった。
「本当に、嫌なやり方ですね」
男は2人の前まで来た。
顔色が悪い。
汗をかいている。
手が震えている。
梶原は一歩だけ前に出た。
「大丈夫です。警察です」
男の目が見開かれる。
「言うなって……言われて……」
水瀬が静かに聞く。
「何を持っていますか」
男は震える手でスマートフォンを差し出そうとした。
その瞬間、梶原の端末に表示。
**渡すな。
渡せば公開。**
男の手が止まる。
梶原は言った。
「渡さなくていいです。持ったままでいい。画面だけ見せてください」
男は泣きそうな顔で画面を向ける。
そこには、妻と思われる女性の写真。
勤務先。
住所。
そして、脅迫文。
**指定場所まで歩け。
スマートフォンを警察へ渡したら、全情報を流す。**
梶原は怒鳴らない。
声を低くする。
「水瀬さん、この人を座らせてください。スマホは持たせたまま」
「はい」
水瀬が男をベンチへ誘導する。
彼の手首や首元を見る。
「体調は」
「大丈夫……です」
「呼吸が速い。吐いてください。吸うより先に」
吉田がよく使う言葉を、水瀬が使った。
男は震えながら息を吐いた。
梶原は端末を見た。
「班長、相手は一般人をリレー端末に使っています。スマホを渡すと脅迫情報が公開される仕組みかもしれません」
上原が返す。
「解除できるか」
「やります。でも、ここでは不利です。相手は僕の操作を見たい」
上原が言った。
「見せたい操作を見せろ」
梶原は一瞬だけ黙り、すぐに理解した。
「偽の解除作業ですね」
「そうだ」
梶原はスマートフォンを取り出し、わざと目立つように操作を始めた。
相手に見えるように。
焦っているように。
失敗しているように。
実際には、別のSERT端末から梶原の位置と周囲の通信を拾っている。
梶原の指は震えていない。
だが、表情だけは少し焦って見せる。
20時58分。
戸張と神崎が近づいていた。
戸張は警察車両ではなく、タクシーから降りた。
目立たない。
神崎は反対側の歩道から歩いてくる。
2人とも、梶原の方を見ない。
梶原は通信で小さく言った。
「白いワゴン、動いてません。配送車も。ですが、歩道橋下に自転車の男がいます。さっきから同じ位置です」
神崎の声。
「見えています。自転車の男は、逃走役ではなく監視役。体重がペダルに乗っていない。逃げる準備をしていません」
戸張が言う。
「じゃあ本命は」
神崎が答える。
「配送車の荷台です。路駐しているのに、後部がわずかに沈んでいる。中に人がいます」
梶原の端末にまた表示。
**上手い。
だが、近づいている男は戸張龍一。
もう見えている。**
梶原の表情が変わった。
「副班長、見られています」
戸張は足を止めない。
「見せとけ」
「いや、そういう話では」
「梶原、お前は自分の仕事をしろ」
その声に、梶原は息を整えた。
「了解」
水瀬はベンチの男を守る位置に立つ。
「梶原さん、一般人のスマホ側、タイマー表示が出ました」
男の画面に、残り2分。
公開までのカウントダウン。
梶原は舌打ちした。
「ほんと性格悪いですね」
彼は自分の端末で偽の解除作業を続けながら、隠し回線で男のスマートフォンと脅迫サーバーの通信を追う。
相手は、スマホを警察に渡したかどうかを、加速度センサーと画面操作で見ている。
さらに、位置情報。
さらに、カメラ。
梶原は言った。
「水瀬さん、その人のスマホ、向きを変えないでください。手もそのまま。画面は見える位置で」
「分かりました」
残り1分20秒。
上原の声が入る。
「梶原、無理なら男と家族を保護する。公開されても命は守る」
梶原は画面から目を離さずに答えた。
「公開させません」
「無理はするな」
「無理じゃないです」
梶原の指が速くなる。
敵は、梶原が直接サーバーへ入ると思っている。
だが梶原は入らない。
入ろうとする姿だけを見せる。
実際には、脅迫サーバーではなく、その手前にある通知配信経路を偽装する。
公開した、という結果だけを相手に返し、実際の投稿先には空のデータを流す。
以前、三浦佳奈の事件で使った手に近い。
だが、今回は相手が梶原の手口を見ている。
同じやり方では読まれる。
だから、半分だけ同じにする。
半分だけ変える。
残り30秒。
梶原は小さく言った。
「公開したことにします」
水瀬が聞く。
「実際には?」
「何も出ません」
残り10秒。
梶原の端末に、新しい文字。
**君はまた隔離する。**
梶原は笑わない。
「違います」
残り3秒。
2秒。
1秒。
男のスマートフォンに表示。
**公開完了。**
男が崩れそうになる。
水瀬が肩を支えた。
「落ち着いて。まだ確認していません」
梶原の端末には、別表示。
**送信失敗。**
脅迫サーバーは、公開したと思っている。
実際の投稿は空。
通知だけが戻っている。
梶原は息を吐いた。
「止めました」
その瞬間、配送車の後部ドアが開いた。
中から男が1人、飛び出す。
ノートPCを抱えている。
監視役ではない。
現場操作役。
逃げる方向は、地下鉄入口。
だが、神崎がその前に立っていた。
「そちらは混みます」
男は方向を変える。
そこに戸張がいる。
男が小型のスタンガンを抜く。
戸張は一歩で距離を詰め、手首を外側へ逃がす。
スタンガンの先が空を切る。
次の瞬間、男の膝が落ちる。
戸張はノートPCを地面に落とさないよう、片手で受け止めた。
「確保」
神崎は配送車の荷台を確認する。
「中に端末2台。通信機材あり。もう1人」
荷台奥の男が逃げようとする。
戸張が制圧した男を神崎へ任せ、荷台へ向かう。
水瀬は一般人を守る。
梶原は端末から目を離さない。
「副班長、奥の端末を切らないでください。まだ通信が生きています」
「了解」
荷台奥の男は、端末の電源を抜こうとしていた。
戸張は腕を押さえ、端末から引き離す。
神崎が反対側から入って、逃走路を塞ぐ。
男は抵抗するが、数秒で床に押さえられた。
「2人目確保」
21時06分。
交差点の信号は正常に戻った。
一般人の男は、近くの警察施設へ保護されることになった。
彼の妻に関する情報は公開されていない。
水瀬が男の状態を確認する。
「過呼吸気味ですが、命に別状はありません。念のため救急搬送を」
男は涙ぐみながら頭を下げた。
「ありがとうございました……」
梶原は少し困った顔をする。
「僕じゃなくて、水瀬さんに」
水瀬は淡々と答えた。
「どちらでも構いません。あなたは悪くありません。脅された側です」
男は何度も頷いた。
戸張は確保した男2人を所轄へ引き渡す。
ただし、表向きは不審車両内での脅迫事件。
SERTの名前は出ない。
神崎は周囲の人流を見ていた。
「騒ぎは最小限です。通行人は、車内トラブル程度に見ています」
戸張が梶原を見る。
「無事か」
「はい」
「顔、白いぞ」
「サイバー担当なので、もともと屋内色です」
「そういう返しができるなら大丈夫か」
梶原は笑おうとしたが、少し失敗した。
その手は、わずかに震えていた。
水瀬が気づく。
「梶原さん」
「大丈夫です」
「大丈夫な人は、端末を両手で握りません」
梶原は自分の手を見た。
確かに、強く握っていた。
「……少し、腹が立ちました」
水瀬は頷いた。
「分かります」
21時22分。
SERT区画へ戻ると、全員が待っていた。
上原、吉田、片桐、真壁、岡野。
梶原は端末を抱えたまま入る。
戸張と水瀬、神崎が続く。
岡野が最初に聞いた。
「けがは」
梶原は答える。
「ありません」
「一般人は」
「保護しました。情報公開も止めています」
岡野は静かに頷いた。
「よかったわ」
その一言に、梶原は少しだけ肩の力を抜いた。
上原が聞く。
「相手は」
戸張が答える。
「配送車内で2名確保。現場操作役と補助。監視役と思われた自転車の男は、脅されていただけの別人でした。所轄が保護しています」
神崎が続ける。
「一般人を複数使い、監視役に見せかけていました。本命は配送車内」
水瀬が言う。
「脅迫された一般人にスマートフォンを持たせ、梶原さんに解除作業を強要。操作手順を見ようとしていました」
吉田が低く言った。
「個別対応ですね」
片桐が顔をしかめる。
「梶原の手口を見に来た」
梶原は端末を机に置いた。
「見せた手口は偽物です。半分だけ本物ですが」
真壁が言う。
「半分?」
「完全な嘘だと見抜かれるので」
梶原は椅子に座り、画面を出した。
「相手は、僕が隔離環境へ誘導すると思っていました。だから、そう見せました。でも実際には通知配信経路の方を触っています」
上原が頷く。
「相手は何を得た」
「間違った情報です。次に同じ前提で来れば、こちらが取れます」
岡野が静かに言った。
「よくやったわ」
梶原は少しだけ目を伏せた。
「でも、一般人を巻き込まれました」
吉田が言う。
「巻き込んだのは相手です」
「分かってます」
「あなたが止めたから、公開されなかった」
梶原は黙った。
しばらくして、小さく頷いた。
「はい」
上原は画面を見ている。
配送車内の端末から抜いたログ。
そこには、また識別名があった。
**OBSERVER-4**
そして、短いメモ。
**梶原伊織、感情反応あり。
一般人保護を優先。
偽装操作の可能性。
次回、直接端末ではなく人間側を揺らす。**
戸張が拳を握った。
「まだ観察してやがったのか」
水瀬の声が冷える。
「人間側を揺らす、ですか」
吉田が目を細める。
「次は、誰かの感情を狙う」
片桐が言う。
「個別対応、本格化ですね」
岡野は画面を見たまま言った。
「全員、今日の件を他人事にしないで」
上原も頷く。
「次は別の誰かだ」
梶原は椅子に座ったまま、端末を見た。
自分の名前。
感情反応あり。
一般人保護を優先。
それを弱点のように書かれている。
だが、違う。
弱点ではない。
それがSERTの前提だ。
人を守る。
それを狙われるなら、狙わせないようにする。
守り方を変える。
だが、守ることは変えない。
21時58分。
梶原はようやく温かい缶コーヒーを手にしていた。
戸張が自販機で買ってきたものだ。
「珍しいですね、副班長が奢るなんて」
梶原が言うと、戸張は肩をすくめた。
「今日は若手社長じゃなくて、うちのサイバー担当だったからな」
「それ、普段は奢らない理由になってません?」
「細かいこと言うな」
水瀬が横から言う。
「糖分を取ってください。手の震えには、少しは効きます」
梶原は缶を両手で包む。
「ありがとうございます」
吉田が言った。
「今日は帰りませんよね」
梶原は苦笑した。
「この流れで帰れます?」
片桐が答える。
「帰らせません」
真壁が頷く。
「仮眠室を使いましょう」
岡野が言う。
「今日は全員、ここで待機。非番扱いでも、帰宅は明朝以降にします」
戸張が小さく言った。
「合宿みたいだな」
水瀬が即座に返す。
「最悪の合宿です」
少しだけ笑いが起きた。
上原はその様子を見ていた。
笑えるなら、まだ崩れていない。
相手は個人を狙い始めた。
梶原の帰路。
端末。
一般人。
脅迫。
感情。
次は、別の形で来る。
誰かの非番。
誰かの過去。
誰かの大切な人。
考えればきりがない。
だが、ひとつだけ確かなことがある。
SERTは、ひとりで帰る部隊ではない。
ひとりで戦う部隊でもない。
撃つ前に読む。
突入する前に救う。
それでも止められないなら、制圧する。
そして、帰路にまで侵入してくる相手には、帰路そのものを罠に変える。
梶原は缶コーヒーを開け、ひと口飲んだ。
苦い。
甘い。
熱い。
その感覚で、ようやく少しだけ、自分が戻ってきた気がした。
画面の向こうからではなく、現実のこちら側へ。
その夜、SERT区画の明かりは消えなかった。




