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第九話(1)


「あの日、転入生なんていなかった。そこにいたのは……顔のない化け物だった」


 目の前に向けられた折りたたみナイフの先端が、わずかに揺れる。仁科は淡々と続けた。僕が最後の儀式で生まれた失敗作であること。不完全な蘇生ゆえに、彼以外の誰にも見えないこと。……ああ、と僕は理解した。思い返せば、僕と仁科が話している時、周囲の視線はいつも奇妙だった。誰も僕に話しかけてこなかった理由も、ようやく腑に落ちた。


(僕は……仁科ありきの存在だったんだ)


 僕は彼に呼び戻された、彼のための存在だった。だから僕は、彼が認識することで初めて形を持つことができる。彼だけが僕の姿を捉えられるのだ。そして反対に、他の人たちは僕を見ることができない。彼らにとって僕はいないも同然で、僕自身も実際、仁科といる時以外の記憶がほとんどなかった。

 小さく息をこぼす。僕はぎゅっと手を握ると「……一つ、聞いてもいい?」と彼に尋ねた。返ってきたのは凝視、無言。僕はそれを了承と受け取ると、問いを重ねた。「なら、どうして僕を今日まで生かしたの?」、と。なぜ、さっさと処分しなかったのか、と。

 彼はくしゃりと、その表情を歪めてみせた。


「それを本気で聞いてるなら……お前はひどいやつだ」

「…………」


 言われなくても、答えは薄々わかっていた。それは僕──この失敗作が、これまでの「別の何か」とは異なっていたからだ。最も大きな違いは、僕が意志を持ち、仁科に干渉したことだろう。


 ──友達になってくれない?


 そんなことを言ったのは、きっと僕が最初で最後だった。そしてそんな自分は、たとえ顔が無かろうと、他の誰にも観測できなかろうと、彼には「吾妻真琴」らしく思えたのかもしれない。


(だから、一緒にいてくれたの?)


 放課後にマーケットを案内してくれたこと。映画館に連れて行ってくれたこと。仁科の過去や、好きなものを教えてくれたこと──全部、今ならわかる。あれは僕が僕だからではなく、僕の中にかつての吾妻真琴の面影があったからだ。カツアゲ犯から守ってくれたのもそうだ。あの標的は僕ではなく、「パサイ・ウェストサイド」のリーダーである仁科を狙ってのものだった。が、彼はあえて、僕が狙われていたことにした。すべては僕が僕自身を「別の何か」だと悟らないようにするため。ジープニーの運賃を払ってくれたのも、教室で僕と話し、時には手を繋いでくれたのも、周囲から見れば、彼が「独りで奇妙な行動をする人間」に見えていただろうにもかかわらず。

 仁科は僕を手放さなかった。僕を成功作だと思っていたわけではないが、きっと期待していたのだ。ほどほどに諦めてはいた。どうせ、とも思っていたはずだ。それでもちょっとだけ、ほんの少し、夢を見ていたのだ。テセウスの船のように、僕を構成するものが変わってしまっても、それでも僕を僕だと信じたかった。だから、生かした。だから、処分できなかった。……僕が、今の仁科にとっての吾妻真琴であり続けたから。

 ナイフを握ったまま、仁科はしばらく動かなかった。柄を握るその拳が力むあまり白み始めていて、それが妙に痛々しい。震えのせいでぶれる刃の先端に、僕は目を細めた。


「……終わりにしなきゃいけないんだ」


 仁科が低い声で呟く。誰に向けた言葉なのかわからなかった。僕に対してか、それとも自分自身に対してか。どこか遠くから聞こえるようなそれに、波の騒ぎ立つ音が耳の中を木霊した。


「俺は……間違えた。お前を吾妻だと思い込んで、呼び出した。……でも、違うんだよな」

「……仁科」

「全部……俺のせいだ。俺が吾妻を殺したようなもんだ。俺と会わなければ……俺が、あんなこと言わなければ……」


 言葉の端々がかすれて、海風に攫われる。仁科はもはや僕を見ていなかった。いや、最初から、初めて会った時からそうだった。彼はずっと僕のむこう側を見ていた。僕が何者なのか、その答えを探すように。


「……ごめん、吾妻」


 ひくりと、仁科の声が裏返る。が、かまわず彼は謝罪を重ねた。「ごめんな、痛かったよな」と上擦る鼻声は、最後につんのめっては息を詰まらせる。溢れる嗚咽、洟を啜る音。瞳からぼろりと落ちる涙が、音もなくその頬を濡らせば、彼はがりっと唇を噛んだ。


「俺が……お前を呼んだ。だから……俺が責任を取る」


 ──俺がやったことだ……俺がすべて責任を取らないと……。


 いつか仁科が言っていたのを思い出す。自身の行いと決意、それにけじめをつけること。「責任を取る」というのは、このことだったのか。そして同時に理解した。今この瞬間、彼は自分を罰しようとしているのだ、と。僕を処分することで、彼自身もまた断罪されようとしていた。


(……そっか)


 凹凸が当てはまるような感覚を覚える。すると僕の胸の内はたちまち凪いで、粛然と静まった。……納得、ではない。単に思い出したのだ。


(僕は吾妻真琴じゃない)


 だが、仁科が()()()()()吾妻だった。彼が僕を見てくれる限り、僕はここに存在できる。そして僕がここにいる理由は、たった一つだけだ。


「……仁科」


 名前を呼んで、躊躇うことなくその手を伸ばす。恐れはなかった。だから彼は驚いて、その目を見開いたのかもしれない。差し出したのは右手。僕がそっと彼の手に触れれば、ナイフを構える手の震えも止まった。

 まるで、時間が止まったみたいだった。僕はそれもいいなと思った。時の流れが止まってしまえば、きっと嫌なことを考えずに済むからだ。けれど時間とは進んでいってしまうもので、だからこそ、今ここで言わなければならなかった。


「そんな、悲しい顔するなよ」


 はたと、仁科の息遣いが乱れる。


「君が……『僕』に会いたいって願ってくれたから。だから、僕はここに来られた」

「……違う。俺は……お前を蘇らせようと──」

「違うよ、仁科」


 僕は静かに首を振った。だって、思い出したのだ。自分がなぜここにいるのかを。自分がなぜ、彼に呼ばれたのかを。

 仁科の眼が揺れて、煌めく。その輝きが、僕の正体を照らし出した。


「だから……終わらせるのは、君じゃなくていい」


 ニッと笑顔を浮かべ、仁科の手を握る。そこへさらに左手を添えると、僕は彼にナイフを手放させた。

 あっという間もなく地面に叩きつけられた刃が、カランと乾いた音が響かせる。言葉を失う仁科に、僕は「君は一個勘違いしてるね」と肩を窄めてみせた。


「勘違い……?」

「うん。だいぶ大きな勘違いさ」


 誤解しているというのは、僕を呼んだ儀式について。むこうの世界の人間を呼び戻す──故人を蘇らせる黒魔術。仁科はそのように理解していたものの、厳密に言えば、その目的は「死者を蘇生する」ことではなかった。

 現在に伝わっている儀式のケースを照らせばわかる。本に載っていた件、ウェブにアップされていた件、そして仁科が参考にした件。いずれも共通しているのは、儀式を通じて死者が蘇ったこと。そして最後に──実行者の消息が不明になっていることだった。


「あの儀式の本当の目的は……儀式を行なった人を、死者のもとへ連れていくことなんだ」


 なぜ、この儀式が禁忌とされたのか。それは「死者を蘇らせるためにさらに死者を差し出す」という代償が、あまりにも大きく、罪深いものだったからだ。しかも、本来なら死者を蘇らせることなどできるはずがない。この儀式は、理屈の上でも実現不可能だった。成功するはずのない、空虚な手順にすぎなかった。……が、それでも人々はこの儀式に手を伸ばした。深い未練を抱え、どうしようもない喪失に打ちのめされ、「もう一度会いたい」という思いだけで動いていた。

 だって、とても寂しかったから──彼らは皆、藁にも縋る思いで、死者がいる「むこうの世界」へと行こうとした。


「君もそうだ。そのためなら、こんな罪なる儀式も厭わなかった。成功しないと、どこかでわかっていたとしても」


 ひゅっと、彼の呼吸が空回る。それでも僕は続けた。


「君は吾妻真琴に会いたかったんだ。ずっと、ずっと……死にたかったんだ」


 儀式は成功していた。君の願いは、ちゃんと届いていた。だから僕は君を迎えに来たのだ。君を一人にしないために。君を……その果てない寂しさから解放するために。

 赤銅色の瞳から、一つ、二つと透明がこぼれ落ちる。噛み痕の付いた唇は何とか否定を口にしようとするが、叶わなかった。僕はそんな、今にも崩れてしまいそうな仁科の体を抱きしめる。その腕いっぱいに、彼のすべてを受け入れるかのように。


「……嘘だ」


 耳元でそう、彼が声を漏らす。「嘘じゃないよ」と言っても、「そんなわけない」、「信じられるはずねえ」と聞き入れてはくれなかった。相変わらず卑屈だな、と思う。思うだけだ。仁科らしくて、悪い気はしなかった。だから僕はにへらと頬を緩めて、「じゃあ、今からもっと信じられないこと言ってもいい?」と尋ねた。


「僕がさ……実は、タイムトラベラーだって話!」

「…………あ?」


 仁科の声が、露骨に低くなる。「おや?」とその顔を覗き込めば、彼は至近距離で眉をひそめ、明らかに胡乱な顔をしてみせた。あまりに突拍子もないセリフだったのだろう。さっきまで滲んでいた涙が、すっと引っ込んでしまったらしい。僕はそれに、わざとらしいくらいに口角を深めた。ああだって……彼の泣いた顔は、あまり見ていたくなかったからだ。僕まで悲しくなってしまうから、それなら呆れていてほしかった。怒っていてほしかった。

 だから僕はもう一度言う。「嘘じゃないよ」、と。でも嫌なら信じなくていいよ、と。


「この世界線に来たのは……たしか、三十七回目? だったと思う。それまで何度も、何度も時間をロールバックしては、色んなことをやってきたんだ。どうして自分にこんな力があるのか知りたくてね。……まあ、映画みたいにはなかなか上手くいかなかったけど」


 意外にも、仁科は口を挟まなかった。何も言わず、ただ耳を傾けるだけ。掻い摘まんで話すつもりでいた僕は、何だかな、と思って、つい予定外のことまで言い及ぶ。


「繰り返すうちに、やりたいことができたんだ。そのために危ないこともしたよ。例えば……『ウェストサイド』に加入してみたり!」


 それはこの世界では起こり得なかったこと。仁科に馬鹿でドジ認定されている以上、この世界の僕が「パサイ・ウェストサイド」の一員になることはなかった。彼も「は? 絶対足手まといだったろ」と白けた反応を寄越すくらいだから、なおさら。


「そ、そんなことなかったし!」


 とは言うものの、これは普通に嘘だ。喧嘩も交渉もまったく使い物にならなかったため、結局クビを言い渡されたのだが、これは黙っておこう。くすりと笑って、僕は駄弁を再開する。


「とにかく、色々試したんだよ。前の世界より、ちょっとでも良くなりますように、って。いい未来になりますように、って……でも、やっぱり失敗して。失敗するたびに、またやり直して」


 言葉を切ったのは、もったいぶりたかったわけではない。ただ、自然と喉が詰まった。それは口にするのを躊躇うほど、僕にとって悲しい事実だったから。


「……仁科が、死んじゃうんだ」


 僕のせいで、だ。それはこれまで繰り返してきたロールバックの中で確かめられたことの一つ。あらゆる不慮の出来事、不可避の災いから僕をかばって、彼はかならず死ぬ運命にあった。それも決まって、高校一年のクリスマスの日に。


「三十六回目の世界線でね、僕はもうダメだと思ったんだ」


 あの日の光景が脳裏でチラつく。その世界でも、仁科は僕を守って死んだのだ。

 これまでの失敗から、マニラにいるのがいけないと、彼を市外に連れ出したまでは良かった。が、グループから離れ、注意が疎かになったところを、かつて仁科と対立したギャングが待ち構えていたのだ。


「もう、どうしようもなかった。弱い僕は何もできなくて……でも仁科は、僕を逃すためにボロボロになるまで抵抗して……それで……」


 何とか逃げ切ったものの、僕のすぐ隣で彼は倒れた。冷たくなっていく体を抱きしめながら、僕は「早く時間を戻さないと」と思ったことを覚えている。逼迫する心境の中、必死に、「また過去に戻って仁科を救わないと」、と──だが、これまで何度やってもできなかったことが、次こそできると思えるものだろうか。その実、僕の心はその時点でほとんど挫けていた。「仁科を死なせない」、その一つだけが、どうやっても叶わないことを知っていたから。


「君を傷つけたくなかったんだ」


 その時、僕はふと思いついた。仁科は僕を守って死んだ。なら、初めから──「僕が仁科と会わなければいい」んだ、と。そうすれば君は傷つかない。僕をかばわないから、君が死ぬこともない、と。


「そうしたら、この三十七回目の世界線では、僕は君のことをすっかり忘れてて……まあ、そのくせ結局会っちゃったんだけどさ」


 運命は、皮肉なほどあっさりと僕たちを引き寄せた。そうして迎えた、去年のクリスマス。死んだのは、仁科ではなく僕の方だった。三十七回目にして、ようやく「仁科が死ぬ」という運命は覆されたのだ。が、せっかく掴み取った結果も、自分が死んでしまっては意味がない。……だって、


「仁科、泣いてたんだ。僕が死んだせいで、君はとっても傷ついてしまったんだよ。……うっかりしていた。君がすごく優しくて、愛情深い人だってことを」


 ……僕のことが、大好きだってことを。

 だから「大丈夫だよ」という言葉を残して、僕は意識が無くなる直前に時間をロールバックした。今度は彼を死なせないのではなく、悲しませないために──過去に戻って、今度こそより良い世界を探し出すために。


「なあ、仁科。僕は君に、一つ伝えないといけないことがある」


 けれど、別に信じてくれなくていい。このタイムトラベルの話のように、嘘つきお化けの法螺話だと思ってくれてかまわない。


「この世界は、じきに終わりを迎える」


 それは僕が時間を巻き戻したからだ。

 僕は、仁科が悲しむ世界を必要としない。仁科が一人になってしまう未来を辿る、この世界を認めない。そのために「やり直した」──つまり、この世界を捨て去ったのた。だからこの世界に未来はない。やがて綻びが生まれて、おかしなことで溢れかえって、最終的に崩壊するだろう。そして実際、この綻びは既に生まれている。その一つが、儀式の再現だった。


「だってさ、死んだ人間が生き返るはずがないんだ。僕みたいなお化けが、本当にいるはずがないんだ。……でも、それでも僕はここにいる」


 いずれにせよ、儀式は叶えられてしまった。その結果、「むこうの世界」とやらにいるはずの僕がこちらに蘇り、そして「こちらの世界」とやらにいるはずの仁科もむこうに繋がった。異なる世界の存在ゆえに正しく認知されないため、僕は他の誰からも見えず、彼は画面の中で顔が真っ黒に潰れてしまうのだ。そして儀式を介した僕たちは唯一、お互いを認識できる。


「僕にとって、仁科はそれくらい特別ってことだよ。それを今、やっと思い出した」


 戯れ言を終え、口を噤む。僕たち以外に人ひとりいない辺りは、曇天下の潮騒だけがやかましく響いた。そんな中、おもむろに頭を起こした彼と視線がかち合えば、僕はへらりと笑みを浮かべる。


「泣き止んだ」

「……お前の話がくだらなすぎんだよ。ありえねえし、慰めにもならねえ。絶対、嘘。だいたいなんだ、世界を捨てるって。壮大すぎねえか、お前そんなに偉いのかよ」


 仁科の白けた物言いに、僕は肩を竦める。別に、偉ぶったつもりはなかった。壮大だとも思っていない。もっと小さなことだった。言うなれば……出かける前に皿が割れたくらいのこと。

 寂しがり屋の皿のためにもう一枚割るより、時間を巻き戻した方が良いと思っただけ──それと同じで、君のためなら、奇跡の一つや二つなんてことなかった。


「……やっぱり、くだらねえ」

「うう、酷評の嵐!」

「映画だったらレビューサイトに星一を付けてたところだ。……でも、」


 粗暴に言い放つ一方で、仁科はほうと息を吐く。赤らんだ眦を細めると、彼はその視線を海に遣った。


「どこの世界にもお前がそばにいる、ってのは……わりと退屈しなさそうだな」


 追いかけて、僕もまた海へと目を向ける。そうしてこくこくと頷いた。「退屈なもんか」、と。


「だって……どの世界でも、僕は君のことが大好きだから」


 好きな人と一緒にいるんだから……そりゃあ、楽しいに決まってる。

 刃物を落としたその手を握る。今度は何があっても離さないように。どんなに怖くても、恥ずかしくても、理不尽があっても──君が寂しくないように。……君を一人にしないために。


(僕は本物の吾妻真琴じゃない)


 けれど、君が呼んだ吾妻真琴だった。この終わり行く世界で、君を終わらせるための……君だけの吾妻真琴。


「……行こう、仁科。君が会いたかった人のところへ」


 心晴れやかだったのは、自分が何者なのかをようやく理解したから。ゆえに僕は彼の手を握りしめた。それが僕の役目だったから。


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