第八話(1)
それから俺たちは、気づけば毎日のように一緒にいた。
ジープニーに乗って、行き先も決めずに街を巡った。吾妻はどこへ行っても楽しそうで、その笑顔につられて俺もつい笑ってしまうことが増えた。それはたぶん、出向いた先で撮られたいくつものVLOGにも残っていることだろう。カメラに映り込むたび、バリエーションの乏しいピースサインを見せては「またそれかよ!」とツッコまれた回数は今さら数え切れない。しかし不慣れな撮影も、吾妻にスマートフォンを向けられる分には悪い気はしなかった。
世界が広がっていく音を聞いていた。気になる新作があれば映画館に通い、雨の日はアジトに引きこもって、吾妻が借りてきた本を読む。公立学校に比べ、私立のインターナショナルスクールの図書室は蔵書が豊富で、俺の手が届かないような哲学書や教養書も、そいつのおかげで読むことができた。
「……あ、ありがとう」
俺が初めて言った感謝の言葉に、吾妻ははつらつと笑う。
「どういたしまして。あ、もし良かったら、その本に書いてあった内容を僕にも教えてくれよ。僕は仁科の半分も理解できないだろうけど……仁科の知りたかったこと、僕も知ってみたいから」
貸出期間の一週間は、二日三日でひと通り読み切り、残りは吾妻に教えることに費やされた。良い意味で教え甲斐があったのだが、それを言うと不機嫌になるので胸に仕舞っておく。反対に、オレ自身がそいつから教えてもらうこともあった。
「そういえば俺、日本語は話せるけど、読み書きはできないんだよな」
「えっ、じゃあ僕が教えてあげるよ! 国語はね、わりと得意なんだよね……って、なんだよその疑わしげな目は!」
「失敬な!」と喚きつつ、吾妻は俺が理解につまずくところがあると、当然のごとく隣に座り、丁寧に、何度も繰り返して説明してくれた。その時間は妙にこそばゆかった反面、ずっと続いたらいいのにと思うこともあって──当たり前になった時間は、いつからか俺にとって特別なものになっていった。
時間にして四年と少し。その間ずっと穏やかな日常が続いていた、というわけではなかった。変化に衝突、仲違い。ずいぶんと色々なことがあった。気づけば声が低くなり、背も伸びた。吾妻も同じだ。幼さの残る顔つきは大人びて、笑った時の目元だけは昔のまま、しかしふとした瞬間に覗く横顔がひどく綺麗で、その変化に俺の胸中は甘く疼いた。
「──ねえ。最近あなた、あの日本人の子とばっかり一緒にいるのね」
吾妻のことを話す時間が増えてきた頃、母の態度が見るからに変わったのを憶えている。その時も、鏡に向かって化粧をしながら、まるでこちらを見向きもしないというのに、言い方だけは何かを探るようで、どこか刺々しかった。
「別に。友達だよ」
「友達ねえ……。ねえ、本当にそれだけ? あなた、その子に変な気を起こしてないでしょうね?」
婉曲的な表現がかえって非難に露骨さを感じさせる。息子に聖人の名前を付ける程度には、暮らしの中に当たり前のように神の教えがある母にとって、そういった同性間の親密さは受け入れがたいもののようだった。
ふと、鏡から視線が外れる。ゆらりと向けられる美しい装いのその目には、艶やかにコーティングされた軽蔑と打算とが見え隠れしていた。
「その子、お金持ってるんでしょ? なら、友達として上手くやりなさいよ。持つべきものは、って言うでしょう? 困った時に使えるくらいが良いのよ」
思いつきで浴びせられる冷たさに身震いする。母は元より、吾妻を金づるとしてしか見ていなかった。俺がそいつをどう思っているかなんて二の次で、どうすればこちらに都合が良いかだけが重要だった。
「……そういうんじゃないよ」
「じゃあ何? まさか本気で、とか言わないわよね?」
問い質すような唇の動きに、嫌な汗が肌を伝う。図星を指された後ろめたさと、言語化されたことで現実味を帯びる恐怖は、「……違う」と否定する声を情けないほど弱らせた。母はそれに薄く笑ってみせる。「なら、いいじゃない」、と。「友達のままで十分じゃない」、と。
「あなたって本当に馬鹿。昔からそうよね。哲学なんてお金にならないものが好きだし、ただの友達にすらこんな勘違いしちゃうし」
「…………」
「うちはお金無いんだから……もっと、よく考えて人付き合いしてよ」
母は呆れを吐き出し、「まあ、結局あなた次第だけど」と言いながら、化粧箱と化したクッキー缶を大事そうに抱える。その姿がどうしようもなく見ていられなくて、俺はたまらず家を出た。
むしゃくしゃしていたのだと思う。このままだと何かに当たってしまいそうで、俺はすぐにでもそこから立ち去りたかった。走って、走って──そうして逃げ込んだ先はアジト。そこには、資料をまとめるジョンの姿があって。
「──ルカ、最近……マコトといる時間が多くないか?」
いつもの情報共有を終えると、話題は気まぐれに吾妻のことに移る。ジョンがそいつに触れるのは、わりと珍しかった。
「……まあな。問題あるか?」
「別に悪いとは言わねえよ。あいつ、いいやつだし。おかげであんたが笑ってるところ見るの、増えたしな」
ジョンはそう言って笑ったが、すぐに真顔に戻る。「でもな、ルカ」と続くセリフと口調とが強ばっていれば、俺は知らずと肩に力を入れた。
「ウチのリーダーとしては、今のあんたは少し心配だ」
「……何が」
「とぼけても無駄だって。あんたのこと、何年見てきたと思ってんだよ」
言葉は母のものよりずっと優しく聞こえる。が、だからこそのっぴきならなかった。ジョンはそれを受け入れてはいたものの、その分ごまかしを許すつもりは微塵もない様子だったからだ。
「……別に」
「嘘つけ」
ジョンは嘆息を漏らし、机の上の資料を指で叩く。紙面を埋めるのは、今月と来月に予定している十を超える仕事の詳細。それは「パサイ・ウェストサイド」が今や地域で一、二を争うほどの規模と勢力を誇り、現在進行形で多くの役割を担っていることを示していた。
「『ウェストサイド』は今、ここ一番の局面に来てる。それくらいの価値と影響力が見込まれているということだ。あんたが崩れたら、その根本が揺らぐことになる」
「……わかってるよ」
「それならいい。でも……マコトを巻き込むなよ。あいつはこっち側の人間じゃねえ」
胸に突き刺さるものが痛い。むろん、そんなことはわかっていた。母の言葉も、ジョンの言葉も、決して間違ってはいなかった。吾妻は俺の世界にいてはいけない。俺も、そいつのそばにいるべきじゃない。……それなのに、
(吾妻といると、胸が軽くなる)
息がしやすくなるのだ。自分が自分でいることを認められる。少しだけ、世界を愛おしく思うことができた。だから俺は離れられない。そしてそいつはそいつで、相も変わらず俺の世界に迷いなく踏み込んできた。アジトのほの暗さも、仲間たちの荒っぽさも、俺が背負っているものも全部知ったうえで、それでも「ここ、落ち着くね」と笑う。そんなやつは、後にも先にもそいつだけだった。
吾妻は俺の居場所を否定しなかった。俺が何者であっても、変わらず隣に立ってくれた。そのことが、いったいどれほど俺を救っていたか。誰も、きっと本人でさえも知らなかっただろう。そして──そんな折に、訪れるべき時はやって来て。




