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第七話(2)


「──ただいま」


 その日、学校を終えて家に帰れば、珍しく母親の姿があった。部屋に一つだけの狭いベッドの上で、今夜の商売のため、ちょうど化粧をしているところだった。

 ワンルームの小さな住まいは、南国の湿気と熱気、それと洗濯物の生臭い匂いに満ち、コンクリートの床は衣類とプラごみ、そして使い切った化粧品が散乱している。俺はそれらを足で払い避けながら、母のそばへと向かった。そうしてデイパックに詰め込んでいたクッキー缶を取り出す。


「おかえりー。……って、何それ! 高いところのやつ!」


 頬にはたいていたファンデーションのパフを放り投げ、母は僕からクッキー缶を奪う。きらきら宝石が輝くような箱は、母もひと目で気に入った様子だった。さっそく蓋を開けてはその中の一つをぺろり。欠けらをぽろぽろこぼしつつも、真っ赤な舌で舐め取る仕草にはどこか艶やかさがあった。


「誰からもらったの?」

「……友達から」


 正直に答えたものの、「友達? あなたの友達にそんなのいないでしょ」と怪訝な目を向けられる。たしかに、これまでの友達にあの手の馬鹿はいなかったかもしれない。が、それはそれとして、壁に貼られた何年も前のカレンダーを見れば、こうして母に友達のことを話したのが久々だと気づいた。


「嘘じゃないって」


 疑いを晴らそうとするも、母は「ふーん」と興味があるのか無いのか微妙な反応を示す。


「まあ、そういう子は貴重だから、大切にしなさいね」

「大切にするって言うか、面倒は見るよ。そいつ日本人で、最近こっちに来たばかりらしくて──」

「……日本人?」


 母はそう呟くと、見る間に機嫌を悪くする。恨みがましく缶を睨めつけては、再び俺に視線を戻し「……へえ?」とせせら笑いを浮かべた。


「なるほどね。女に貢いでもらったわけ?」

「貢いでって……」

「だからさっきから言ってんじゃない。あなたにそんな友達いないでしょ、って」


 汚物でも見るような眼差しが向けられる。注意していたつもりだったが、どうやら母の不興を買ってしまったらしい。「女じゃないよ。男の、ただの友達」と弁解するが、母は「嘘つかないでよ」と聞く耳を持たない。


「あの人の子だもんねえ? どうせ、あたしみたいな馬鹿な女引っかけたんだろ」


 手近な化粧水のボトルを掴むと、母はそれを俺に向かって投げつける。大した痛みはない。が、当たった瞬間にフタが外れ、中身が床にぶちまけられると、部屋はたちまち人工的な甘い匂いに満たされた。母はそれにさらに機嫌を損ねる。「お前のせいで!」と叫びながら、手元の鏡や足元のプラスチックの椅子まで放り投げると、肩を大きく上下するほどに呼吸を荒げた。


「本当にろくでもない子だね。もう二度とその顔見せんな! 出てけ! 死ね!」


 目を血走らせながら、母はいつもの癇癪を起こす。俺はそれに反抗するでもなく「……ごめんね」と謝ると、そのまま家を出た。こういう時は、ただ沈静化を待つのが一番手っ取り早いからだ。それにあと一時間もすれば、母は仕事で家を空ける。その時に戻ればいい話だった。

 ふと、最後に見た母の姿が脳裏に浮かぶ。母はあのクッキー缶を、大事そうに胸に抱きしめていた。そういえば味の感想を聞いていなかったな、と思う。あれだけの量を食べきれるのか、という心配もある。……どちらにせよ、もう俺には関係のないことだが。


(アジトにでも行くか……)


 気の向くまま歩き出す。向かう先は、自身がリーダーを務める不良グループ「パサイ・ウェストサイド」の根城。そこだけは、俺が自由に、自分らしくいられる場所だった。

 路地を出て、まだ夕暮れ時には明るい道を進む。下校の時間だからか、辺りには親に手を引かれる子どもの姿が見えた。フィリピンでは親が学校の送り迎えを担うのが一般的だが、あいにく俺にその経験はない。行きも帰りも基本は一人で、それゆえにいつも静か。寂しいと思ったことはなかった。誰とも言葉を交わさなくていい時間は、時々俺自身を守ってくれるからだ。


(父さんが家を出ていった日も、そうだったな)


 昔のことを思い出す。思い出したくもないのに、勝手に頭の中に浮かんでくる。……あの日、母は泣きながら俺に当たり散らかし、そして俺は何も言わずに押し黙っていた。地響きみたいな怒鳴り声と落雷のような泣き声が混ざり、何を言っているのかほとんどわからなかったのもある。けれど一番は、母が俺を透明化し、反応の一切を求めなかったことが大きいだろう。一方的に当たられる中で、ただひたすらに口を閉ざして終わりを待つ──その場を凌ぐ。無力なガキでしかなかった俺は、その時初めて世渡りというものを学んだのだ。

 母のことは愛していた。しばしば逆上して感情に流されることはあれど、最低限の衣食住は保障してくれたし、何より学費だけは欠かさず払ってくれていたからだ。それがどれだけ無理をしてのことか、日頃その姿を見ていれば嫌でもわかる。決して悪い人ではないのだ。ただ、父に捨てられて他人を信じられなくなってしまった、可哀想な人というだけ。


(まあ、捨てられたのは、俺もそうだけど)


 実のところ、父については顔も含め、ほとんど覚えていなかった。写真も残っておらず、俺との繋がりといったら、もはや意味のない籍と、それに付随する名字、あとはこの体に半分流れる日本人の血くらいだ。母は父を「頭の良い駐在員さんでね」と和やかに語る時と、「結局あたしから全部奪って消えやがった」と憎しみを込めて語る時とがあって、どれが本当なのかはいまだによくわからない。


 ──……あなたはあの人に似てる。


 母はよくそう言った。そのたびに胸が締め付けられるような苦しさがあった。似ていると言われても、俺はその顔すら知らないからだ。憎みたいのに、憎む相手はその輪郭すら危うい。怒りの行き場がなくて、ただ空振っては虚しいだけ。だから父に対しては、特に好きも嫌いもなかった。どんな感情も、その人は持たせてくれなかった。

 家にも、学校にも、俺のいる場所はなかった。どこにいても、誰といても、自分が何者なのかよくわからなかった。……が、そんな中でも、アジトだけは別で。居場所がないやつらのために結成した「パサイ・ウェストサイド」は、皮肉にも俺という存在の一番の在り処でもあった。

 駅前を通り過ぎ、街の場末へ外れる。人通りが減っていく中、入り組んだ薄暗い路地をしばらく進んでいくと、俺はある家屋の前で足を止めた。

 錆び付いた金属板と合板、腐った廃材。あり合わせの材料で建てられたその建物は、一見するとただの廃屋にしか見えない。だが、そんな場所こそが、俺たち「パサイ・ウェストサイド」のアジトだった。


「誰かいるか?」


 声をかけながら中に入ると、たった一つの白熱灯が降りる室内の奥で、ノートと旧世代のスマートフォンを見つめている影が見えた。「よお、ルカ」と顔を上げたそいつは、ジョン・ロペス・フェラーという男。「パサイ・ウェストサイド」における副リーダーであり、俺と共にこのグループを旗揚げしたやつだった。


「何してんだよ。今日は特に何もなかったろ」

「ああ。でも、なんか暇でな。情報整理してた。昨日の件で、北部の連中が動き始めてるし」


 ジョンはそう言って、スマートフォンの画面を俺に向ける。小さなスクリーンの中にはニュースでもSNSでもない、路地の噂や、仲間からの報告を要約したものが表示されていた。わかりやすい構成の内容に、俺はつい舌を巻かざるを得ない。そいつはガキのこの頃から頭が切れ、行動力に優れていたが、こういったデータのマッピングには特にその人間性が表われていた。

 画面内の情報をスキミングしつつ、俺が「またかよ。こいつら、懲りねえな」と毒を吐けば、ジョンは嫌気が差したようにため息を吐く。何でも、悪事に懲りないどころか、今度は麻薬にまで手を出し始めたらしい。俺は苦々しく眉をひそめた。

 クスリに手を出す──それはこの少年ギャングの世界では、まさしく「終わり」を意味した。むろん警察も腰を入れて動くし、大人のギャングや近隣の他勢力も黙っていない。何より組織が、仲間が壊れていく。


「マズいな。こっちに飛び火しなきゃいいが」

「だから警告しておくよ、ルカ。あんたが指揮しないと、下の連中が焦るから」


 真っ直ぐ見つめるその目は、俺の内面を見透かすかのよう。ジョンとは幼少からの付き合いで、俺の育ちや考え方はとうに把握されている。だからその忠告がただの注意ではなく、俺の性格を考慮してのものであることは明らかだった。


「……まずは北部の連中の動きを押さえる。こっちも対策練るぞ」

「わかった。……あ、ちなみにだけど、良い知らせも聞いておくか?」


 アジトの薄暗い中、壁にもたれかかる俺に対し、ジョンはノートを閉じながらしたり顔を覗かせる。


「こっちで保護してたあの子、覚えてるか」

「ああ。盗みに手ぇ出そうとしてたやつな」

「そう。その子、ついに仕事見つけたってよ。自動車清掃だと。『怖いことしなくていいんだ』って、泣きながら連絡してきた」

「……そうか」


 胸の奥が、少しだけ温かくなる。……「パサイ・ウェストサイド」はただの不良グループではない。底辺層のガキが、家にも学校にも居場所がなくて、最後に流れ着く場所だ。俺たちは他グループの衝突の仲介役をして金を稼ぎ、その金でメンバーの生活を支えている。

 誰も見てくれないなら、俺たちが互いを見てやるしかない──理論だけではどうにもならない世界で、その気持ち一つでできたのがこの組織だった。


「あんたのやり方は間違ってねえよ。ルカ」


 ジョンはそう言って、俺の肩を軽く叩く。「……どうだかな」と視線を逸らすのは、やはり俺が卑屈なせいだろうか。

 褒められるのは苦手だった。善意を働いている、という意識がないからかもしれない。それに俺自身が一番わかっているのだ。自分は特別優しいわけではない。ただ、困り苦しむ誰かを見捨てることが怖いだけなのだ、と。つまりはある種の自己満足にすぎない。父親に捨てられ、母親に当たり散らされ、居場所がなくて──その時に感じたあの失望を、もう誰にも味わってほしくないだけだった。


(仮に間違っててもかまわねえよ。意味があるなら、それで)


 この場所が、空っぽだった俺に意味を与えてくれたように。今度は俺が、この場所にさらなる価値を生み出していく番だった。


「……で、今日はどうする?」


 ジョンの問いに、俺は少し考えてから答える。「了解。手伝うよ、リーダー」と頼もしい返事が聞こえれば、その日のアジトは夜遅くまで電球が光っていた。


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