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プロローグ


 新学期初日。今朝の彼は、外部からの転入生よりも、手元の本に興味を奪われているらしかった。


「友達になってくれない?」


 がやがやと生徒たちによる喧噪がひしめく中、ともすれば今にも茹だってしまいそうな暑さに辟易しつつ、僕は前方の席のやつに声をかける。しかし聞こえなかったのか、返答はなかった。だから僕はもう一度声をかけることにする。今度は少し大きめな声で、はっきりと。


「ねえ、友達になってくれない?」


 ひと癖ふた癖はらんだ髪が揺れ、目の前で頭がそっと持ち上がる。紙面からこちらへ、彼の意識がゆっくりと移れば、僕はその姿を視界に収めた。

 涼やかな目元、肉付きの良い肩、季節外れの長袖のシャツ──背後に見える窓の、そのさらにむこうの海の青色を、ひどく印象的に感じつつ。


「……誰」

「僕? だから、転入生。今日からここの生徒」


 自身の立場を明かしつつ、「それにしても暑いね」と、僕はシャツの胸元を掴んでパタパタと風を扇ぐ。八月終わりの高温多湿な気候と、鼻先をくすぐる甘くも刺激的な香草の匂いは、この地が南国であることを肌で感じさせる。が、それにしたって今日はひどく蒸し暑かった。潮の生臭さに染まった風でカーテンが揺らぎ、教室内に設置された数台の扇風機が空気を一掃しようと、それは変わらない。そして変わらないのは、依然として僕に興味のなさそうな彼もまた然りで。


「で、友達にはなってくれるの?」

「嫌だ」

「なんで? だめかな?」

「お前と友達にならなきゃいけない理由がない」

「卑屈だな。陰キャってやつ?」

「殺すぞ」

「うわ、口悪。どっちかって言うとヤンキーだったか」

「うるさ……」


 そう言うと、彼は再び冊子に目を戻してしまう。興味半分に僕もその本の表紙を覗くが、残念ながらタイトルは読めなかった。専門書なのだろうか。英語のようだが、知らない綴りの単語がある。僕は早々に理解を諦めると、再び彼に声をかけることにした。「やっぱり、友達になってよ」、と。すると彼は鬱陶しそうに答えた。先と同じように「嫌だ」、と。だから僕も同じように応じることにする。


「なんで? だめかな?」

「……しつけーんだけど、お前」

「えー、でもさ。この中じゃ、一番仲良くなれそうだったんだもん」


 だって僕たち、同じ日本人じゃん。

 理由はそれだけ、されど明瞭。僕が口にした理由に、彼はわずかに動きを止める。もしかすれば、それは彼の中で納得できる内容だったのかもしれなかった。

 この学校──フィリピン・マニラの高等学校(ハイスクール)で、同じ国をルーツにする者同士。共通点をきっかけに仲良くなることは、わりとよくある話だった。

 はあとため息を吐いては、彼はどこかあきれた目つきをこちらへ寄越す。僕はそれを笑って受け止めると、その手をそっと差し伸べてみせた。


仁科(にしな)くんって言うんだろ。仁科ルカくん。僕は吾妻(あづま)真琴(まこと)。よろしく!」


 握手を求める僕に、仁科くんはあからさまに眉をひそめる。が、それでもめげることなく、さらにずいっと手を差し出せば、彼は嫌々それに応じてくれた。その顔にくっきりと、「面倒くせえやつ」と書きながら。


「……『仁科』でいい。くん付けはキモい」

「うん、わかった。僕のことは自由に呼んでくれて良いからね」

「じゃあ、『お前』」

「本当に卑屈だな! ところでそれ、何の本読んでるの?」

「なんでもいいだろ。お前には関係ない」

「関係なくはないだろ。君とはもう友達なのに」

「うるせえ、黙れ。読むのが進まねえ」


 散々言い合っていれば、ふと教室内の生徒の視線がこちらに集まっているのに気づく。日本語でやり取りしていたからだろうか。どこか冷ややかで、こそこそ内緒話しているような姿も見えれば、その場は少しだけ居心地が悪かった。と、そんな空気を蹴散らすように、仁科が「チッ」と盛大に舌打ちをすれば、彼らは慌ただしく視線を背ける。まるで脅すような彼の態度の悪さには、僕も思わず「えぇ……」と尻込みするくらいで。


「に、仁科……君、いつもそんな感じなの?」

「…………」


 こちらの問いには無視を決め込み、さっさと本の世界へ戻ってしまう彼に、今度は僕がため息を吐く。

 転入初日、最大の課題だった「友達を作る」ことは成功したものの、その友達が不良(これ)で良かったのかは微妙なところだった。性格はひん曲がっているうえに、言葉遣いは悪いわ、舌打ちはするわで、きっとこのクラスの中では浮いていることだろう。図太いのか、本人があまり気にしていないのは救いだが。


(見た目はなんか……普通に、イケメンなんだけどなぁ)


 通常なら、まず間違いなく異性に持て囃されているだろう、端整な顔立ち。にもかかわらず、こうして一人で静かに読書に没頭していられるあたり、彼の交友関係の乏しさ、そして付き合いの悪さは相当なものだと見ていいだろう。この先上手くやっていけるのか不安でしかない。が、せっかくの日本人のよしみ、せっかくの初めての友達なのだ。どうせなら仲良くしたいのが本音。


(よし……まかせとけ、仁科)


 僕は君を、絶対にぼっちになんかさせない!

 ふんすと鼻息荒く拳を握れば、それに気づいた彼の白眼視がこちらを向く。「……暑苦しい」と理不尽な文句を言われたものの、それはこの気候のせいなのではないだろうか、と思ったり、思わなかったり。長袖がダメなんじゃない? と、わりと本気で思ったり、思わなかったり。

 結局、仁科がこの休み時間の間に読み進められたのはわずか数ページで、そして彼が何を読んでいるのか、僕にはまったくわからなかった。

 高校二年、十七歳。夏──僕と仁科との邂逅は、だいたいそんな感じだった。


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