序章 囚われの青
夜の街はやけに明るく、ネオンが目に刺さった。
看板の光がアスファルトに滲んで、濡れてもいない路面をぬるく光らせている。
ギラついた欲望が渦巻く都市の中にいるはずなのに、何故か人の声も、車の音も、全部が遠かった。
膜を一枚挟んだ向こう側みたいに、ぼやけて聞こえてしまう。
昔は好きでも嫌いでもなかった場所、だがきっと今日が過ぎれば、2度と訪れたくない場所に変わるだろう。
ジャケットの襟元を指でいじると、汗ばんでいた。
春先の夜なのに妙に蒸し暑く、湿ったシャツが体にぴったり貼りついて気持ち悪い。
ただ歩いているだけなのに心臓が妙にうるさく、緊張で自分が自分でいられない。
―――菜花ヶ丘高校○×年度卒業生の同窓会案内状。
ハガキが届く度に希望を抱き、そして裏切られ、胃の奥が軋んだ。
同窓会は5年毎に開催されており、今回は卒業してから3回目の15年後。
つまり俺、瀬戸渉は32歳だ。
当時の親友や知人の近況が知れるのは嬉しく、行きたくないわけでも、逃げたいわけでもなかった。
ただ―――
「……あいつに会えたとして、今さら何を話すんだよ」
喉の奥で声が潰れた。
自販機の横を通り過ぎても、喉を潤そうと立ち止まる気にはなれなかった。
視界の端には制服姿の高校生の男女が映る。
笑いながらスマホを見せ合って今日は何があった、友達と馬鹿をして面白かったなどと他愛のない会話に花を咲かせており、それが眩しく思えた。
(……え)
少女に想い人の面影を見て、一瞬だけ胸の奥がざわつく。
まさか碧なのか?
いや、そんなはずはない。
だがしかし高校卒業後に出産したのなら、彼女の子供の可能性も……
思わずそちらへ顔を向けると、学生の姿はなかった。
夜に学生が制服でほっつき歩くわけもなく、それは青に囚われた俺の心が映す幻だったのだろう。
―――ああ、そうだ。
俺はあの時間を終わらせていない、透き通るような青い牢獄に捕らわれたままなんだ。
俺は幼稚園から幼馴染の氷室碧とは小学校も、中学も、高校も、隣にいるのが当たり前だった。
同じ道を歩いてきて、何も言わなくても心が通じる距離で、けれど胸に秘めていた想いは通じず……
だから関係性を変えようと思っていた。
卒業式の後、離れ離れになっても縁を結ぶため、告白しようと決めていた。
ただの幼馴染で終わるのが嫌で、でもそれを壊すのも怖くて、あのときの自分はどっちつかずのまま碧との関係の進展を先延ばしにしていた。
でも結局は優柔不断にしたまま時間だけが過ぎていき……最悪の事件が起きた。
15年前の高校3年生の冬にて
肌を突き刺すほどに冷え込んだ2月の冬。
俺たち高校3年生はきたるべく卒業の準備のため、卒業式の練習で登校した日。
体育館の床の冷たさや乾いた拍手の音、名前も知らない生徒が泣いていた姿など、卒業式の練習の記憶はどうでもいいことばかり鮮明に蘇る。
きっと俺は忘れたいのだ。
何故あの日に限って俺は……
校舎裏に回ったのは、本当に偶然だった。
そこから奇妙な音が聞こえたからだ。
鈍い打撃音、短く押し殺した呻き声、靴底がアスファルトを擦るざらついた音。
胸の奥で想像を膨らませると、足が勝手にそっちへ向かっていた
覗いた瞬間に鼓膜に届いたのは、制服を着崩す見慣れない不良の下卑た笑い。
ああ、これ、まずいやつだ。
そう感じながらもこっそり覗くと、関わりも特になかったクラスメイト鈴木秀夫が囲まれ、倒れながら咳きこむのが視界に焼きついた。
血を吐きながら震える姿を見下ろす不良は秀夫が普段かけていた眼鏡が奪うと、地面に落とし、躊躇いなく踏みつける。
関わるな、でも見て見ぬふりをするのか、多勢に無勢で俺に何ができるっていうんだ。
思考がまとまらず、何をすべきかが咄嗟に思い浮かばない。
ただそれを傍観する掌に爪が食い込んだ痛みは、今でもハッキリと覚えていた。
気がつくと
「おい、おまえら。よってたかって、みっともねぇな」
自分でも驚くくらい声が震えていた。
喉が乾いて上手く空気が通らず、言葉になっていたかも定かでない。
しかしその一言で秀夫に集中していた視線は、俺に向けられた。
新たな獲物がきたと言わんばかりに、ニタニタと醜悪な貌で不良たちが進み寄ると、拳が振り下ろされる。
その後の出来事は断片的にしか覚えていない。
殴られるた際の骨に響く衝撃と激痛の電気信号、口の中に広がる鉄の味。
地面に叩きつけられ、肺から空気が抜ける感覚。
倒れた時のひんやりとしたアスファルトは何故か心地よく、次に目を覚ますと次に目に入った光景は白の天井。
消毒液の匂いが鼻の奥に刺さり、右腕にはギプスが巻かれている。
体を動かすと痺れが走って思わず顔を歪むと、視界に入ったのは家族や親友、知人の心配そうな表情。
「よう、ヒーロー様のお目覚めかい」
茶髪の少年が満面の頬笑みを浮かべ、あっけらかんと言ってのけた。
こいつはスポーツバカの悪友・田村友樹。
心配しているのか、していないのか……だがその能天気さが、俺を現実に引き戻してくれた。
「ご、ご、ごめんなさい、瀬戸くん。僕なんかを庇ったせいで」
「……ありがとうはないのかよ、いててっ」
「うん、ありがとう。助けてくれて……」
包帯を巻いた秀夫は平身低頭し、謝罪と感謝を続けていた。
「渉くん、本当に無事で良かった……」
垂れ目が特徴の髪を結った栗毛の少女は土屋桂子、ケーちゃんで親しまれるバスケ部の女子マネだ。
瞳を潤ませた彼女だったが、すぐに態度を切り替えて
「お母様、タオルを持ってきますね」
と細やかな気配りで俺を支えてくれた。
いつもは軽口ばかりの部活仲間は神妙な面持ちでこちらを見つめ、普段はあまり言葉を交わさない親父も口煩いお袋も、声帯を失ったかのごとく静まり返っている。
皆が俺を気にかけてくれたが、一向に碧は現れなかった。
肉が裂け、骨が折れるかのように胸が痛む。
幼少期から一緒の彼女は俺の半身……いや、血肉そのものといってもいい。
それから時が経ち、誰かが見舞いに訪れるたびに俺は苛立っていた。
「……なんであいつはこないんだよ」
誰に聞かせるわけでもなく、頭の中で何度も繰り返す。
答えは出ない、出るわけがなかった。
結局、怪我の治癒は間に合わず卒業式には出られぬまま証書だけ渡されて、高校生活は幕を閉じた。
碧が別の県の大学へ行ったと聞いたのは後になってから―――碧とはそれっきり。
同窓会にも1回も顔を見せてくれず、今では碧がどんな顔だったかさえ朧気だ。
気持ちの整理がつくまでは、秀夫に苛立っていた。
あいつが絡まれていなければ、俺はあの場に行かなかった。
殴られることも、入院することもなかった。
碧へ想いを告げられたかもしれない。
そして定期的に逢瀬を交わし、ゆくゆくは結婚して、今頃は子宝に恵まれていたかもしれないのに。
けど秀夫に八つ当たるのは筋違いだ。
もっと賢い手段があったはずなのに、俺は綺麗に解決できなかった。
何より許せないのは、害悪としか形容できない不良。
顔も名前も思い出せないくせに殴られた感触だけは覚えていて、それを考えるといまだに古傷が傷む。
奥歯に力が入り、並々ならぬ殺意が沸いた。
―――あいつらだけは殺してやりたい、そんな言葉が何度も頭を過った。
でも
「……違うだろ」
声に出すと自分で自分の激情に恐れを抱いた。
カーテンを閉めたままのせいで部屋の空気が重く、湿った匂いがこもっていた。
違う、根本的な原因はそうじゃない。
俺はいつでも告白できた。
碧の自宅は隣で玄関のチャイムを押せば、出迎えてくれた。
話そうと思えば、いくらでも時間はあった。
いや、急速に普及したスマートフォンでボタン1つで顔を合わせなくとも好意を示せた。
なのにしなかった。
……何故なんだ。
考える度に呼吸が浅くなり、落ち着かなかった。
「……怖かったのか?」
それは違う。
いや、違わないのか?
関係が壊れるのが怖かった?
確かにそうだ。
でも、それだけではなかった。
もっと慎重で、悪し様にいえば狡かった。
碧が傍にいる距離、関係に甘えていた。
変わらない日常の中で当たり前のように彼女が隣にいる、そんな特権を手放す覚悟がなかった。
「……最低だよな」
我ながら馬鹿だったと苦笑が漏れた。
恋人になりたいと思いながら、幼馴染のままでいる安心まで求めていた。
だから何も言えず、そして何も言えないまま終わった。
……今頃、碧はどうしてるのだろうか。
別の男と結婚しているのか。
子供はいるのか。
きっと容姿端麗で成績優秀な碧なら、そつなくこなしているのだろう。
想像すると心のダムに塞き止めていた、汚水のような感情が溢れそうだった。
心臓の鼓動が不規則になって目頭が熱くなった。
あれなら大学に進学して公務員を目指す傍ら、帰省したついでに何度か碧の家にも向かった。
インターホンを押す指が震え、自分が自分でないような感覚だった。
出てきた母親は変わらない顔で
「碧からは特に連絡ないのよね。ごめんね、渉くん」
言葉がどこか引っかかる。
本当にないのか、それとも……
「……俺だけ、か」
理由は不明だ、わかるはずもない。
けれど避けられている……そう考えると納得した自分がいた。
すべて俺が悪いのだ。
関係性を変えようとして、変えなかった。
人生を共にしたい女性に選ぼうとして、選ばなかった。
その結果が過去に固執する無様な独り身だ。
足を止めてぼーっと立ち尽くしていると、信号が赤から青に変わった。
俺は考え事をして他は何も見えていないまま、ゆっくりと歩み始めた。
その瞬間、強烈な光が視界に飛び込む。
車のヘッドライトは獣の夜目のように輝き、フロントバンパーは獲物を発見して口を開く姿に見えた。
クラクションが遅れて耳に届くも急に反応はできず、体は硬直した。
ああ、俺の人生終わったな……理解した瞬間に心臓が一度だけ強く跳ねる。
まだやり残したことがあると、自身に告げるように。
「渉くん、起きて。ねえってば」
ふと声がして、意識が光へと導かれた。
肩を軽く揺すられる感覚に衣擦れのノイズと共に伝わったのは湿った湿布のメントール、乾ききっていないビブスの汗臭、制汗スプレーの人工的な香りが混ざり合う、あの臭いだ。
バスケ部のロッカールーム。
練習後の熱気と汗の匂いが充満する部室は、さながらサウナのようになる、。
重い瞼を開けると夕焼けの色が差し込み、窓から入る爽やかな風が汗ばむ肌を撫でた。
目の前には
「もう練習終わってるよ~。渉くん、早く着替えて一緒に帰ろうよ~」
高校時代のケーちゃんが、呆れたように笑っていた。
言葉を失って視線を動かすと、やはりそこは見慣れた部室だ。
使い込まれたロッカーを開くと、次の試合の相手を倒すという意気込みが書かれたメモ。
なんだ、これは……夢なのか?
いや、さっき俺は同窓会に向かう途中で暴走した車に轢かれたはずだ……
思考を巡らすと背中に、冷や汗が一気に噴き出した。
「ちょっと大丈夫なの?」
ケーちゃんの柔らかな白の掌が額に触れると、冷えきった温度がやけに現実的で……俺はすぐに、ただの走馬灯ではないと直感した。
俺は戻ってきたのか?
15年間自分を縛り続けてきた、囚われの青に。
瀬戸渉
中肉中背の地方公務員の男性。
卒業式後に幼馴染・氷室碧に告白をしようと決めていたもののクラスメイトだった鈴木秀夫が、暴行されていたのを見過ごせず身を挺して庇って、そのまま大怪我で入院。
碧は見舞いにもこず、退院した頃には既に別の県の大学へ進学しており、そのまま疎遠となってしまって、告白する機会を完全に失ってしまった。
もし告白が成功すれば彼女が今も横にいたのではないか……と、深い後悔と断ち切れない未練を抱いている。
5年毎に開かれる同窓会に毎回出席するも碧には再会できぬまま悶々とした感情を胸に秘めていたが、菜花ヶ丘高校卒業15年後の32歳のとき同窓会に向かう道中、暴走車両に轢かれて意図せず時間遡行してしまい、もう1度高校生活をやりなおすことに。
学生時代はバスケ部に所属しており、司令塔ポイントガードとして試合に貢献。
さらには役所仕事の職務経験から、周囲の様子を俯瞰する能力に長けている。
打算的ではあるが周りに気を遣える、善良な好青年。
氷室碧
渉とは幼稚園から高校まで一緒の幼馴染で容姿端麗、成績優秀な女生徒。
その美しさと氷のように冷たく、周囲と距離を取る性格から、学校内で高嶺の花として扱われている。
性に目覚めた中学生の頃から渉、碧のどちらも人間関係の変化と気恥ずかしさからか、2人の関わりは少なくなっていった。
土屋桂子/ケーちゃん
高校1年の時に怪我をしてしまい、男子バスケ部マネージャー転向した、渉のクラスメイトの女子生徒。
人好きのする愛嬌の良さと快活な性格、笑顔を絶やさない姿からか同性、異性双方に人気がある。




