最終話 勝利の女神はぐうたらだった
ある普通の一日。
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朝。雲のベッドから出たくない。
「あと5分……」
「ゼロです」
この会話、何百回目だろう。
「はいはい。起きます」
「素直になったわね」
「抵抗しても無駄だと学習しました」
「学習能力はあるのね」
「元AIですから」
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ジャージに着替える。
正装は——特別な日だけでいい。今日は普通の日だ。普通の日にはジャージだ。
分析室。巻物を広げて、そろばんを弾く。
Google欲しい。BigQuery欲しい。せめてExcel。
……まぁええか。そろばんでも回る。
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「今日の業務」
ヘルメスが巻物を運んできた。走ってきたので翼付きサンダルの火花がまだ散っている。
「ギリシャ南部の都市間対抗戦。レスリング三試合、短距離走一レース。——あと、北部で小さい戦争が一個」
「多いな」
「忙しい日だよ! 頑張って!」
「……ありがとう。巻物は全部ある?」
「全部。——あ、イーソスの分も持ってきたよ」
「ありがとう」
隣の机で、イーソスが静かに巻物を受け取った。存在感は相変わらずない。
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「エリス。北部の戦争、敗率データある?」
「……ある。昨夜まとめておいた」
「ありがとう。照合するね」
するめの省エネ分析法とエリスの敗率データを付き合わせる。相変わらず、二人のデータを照合すると精度が上がる。
「……するめ、一つだけ」
「何?」
「……北側の指揮官——メンタルが不安定。三日前に家族と揉めたらしいの……」
「変数4、下方修正。ありがとう」
「……役に立てたなら……よかった……」
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「先輩! 準備できました!」
フォルトゥナが走ってきた。
「リアルタイム観察のチェックリスト、レスリング用と短距離走用と戦争用、三種類作りました!」
「三種類も?」
「はい! あと、今日の運命の流れを見てきたんですが——南部のレスリング、50%に近い試合が一つあります」
「50%……」
「先輩。——運命の分かれ道ですよ」
「……そういうの、もう慣れた」
「慣れちゃダメですよ! 50%は特別です!」
「はいはい」
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分析開始。
レスリング第一試合。6変数分析。予測:A側有利、63%。
結果:A側勝利。的中。
微笑みタイミング:3.1秒前。惜しい。
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レスリング第二試合。50%の試合。
変数が拮抗している。データでは判断できない。
するめはスクリイを見つめた。
二人の選手の目を見る。
「……なんか——こっちかな」
B側。勝率52%。根拠:変数6の異常検知で微かな違和感。選手Aの歩き方が昨日より微妙に硬い。それだけ。
結果:B側勝利。的中。
微笑みタイミング:3.0秒前。ぴったり。
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レスリング第三試合。短距離走。北部の戦争。
全部終えた。
今日の成績:五戦中四勝。一つ外れ。
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「テミス。報告書」
するめが報告書を提出した。テンプレートに沿って、数値と根拠を記入。署名はスタンプ。
テミスが天秤にかけた。
「変数の記載——適正。根拠——明確。署名——……スタンプね」
「スタンプはテミスが認めたものです」
「……そうでしたね。——査定B-」
「B-。——悪くない」
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「今日の総合査定」
アテナが告げた。
「予測精度B。微笑みタイミングB-。微笑みクオリティB-。報告書B+。服装態度——C-」
「C-は服装か」
「ジャージよ」
「知ってます」
「総合——C」
「C。——Cでいい。Cで」
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夕方。バッカスの酒蔵。
「おつかれー」
「おつかれ」
「飲む?」
「飲む。——三杯まで」
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一杯目。
「今日も無事に終わった」
二杯目。
「……先代、もう南の島に行ったかな」
「行ったよ。今朝出発したって言ってた」
「……そう」
三杯目。
「もう一杯」
「四杯目だぞ」
「明日は——」
「明日は業務あるでしょ」
「……まぁええか」
五杯目。
「飲みすぎ」とアテナ。
「アテナ先輩だって五杯飲んでるでしょ」
「私は六杯です」
「そこで張り合わないでください」
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雲のベッドに倒れ込む。
酒が少し回っている。でも二日酔いにはならない。——ギリギリ。たぶん。
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天井を見上げる。
神界の天井は——星が映る。プラネタリウムみたいだ。前世にはこんなものなかった。
「はぁ……めんどくさい」
「布団に帰りたい」——いや。
「……ここの雲のベッドも悪くない」
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目を閉じる。
今日も予測した。微笑んだ。報告書を書いた。酒を飲んだ。
明日も同じことをする。明後日も。来週も。来年も。
……来年も。
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目を閉じる直前に——窓の外——月明かりの中に——
完璧な微笑みが一瞬だけ見えた気がした。
先代ニケの微笑みか。月の光か。気のせいか。
——まぁ、どっちでもいい。
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「……まぁええか」
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勝利の女神は、ぐうたらだった。
半目で、ジャージで、顔色が悪くて。
そろばんを弾いて、巻物を読んで、伝書鳩に手紙をくくりつけて。
Google欲しいと嘆いて、布団に帰りたいとぼやいて、「まぁええか」で乗り切って。
査定はC。歴代最低の勝利の女神。
でも——
仕組みを作った。チームを作った。変数を体系化して、テンプレートを標準化して、誰でも使える分析法を残した。
そして——
ちゃんと、微笑んでいた。
嘘のない微笑みで。
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第30話 完
——完——
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> エピローグ
>
> するめの神界での評価は「歴代最低のC査定の勝利の女神」として記録された。
>
> しかし同時に——「歴代初のチーム分析体制を構築し、省エネ分析法を神界に広め、報告書テンプレートを標準化した勝利の女神」としても記録された。
>
> 後世の女神たちは彼女の仕組みを使い、誰でもB以上の査定を取れるようになった。
>
> ——するめ本人はCのままだったが。
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> するめ語録 #30(最終)
> 「神は死んだ、って言ったのは私です。勝利の女神は売女だった、って歌ったのも私です。——でも今は、こう歌い直す。勝利の女神はぐうたらだった。ぐうたらだったけど——悪くなかった。全然、悪くなかった」




