第3話 神は死んだ、の子
初仕事の朝が来た。
来てしまった。
雲のベッドから出たくない。この世界で唯一の上位互換——雲のベッドの寝心地は本当に素晴らしい。前世のどんな布団より——
「起きなさい」
アテナの声が神殿に響く。
「……あと5分」
「女神にあと5分はありません」
「3分」
「ゼロです。着替えなさい。正装で」
「ジャージじゃダメ?」
「ダメに決まっているでしょう」
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渋々、白いトーガ風ドレスに着替える。月桂冠を被る。
鏡を見たら、見た目だけは女神だった。
眼鏡だけが浮いている。
「……女神に視力矯正って必要?」と聞いたら、アテナに「あなたは必要みたいですね」と返された。ツッコミ不在の神界で唯一ツッコんでくれる人だ。ありがたい。
正装してみてわかったが、トーガは動きにくい。分析中はジャージに着替えよう。絶対に。
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神殿の廊下を歩いていると、すれ違う神々の視線を感じる。
チラチラ見てくる。
ひそひそ話してる。
聞こえてるよ。
「——あれが例の……」
「——あのディス曲の?」
「——あの歌の作者にして、新しい勝利の女神……」
「——ニケ・プリマが聴かせてくれたわよ。すごい歌よね、あれ」
「——『売女』って言ってたわ。勝利の女神のことを」
…………。
先代ニケ。
あの人、本当に聴かせて回ってるんだ。
黒歴史を全世界——いや全神界——に拡散するという、地味にして最凶の復讐。陰湿にもほどがある。
俯きながら廊下を早歩きしていると——
「おぉ」
低く、しかしフランクな声が上から降ってきた。
見上げると、威厳ある老人——のはずだが、意外とカジュアルな雰囲気の神が立っていた。
周囲の神々が一斉に頭を下げる。
「お前が——『神は死んだ』の子か」
ゼウスだった。
神界のCEO、ゼウス。
初対面で、その呼び方。
「……あの、それは、ニーチェが——」
「ワシのことも『ばーか』って言っとったな? 三回も」
「…………」
「*『神の ばーか! ばーか! ばーーーか!』*——覚えとるぞ?」
凍りついた。
査定権限を持つCEOに、初対面で、前世の歌詞を暗唱されている。
これ以上ないほど最悪のスタートだった。
「まぁ——」
ゼウスは顎鬚を撫でた。
「——まぁええか」
「え?」
「今日から実務だろ? 頑張れよ。『神は死んだ』の子」
「その呼び方やめてください!」
ゼウスはからからと笑いながら去っていった。
……あの人、威厳あるのかないのかわからない。
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実務の場に向かう廊下で、さらに二人の神に出会った。
一人目。
「やぁやぁ、新しいニケちゃんだ! 情報、持ってきたよ」
チャラい青年神が、翼付きサンダルでスイッと滑ってきた。
「ヘルメスです。伝令神兼情報屋。今日の対戦データ、ここに」
渡されたのは——巻物。
巻物。
物理の巻物。
「……USBメモリとかないの」
「ゆーえすびー?」
「もういい」
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二人目。
「せ、先輩……!」
小柄で、目がキラキラしている女神が駆け寄ってきた。
「フォルトゥナです! 運命の女神です! 新しい勝利の女神の先輩のこと、ずっとお待ちしてました!」
「……先輩?」
「はい! 勝敗と運命は業務上密接に連携するので、これからたくさんお世話になります!」
「あぁ……部門間連携ね……」
純粋な目で見つめられると、つい目をそらしてしまう。
「先輩、頑張ってください! 私、応援してます!」
「……うん。まぁ……ありがとう」
めんどくさい。でも、悪い子じゃなさそうだ。
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そして——実務の場。
スクリイと呼ばれる池の前に立つ。
池の水面に、人間界の映像が映し出されている。
解像度は——低い。めちゃくちゃ低い。
DVDじゃない。VHSだ。いや、VHS以下だ。
「本日の対戦です」
アテナが淡々と告げる。
「人間界、紀元前某年。ギリシャの都市国家間の戦闘。兵力はA側が500、B側が700。地形は平原。天候は曇り。詳細はヘルメスの巻物を参照してください」
巻物を広げる。
……字が小さい。手書きだし。ヘルメスの字、まぁまぁ読みやすいけど、それでも限界がある。
「これを分析して、勝率を算出し、報告書に記入してください。制限時間は——」
「ちょっと待って。分析って言っても、ツールがないんだけど」
「そろばんと石板をお使いください」
「…………」
私は巻物とそろばんと石板を前に、深く、深く、ため息をついた。
「……はぁ。めんどくさい」
「始めてください」
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結果から言おう。
大外れだった。
A側が勝つと予測した。
兵力差はB側が有利だが、地形と風向き——巻物には風向きのデータもあった——を考慮すると、A側の陣形の方が有利だと判断したのだ。
そろばんを弾いて——そろばんって意外と使いやすい——勝率を算出。
A側:67.3%。
自信を持って報告書に記入し——字が汚すぎてアテナに「読めません」と突き返され——書き直し——それでも「ギリギリ読めます」と言われ——提出した。
そして戦場でA側に微笑んだ。
——B側が勝った。
しかも圧勝。
「…………え」
スクリイの水面に映る戦場を、呆然と見つめた。
B側の指揮官が、直前に作戦を変えていた。
そのデータは巻物になかった。
ヘルメスの情報が——足りなかった。
いや、違う。
情報が足りないことを想定して、不確実性を勝率に織り込むべきだった。
前世の私なら——GoogleもBigQueryもある世界の私なら——そうしていたはずだ。
ツールのない世界で、前世の感覚のまま分析した私がバカだった。
「……予測精度、大幅ダウンです」
アテナの声が、冷たく響いた。
「初回ですので酌量しますが、この調子では査定Cも危うい」
「C……」
「最低でもCは維持してください。Dは始末書です。そして——Eは」
アテナの声が一段低くなった。
「——バッカスの祝福剥奪です」
「バッカス?」
「酒の神です。査定Eに落ちた者は、バッカスの祝福を剥奪されます。つまり——」
「つまり?」
「酒が飲めなくなります」
「…………」
「これは神界最大の罰則とされています」
「…………それは……困る」
「困るでしょう?」
「めちゃくちゃ困る」
「でしたら、精度を上げてください。以上」
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その夜。
雲のベッドに横たわりながら、天井を見つめていた。
初仕事、大失敗。
予測も外した。報告書も汚かった。微笑みのタイミングも——間違った方に微笑んでしまったので、タイミング以前の問題だ。
そして、酒が飲めなくなる恐怖。
……これはまずい。
ぐうたらは許容できる。低評価も、まぁ慣れてる。
でも酒が飲めなくなるのは——それだけは——ダメだ。
はぁ。
布団に帰りたい。いや、雲のベッドは最高だけど。でも帰りたい。
前世の私が脳内で歌い始める。
*微笑むだけの 簡単な お仕事!*
*ほんっと ボロい 商売だな!!*
…………。
「…………うるさいよ、前世の私」
全然簡単じゃなかった。全然ボロい商売じゃなかった。
そして——どこからか、声が聞こえた気がした。
*ばーか*
……誰だ今の。
空耳か? いや、聞こえた。確かに聞こえた。
声質的に——おそらく先代ニケだ。
「……あの人、どこから見てるの……」
私は雲の布団を頭から被った。
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第3話 完
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