第29話 あの歌をもう一度
午後。分析室で巻物を整理していると——
扉が開いた。
「邪魔するわよ、するめ」
先代ニケ・プリマだった。
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「先代。——珍しいですね、こっちに来るの」
「最後だからね」
「最後?」
「もう覗きに来るのも——やめるわ」
「…………」
「だって——娯楽じゃなくなったから」
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「娯楽じゃなくなった?」
「あなたが苦しんでるのを見るのが娯楽だったの。ディス曲歌ってくれた子が苦労する姿——最高の復讐。最高の娯楽」
「…………性格悪いですね」
「ふふ。——でも、もう苦しんでないじゃない」
「いや、めんどくさいとは思ってますよ」
「でも——楽しんでるでしょう」
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するめは——否定できなかった。
「…………楽しんでる、かも」
「かもじゃないでしょ」
「……楽しんでます。たぶん」
「たぶんじゃなくて」
「…………楽しんでます」
先代が——ふふっと笑った。煽りじゃない笑い。
「復讐相手に楽しまれたら——復讐にならないじゃない。だからもう来ない」
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「……先代。南の島、本当に行くんですか」
「行くわよ。もう荷造りも済んだ」
「荷造り……杯だけでしょ」
「杯と——バッカスの酒を三樽。それだけあれば十分」
「酒三樽持って南の島……完全にバカンスですね」
「有給休暇よ」
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「ねぇ、するめ」
先代の声のトーンが変わった。
「——あの歌。もう一度歌ってみなさいよ」
「…………え?」
「歌のあの部分。——『そういう人に 微笑むの』のところ。あそこだけ」
「今ここで?」
「今ここで」
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するめは——戸惑った。
あの歌。前世で仮想通貨に大損して、やけくそで作った曲。勝利の女神をディスりまくった黒歴史。
そして——オリンポス杯の最終種目前夜、先代に指摘されたこと。ギャグのフリだった歌詞が、今は嘘じゃなくなっていること。
「…………」
「歌えないの?」
「歌えます。——ただ」
「ただ?」
「恥ずかしいんです」
「あら。ディス曲歌った時は恥ずかしくなかったの?」
「あれは酔ってたから」
「じゃあバッカスに酒もらう?」
「……いりません」
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するめは——深呼吸した。
あの歌の、あの部分。ギャグから本心に変わった歌詞。
「♪——そして そういう人に♪」
声が小さい。
「♪……勝利の女神は微笑むの♪」
少し、声が震えている。
「♪……頑張った人に微笑むの♪」
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沈黙。
先代は——何も言わなかった。
するめは続けた。
「……って思うでしょ?」
ここが分岐点だった。前世ではこの後、ギャグに転換してディスに入る構造。
でも——
「——本当に、そう思うようになっちゃった」
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先代ニケが——泣いた。
数千年の女神が。完璧な微笑みを持つ女神が。目の前で——泣いている。
「先代——」
「…………ばか」
「え?」
「本気で歌われたら——怒れないじゃない」
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「私はね——あの歌が許せなかった」
先代が頬を拭った。涙は——透明で、美しかった。泣いても美しいのは反則だ。
「『微笑むだけの簡単なお仕事』。『ボロい商売』。『媚び売り女神』。——全部、許せなかった」
「…………」
「数千年。数千年、微笑んできたのよ。楽しい時も、辛い時も、意味がわからない時も。——微笑むだけの簡単なお仕事なんて——簡単だったことは一度もない」
「…………ごめんなさい」
「謝らなくていい。——だって今のあなたは、それを知ってるでしょう」
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「ねぇ、するめ」
「はい」
「あなたは——いい勝利の女神よ」
「…………」
「私よりは雑だけど」
「雑って言わないで。省エネって言って」
先代が——笑った。涙を流しながら。完璧な微笑みじゃない。くしゃくしゃの笑顔。
「……ぷっ。省エネ。——いいわね、それ」
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「あの——最後にひとつだけ聞いていいですか?」
「何?」
「先代の微笑みは——完璧でした。数千年かけて磨き上げた、プロの微笑み」
「ええ」
「私の微笑みは——半目で、ジャージで、顔色悪くて——女神として最低レベル」
「否定しないわ」
「でも——アテナ先輩が言ったんです。私の微笑みには嘘がない、と」
「…………」
「先代の微笑みには——嘘があったんですか」
先代は——長い間、黙っていた。
窓の外を見つめていた。
「——最初の百年は、嘘がなかったわ」
「…………」
「千年経ったら——わからなくなった。本心で微笑んでいるのか、仕事で微笑んでいるのか」
「…………」
「数千年経ったら——もう、どうでもよくなった。完璧に微笑める。でも——それが本心かどうかは、もう自分でもわからない」
「…………先代」
「だから——あなたが羨ましかったの」
先代が振り返った。
「半目で、ジャージで、顔色悪くて——でも嘘がない微笑み。それは——私が数千年前に失くしたもの」
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「じゃあね、するめ」
先代は扉に向かった。
「また——会えますか」
「南の島に遊びに来なさい。有給取って」
「有給——もらえるかな」
「ゼウスに言えばもらえるわよ。『まぁええか』で通るから」
「……便利な上司ですね」
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先代が去った後。
分析室は——静かだった。
隣の机でイーソスが静かに仕事をしている。存在感は相変わらずない。
「…………」
するめは窓の外を見た。
先代の姿はもう見えない。
でも——風に乗って、微かに——完璧な微笑みの残り香がした気がした。
「……ありがとう、先代」
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第29話 完
> するめ語録 #29
> 「先代が泣いた。完璧な微笑みの女神が泣いた。——私のせいで。私の歌のせいで。でも——私の歌で泣いたのに、怒ってなかった。なんだそれ。……ずるい。ずるいってば」




