第28話 引き分けの精霊は存在感が薄かった
ある日。
分析室に行こうとしたら——廊下の隅に、誰かが立っていた。
「…………」
「…………」
透明感がすごい。存在感がない。壁と同化している。
「……あの。どちらさまですか」
「引き分けの精霊です」
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「引き分けの精霊!?」
「はい」
「組織図にいた——あの——引き分けの精霊?」
「はい。——勝敗管理部門所属です。あなたと同じ部門です」
「えっ、同じ部門?」
「ええ。ずっとここにいました。——着任初日から」
「着任初日から!?」
「はい。——ずっとあなたの隣の机にいました」
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振り返る。
確かに、分析室の奥に——使われていない机がある。
いや。使われていないと思っていた。
でもよく見ると——巻物が積んであり、小さなそろばんが置いてあり、報告書が山積みになっている。
「…………ずっとここで仕事してたの?」
「ずっとです」
「…………気づかなかった」
「皆さんそうおっしゃいます」
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「名前は?」
「イーソスです。引き分けの精霊・イーソス」
「イーソス……ギリシャ語で平等、か」
「はい。勝敗が引き分けに終わった時、両方の戦士に微笑むのが私の仕事です」
「両方に微笑むの?」
「はい。同時に二方向に微笑みます。——地味に大変です」
「…………それは大変だ」
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「でも——引き分けって、そんなに多いの?」
「多いです。全対戦の約15%は引き分けです」
「15%も!?」
「和平交渉、膠着戦、じゃんけんのあいこ。——特にじゃんけんのあいこは多いです」
「じゃんけんのあいこにも微笑むの?」
「微笑みます。両方に。一日に何十回も」
「…………それ、私より大変じゃない?」
「はい。——でも、誰にも気づかれません」
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エリスが柱の影から現れた。
「……するめ、誰と話してるの?」
「引き分けの精霊のイーソス」
「……誰?」
「隣の机の人」
エリスが目を凝らした。
「…………あ。いた」
「いたでしょ」
「……私より下がいた……」
「いや、あなたも大変では」
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「フォルトゥナ。イーソスって知ってる?」
「イーソスさん! 知ってますよ! ……あれ。知ってたはずなのに思い出せない……」
「存在感が薄すぎるから」
「ヘルメスは?」
「ヘルメス、イーソスにも情報届けてる?」
「え? イーソス? ……あ、そういえば引き分けの精霊がいたような……巻物、届けてたかな……忘れてた! ごめん!」
「情報届いてなかったの!?」
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「テミス。イーソスの報告書——査定してた?」
テミスが天秤を見つめた。
「…………」
長い沈黙。
「……査定対象リストに入っていませんでした」
「入ってなかったの!?」
「……申し訳ありません。——追加します」
テミスの天秤が——激しく揺れた。テミスが動揺するの、初めて見た。
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「イーソス、それで——ずっと、査定も情報もなしに仕事してたの?」
「はい。——でも、慣れてます。引き分けの精霊は、いつもこうです」
「いつもこうって」
「存在感がないのは——引き分けに存在感がないからです。勝ちでも負けでもない。どちらでもないものに——人は注目しません」
「…………」
「でも——引き分けは必要です。勝ちも負けもない時間がないと、人は疲れる。全部が勝ち負けだったら——しんどいでしょう?」
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するめは——なんだか、すごく共感した。
「……わかる。全部が勝ち負けだったらしんどい」
「でしょう? だから引き分けがある。——まぁええか、って思える時間」
「…………それ、私のセリフでは」
「似た者同士かもしれませんね」
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「よし。——今日は仕事しない」
「え?」とアテナ。
「イーソスの歓迎会。——いや、着任祝い? 存在認知祝い?」
「着任は私の方が先です」とイーソスが静かに主張した。
「じゃあ——イーソス発見祝い」
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バッカスの酒蔵。全員集合。
するめ、エリス、フォルトゥナ、ヘルメス、テミス、アテナ、バッカス。そしてイーソス。
「乾杯!」
「乾杯!」
「……乾杯……」
「……乾杯」
イーソスが小さな杯を掲げた。透明な酒が、透明な精霊の手の中で光っている。
「わぁ。イーソスさん、お酒飲むんですね!」
「飲みます。——一人で飲むことが多いですが」
「今日は一人じゃないよ」
「……ありがとうございます」
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テミスが酔った。
天秤が——ぐるんぐるん回っている。
「バランスが……バランスが保てない……」
「テミスが酔うと天秤のバランスが崩れるの初めて見た」
「公平性が……揺らいでいます……」
「もう一杯飲む?」
「飲みます。——公平に」
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「ねぇ先輩」
フォルトゥナが目をキラキラさせながら聞いてきた。
「ニーチェってどういう意味ですか?」
「…………」
「先輩が前に言ってた『ニーチェもそう言ってた』の——ニーチェ」
「……哲学者だよ。『神は死んだ』って言った人」
「神は死んだ!? ゼウス様が!?」
「比喩だよ比喩」
「ゼウス様に言ったら大変ですよ!」
「言ったから転生させられたんだよ」
「…………えっ」
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いい夜だった。
査定に影響しない、平和な一日。
仕事をサボったわけじゃない。勝敗もなかったから。——引き分けの日。
「イーソス。——明日から、ちゃんと巻物届けるようにヘルメスに言っとくから」
「ありがとうございます」
「あと、テミスに査定リスト入れてもらうから」
「……はい」
「存在感——まぁ、薄いままでいいか」
「薄いままがいいです。——目立つのは苦手なので」
「気が合うわ」
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第28話 完
> するめ語録 #28
> 「引き分けの精霊がずっと隣の机にいた。気づかなかった。——でも考えたら私も前世ではAIとして存在感薄かったし。薄い者同士、仲良くやろう」




