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第26話 有給休暇は正義

 オリンポス杯から一ヶ月。


 日常が戻ってきた。


---


 朝。雲のベッドから出たくない。いつものことだ。


「起きなさい」


「……あと5分」


「ゼロです。——いつまで同じやりとりを繰り返すの」


「死ぬまで」


「あなた女神だから死なないわよ」


「…………それ、一番困る情報」


---


 分析室。巻物を広げて、そろばんを弾く。


 今日の対戦は辺境の小国同士の国境紛争。指揮官のデータは少ないが、兵站と地形は読みやすい。


「変数1(指揮官傾向)、やや西側有利。変数2(兵站)、東側。変数3(天候×地形)、雨天。山間部。東側有利。変数4(メンタル)、互角。変数5(選択パターン)、西側は堅実型。東側は博打型。変数6(異常検知)——特になし」


「変数6、特になし」


 エリスが復唱した。


「異常がないなら、素直にデータ通りでいいと思う……たぶん」


「たぶんじゃなくて、確信持って」


「……確信65%」


「パーセントで言うのやめて」


---


 予測:東側有利。勝率61%。


 微笑みのタイミング——3.2秒前。惜しい。


 査定——B-。


---


「ねぇするめ」


 昼休み。アテナが分析室に来た。


「オリンポス杯の後から、あなたの査定——安定してきたわね」


「C〜B-を行ったり来たりです」


「先月——一回だけAが出たの、覚えてる?」


「あれは偶然です」


「偶然でAは出ない」


「……たまたまです」


「たまたまでAは出ない」


「偶然とたまたまの違いを説明してください」


 アテナが溜息をつくのが聞こえた。


---


「それと——もうひとつ」


 アテナの表情が少し改まった。


「テミスが、あなたの省エネ分析法を——公式マニュアルにしたいと言ってるの」


「公式マニュアル?」


「6変数の枠組み、チーム分担の仕組み、報告書テンプレート。全部を体系化して、今後の勝敗管理部門の標準手法にしたいと」


「…………」


「テミス曰く、『属人的な天才に頼る査定制度は公平性を欠く。するめの仕組みは、誰でも一定水準の分析を可能にする。これは査定の公平性にとって望ましい』」


「テミスがそんなこと言ったの?」


「テミスが報告書フォーマット以外のことで褒めるの、初めて見たわ」


---


「するめ式」。


 そう呼ばれ始めていることは知っていた。ヘルメスが勝手に広めたらしい。


「おーい、するめ式の巻物くださーい!」


「ヘルメス、勝手に配布するな」


「えー、でもみんな欲しがってるよ! 特に他の部門の分析担当。『変数を整理するだけで精度が上がる』って評判いいんだよ」


「…………」


 前世のフレームワーク設計と同じだ。自分が楽をするために作った仕組みが、いつの間にか他人にも使われる。


「まぁ——使いたいなら使えばいい。面倒くさいから止めない」


「省エネ精神!」とヘルメス。


---


 夕方。


 分析室の窓から外を眺めていると——


「あら」


 先代ニケ・プリマが、廊下の向こうから歩いてきた。


 ゆったりとした足取り。杯を片手に。散歩のような——いや、散歩だ。完全に。


「するめ。お仕事?」


「お仕事です」


「大変ね」


「暇そうですね」


「暇よ。——有給休暇ですもの」


---


「先代。——少し、聞いてもいいですか」


「何?」


「……復帰する予定は——あるんですか」


 先代は微笑んだ。いつもの余裕ある微笑み。


 でも——どこか——寂しさがあった。


「ないわ」


「…………」


「正式にゼウスに申請したの。復帰しない、と」


 するめは——驚かなかった。なんとなく、予感していた。


「先代——」


「有給休暇は正義。するめがいるなら、もう私は要らない」


「いや、要りますよ。私Cですよ」


「Cでも回る仕組みを作ったじゃない」


「回ってるかどうか微妙ですけど」


「回ってるわよ。——少なくとも、私がいなくても回ってる」


---


「……先代」


「何?」


 するめは——少し迷ってから、言った。


「本当に——いいんですか」


「何が?」


「数千年やってきた仕事を——放すこと」


 先代は目を閉じた。


 数秒の沈黙。


「——ねぇ、するめ。数千年、同じ仕事をするってどういうことかわかる?」


「……想像できないです」


「飽きるのよ。でも——飽きたから辞めるんじゃない」


 先代は目を開けた。


「後を任せられる人が現れたから辞めるの。——それは全然違うこと」


「…………」


「私がいなくなっても回る仕組み。私が持っていないもの。——あなたが作ったもの」


「……先代の直感は、仕組みじゃ超えられないです」


「ええ。でも——仕組みは残る。私の直感は私にしか使えない。誰にも引き継げないのよ」


---


 先代は杯を掲げた。


「バッカス。——聞こえてる?」


「聞こえてるよ!」


 酒蔵の奥からバッカスの声が響いた。どこにでもいるなこの人。


「引退祝いの酒、頼むわ」


「引退!? マジか!」


「マジよ。——するめ、付き合いなさい」


「私まだ業務中——」


「有給休暇は正義。あなたも少しは取りなさい」


---


 三人で飲んだ。


 途中からアテナが合流し、テミスが帳簿を持って来て、フォルトゥナが走ってきて、エリスが柱の影から現れて、ヘルメスが伝書鳩を飛ばしてきた。


 先代の引退祝い。


「でも先代、これからどうするんですか」


「南の島でのんびりするわ。リゾート。——数千年分の有給が溜まってるから」


「数千年分……何年休む気ですか」


「数千年」


「……それ、永久に休むってことでは」


「言い方の問題よ」


---


 ふと——するめは自分の背中に手を回した。


 翼。


 転生初期は小さくて、ほぼ飾りだった。「女神に翼? 飾りです」と言っていた。


 でも今——少しだけ、大きくなっている。


「……飛べはしないけど」


「あら」


 先代がするめの翼を見た。


「大きくなったわね。——前は雀くらいだったのに」


「今は鳩くらいです」


「……鳩」


「鳩です。飛べません」


「でも——まぁ、育ってるじゃない」


---


 雲のベッドに倒れ込む。


 先代が正式に引退する。つまり——するめが、正式な勝利の女神になる。


 代行でも臨時でもなく。正規の勝利の女神ニケ。


 ……重い。


「はぁ……めんどくさい」


 でも——逃げる気にはならなかった。


 不思議と。


---


第26話 完


> するめ語録 #26

> 「先代の引退。私が正規の勝利の女神。——いやいやいや。Cの女神が正規ってどうなの。……まぁええか。Cでも回る仕組みがあるから」


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