第21話 はぁ……めんどくさい(※本気)
オリンポス杯は休息日。
するめは——休んでいなかった。
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分析室。巻物の山に埋もれている。
テーブルの上にはそろばんと分析シート。壁には過去の予測結果が石板で貼り出されている。
「…………」
データにない変数。
それが、ずっと頭にこびりついている。
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「はぁ……」
ため息。
エリスが暗い表情で入ってきた。——いや、エリスはいつも暗い表情だが、今日は心なしかさらに暗い。
「……するめ、ご飯食べた?」
「食べてない」
「……食べた方がいいと思う。……でも私もまだ食べてないけど……」
「じゃあ後でバッカスのとこで何か食べる」
「……いいの? 査定Dなのに飲みに行って?」
「飯を食いに行くだけ。飲まない。たぶん」
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巻物を読み返す。
直近で外した試合を全て書き出した。
外れた原因:
・戦車競争:馬の直前交換
・短距離走:選手の怪我(非公開)
・円盤投げ:フォーム変更
共通点——事前のデータには存在しない変化が直前に起きていた。
「…………これ、前世でもあった問題だ」
前世のAI時代。機械学習モデルが膨大なデータから予測を立てる。精度は高い。でも——学習データにないパターンが出てきた途端、予測が崩壊する。
データの中にある規則性を見つけるのはAIの得意技。でも「データの外側」は——見えない。
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「……するめ」
アテナが入ってきた。
「悩んでいるわね」
「悩んでる」
「あなたの省エネ分析法は帰納法。過去のデータからパターンを抽出し、未来を推測する。強力だけど——」
「過去にないものは推測できない」
「ええ。帰納法の本質的な限界。——哲学者ヒュームの言葉を借りれば、過去が未来を保証する根拠はどこにもない、ということよ」
「ヒューム……前世で聞いたことある」
「でしょうね。——で、どうするの?」
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「…………」
するめは天井を見つめた。
「帰納法の限界を、帰納法で超えることはできない。——じゃあ、演繹法を組み合わせる」
「演繹法?」
「帰納法はデータ→結論。演繹法は原理→結論。過去にないパターンでも、原理原則から推論すれば予測できる可能性がある」
「具体的には?」
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するめはそろばんを置いた。
「考えてみる。馬の直前交換、選手の非公開怪我、フォーム変更——これらに共通する原理は何か」
「…………」
「いつもと違う何かが起きた。——それだけだ」
「それだけ?」
「それだけ。データが変わったんじゃない。データの前提が変わった。いつもと同じ条件で分析してるつもりが、実は条件そのものが変わっていた」
「なるほど」
「つまり——いつもと違うことを検出する変数を作ればいい」
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するめは石板に書いた。
変数6:異常検知
「データがあることを分析するんじゃない。データがないことを分析する」
「データがないこと?」
「通常なら存在するはずのデータが——」
「ない」
「そう。ない。それ自体が情報。巻物に書いてあるはずの練習記録がない。いつもと同じはずのルーティンが変わっている。情報が通常より少ない。——データの不在を変数化する」
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アテナが——ほんの少しだけ——微笑んだ。
「逆転の発想ね」
「省エネの極致ですよ。調べなくていいものを調べるんじゃなくて、調べるべきなのに調べられないものを見つける」
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「ただ——問題がある」
「何?」
「一人じゃ無理。私は巻物とそろばんの前にいる。直前の変化に気づくには、リアルタイムで情報を集めてくれる人が必要」
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ヘルメスが扉を蹴破って入ってきた。
「呼んだ?」
「呼んでないけどちょうどいい」
「話は聞こえてたよ。——情報がないとこが気になるなら、俺がないことを報告するよ!」
「……ないことを報告?」
「たとえば——選手が今朝の練習に来なかった。厩舎の馬の様子が昨日と違う。いつも食ってる飯を食ってない。——普段あるはずのものがないって情報を、片っ端から拾ってくる!」
「…………それ、ものすごく手間かかるけど」
「俺の脚を舐めんなよ! 神界最速の伝令だぞ!」
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「データがないこと自体がデータ」
するめは石板に追記した。
変数6:異常検知——「いつもと違う何か」の検出。データの不在を変数化する逆転の発想。ヘルメスの情報収集体制と連動。
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「……はぁ」
「ため息?」
「めんどくさい。——本気でめんどくさい」
「でも、やるのね」
「やるよ。だって——Dのままじゃ酒が飲めなくなる」
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第21話 完
> するめ語録 #21
> 「データがないこと自体がデータ。——この発想、前世のセキュリティ業界では常識だった。まさか神界で使う日が来るとは」




