第19話 先代の微笑み
オリンポス杯六日目。
種目:一騎打ち(総合戦闘)。
この日は——特別だった。
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「今日の種目では、先代ニケが目の前で予測業務をするわ」
アテナが言った。
「目の前で?」
「普段は別室で作業しているけど、今日の一騎打ちは大会最大の注目試合。全女神が同じスクリイの前で、同時に予測を提出する形式よ」
「…………つまり、先代の仕事ぶりを——隣で見られる?」
「ええ。——心して臨みなさい」
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闘技場の予測室。
するめ、アフロディーテ、アルテミス、ニケ・プリマ。四人の女神が並んで座った。
するめの前には——巻物の山、分析シート、そろばん。
アフロディーテの前には——手鏡。
アルテミスの前には——何もない。
先代ニケの前にも——何もなかった。
「…………先代、道具は?」
「要らないわ」
「巻物は?」
「読まないわ」
「スクリイは?」
先代は微笑んだ。
「——見る必要がないの」
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第一試合。
闘技場に二人の戦士が出る。
するめは巻物を急いで開き、変数を確認し、そろばんを弾いた。
アフロディーテはスクリイを一瞥して「右の子」と言った。
アルテミスはスクリイで選手の構えを見て「左」と告げた。
先代ニケは——
何もしなかった。
巻物も開かない。スクリイも見ない。ただ——目を閉じていた。
そして試合が始まる直前に——目を開けた。
「右」
一文字。
根拠なし。説明なし。
するめの分析はまだ途中だった。
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結果:右の戦士が勝った。
先代ニケ、的中。
微笑みのタイミング——ぴったり3.0秒前。
微笑みのクオリティ——完璧。
満月のような微笑み。温かくて、美しくて、勝者が「勝ってよかった」とその場で泣き出すほどの——
完璧な微笑み。
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「…………」
圧倒された。
第二試合。先代ニケは同じことをした。目を閉じて、開いて、一言。的中。完璧な微笑み。
第三試合も。第四試合も。
全試合、的中。全試合、完璧な微笑み。
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「先代。——何を見てるんですか」
四試合目が終わった後、するめは思い切って聞いた。
先代ニケは——にっこりと微笑んだ。煽りの微笑みではなく、穏やかな微笑みだった。
「勝利を見てるの」
「勝利を見てる……?」
「勝敗が決する前に——勝利の流れが見えるの。データとか、動きとか、そういうものじゃなくて——もっと根源的なもの。勝つべき人に勝利が流れ込む瞬間が、見えるの」
「…………」
「数千年、ずっとこの仕事をしてきたから。人間の勝負を何千万回と見てきたから。——パターンを超えたところに、勝利の本質がある。それが見えるようになった」
データでもない。リアルタイムの動きでもない。
数千年の経験が生み出した——直感の極致。
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「でも——それって、先代にしかできないんですよね」
「ええ。たぶん、私にしかできない」
「…………」
「あなたの省エネ分析法は——面白いけど、これには届かない。そういうの、わかるでしょう?」
「…………はい」
わかる。
仕組みで追いつけない領域がある。天才が到達する場所に、仕組みでは届かない。
「——でもね、するめ」
先代は杯を傾けた。バッカスから差し入れられた酒だ。予測室で酒を飲む先代もどうかと思うが、S査定に影響しないのだから文句は言えない。
「私は一人よ。私が引退したら——この分析は誰にも引き継げない」
「…………」
「あなたの仕組みは——残るでしょう?」
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予測室を出て、廊下を歩いていると。
エリスが柱の影から現れた。
「……するめ、落ち込んでる?」
「落ち込んでる」
「……だよね。あの微笑み見たら、落ち込むよね……。私も数百年前に見て、一ヶ月くらい仕事に手がつかなかった……」
「一ヶ月……」
「……でも、ひとつだけ」
エリスは俯いたまま、小さな声で言った。
「先代が現場を離れたら、あの属人的な分析は誰にも引き継げない。——あなたの仕組みは、残る」
「…………先代と同じこと言うね」
「え? 先代も言ってたの?」
「言ってた」
「……じゃあ、私が言ったのは二番目ね……。またオリジナリティがない……」
「いや、二人に言われたら説得力が増すから。ありがとう」
「……うん」
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雲のベッドに倒れ込む。
今日の査定、するめはC。先代はS。
差は——圧倒的だ。
でも。
先代は一人で完璧にこなす。するめはチームで回す。
先代の方法は属人的。するめの方法は仕組み。
天才か、仕組みか。
その答えは——まだ出ない。
「……はぁ。めんどくさい」
でも——不思議と——悔しかった。
めんどくさいだけじゃなく、悔しい。
それは——たぶん——成長の証だ。
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第19話 完
> するめ語録 #19
> 「先代は天才。私はぐうたら。——でも、仕組みは天才がいなくても回る。たぶん。……たぶんね」




