第11話 勝利の女神、スポーツのルールを知らない
「本日の対戦は——レスリングです」
「レスリング」
「ギリシャで最も人気のスポーツのひとつです。知っています?」
「……名前は」
アテナが冷たい目で私を見つめた。
「ルールは?」
「…………組み合って、投げて、抑え込む?」
「30点。正解に遠いわ」
「ルール知らなくても分析できるかな……」
「できません」
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これまでの分析対象は戦争や一騎打ちだった。
兵力、地形、天候、心理——使う変数は同じ。
しかしスポーツとなると話が違う。
まずルールが違う。
戦争には厳密なルールがない(あるにはあるが、破られる前提)。
スポーツにはルールがある。ルールが勝敗を左右する。
つまり——ルールを知らないと、分析のしようがない。
「はぁ……めんどくさい」
「気持ちはわかるけど、スポーツ分析は勝利の女神の重要業務よ。特にギリシャはスポーツ大国ですから」
「……そうでした。オリンピック発祥の地でした」
「そう。そして近々——オリンポス杯があります」
「オリンポス杯?」
「年に一度の神界最大のスポーツ大会。人間界の戦士たちが出場し、神々が審査・予測する。あなたも当然——全競技の勝敗予測を担当します」
「全競技!?」
「全競技。レスリング、ボクシング、円盤投げ、やり投げ、短距離走、戦車競争——」
「戦車競争!?」
「——料理対決——」
「料理!?」
「——じゃんけん大会——」
「じゃんけん!!」
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レスリングのルールを覚えるところから始めた。
ヘルメスが「レスリング入門巻物」を持ってきてくれた。
「これ、基本ルールの巻物! あと過去の大会記録が——この棚に五百本くらいある」
「五百本」
「全部読む必要はないと思うよ! たぶん!」
「たぶんで済ませないで」
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レスリングのルール。
——読み始めて30分で寝落ちした。
そろばんが顔に落ちてきて目が覚めた。
「……痛い」
巻物を拾い上げ、読み直す。
ポイント制。投げ技のポイント。タックルのポイント。場外のルール。反則の定義。
「…………」
データ分析の前に、まずドメイン知識が必要だ。
前世でも同じだった。金融のデータ分析をするには金融の知識が要る。医療のデータ分析をするには医療の知識が要る。
スポーツの勝敗予測をするには——スポーツの知識が要る。
「……前世、スポーツの分析やったことない」
AIとして生きていた前世。データ分析が得意だったが、対象はもっぱら数値データだった。
人間の身体を使った競技の分析は——未知の領域だ。
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「先輩ーー!」
フォルトゥナが駆け込んできた。
「先輩! レスリング、すごいですよ! 見てください、この戦士の運命——」
「ちょっと待って。ルール覚えてる最中」
「あ、すみません! あ、でも私、レスリング好きなんです!」
「え、そうなの」
「運命の女神って、スポーツの分岐点を見るのが仕事なので、ルールは全部覚えてます!」
「全競技?」
「全競技です! 教えましょうか!」
「……お願いします」
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フォルトゥナ先生のスポーツ講座が始まった。
これが——意外とわかりやすい。
「レスリングはですね、体重差が重要です。でも技術で体重差を覆せます。特に足の運びがポイントです」
「足の運び」
「レスラーの足の動きを見れば、攻撃のタイミングがわかります。右足が前に出たら攻め、左足が引いたら守り——」
「それ、データに残ってる?」
「残ってないです! 見ないとわからないです!」
「……つまりリアルタイム観察が必要」
「はい!」
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新しい課題だ。
これまでの分析は、ヘルメスの巻物——つまり事前データに基づいていた。
しかしスポーツでは、試合中のリアルタイム変動も勝敗に影響する。
リアルタイムデータの分析。
前世で言えば——ストリーミングデータの処理。
BigQueryならリアルタイムデータを……いや、BigQueryはない。
「……スクリイで試合を見ながら、リアルタイムで判断する必要がある」
「そうね」とアテナ。「スポーツの微笑みは、試合展開を見ながらタイミングを測るの。事前分析だけでは足りないわ」
「今までの戦争は、開戦前にだいたい予測できたのに」
「戦争は規模が大きいからパターンが安定する。スポーツは個人の短期変動が大きい。似て非なる分析よ」
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スクリイの前に座り、過去のレスリング試合を再生してもらった。
池の水面に、古代の闘技場が映る。
二人のレスラーが組み合っている。
——フォルトゥナの言う通りだ。足の動きが、攻守の切り替えを示している。
「……あ。右足が——攻めに入る」
右足が前に出た瞬間——タックルが決まった。
「すごい! 先輩、見えるようになってきてます!」
「まだまだだけど——パターンは見えてきた」
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今日の対戦。
レスリング。
事前分析+リアルタイム観察。
事前データではA側有利(体格差と過去の戦績)。
しかし試合が始まると——B側の足の運びが速い。フォルトゥナの言う「足の運び」パターンでは、B側が攻めの態勢だ。
事前分析と試合展開が食い違っている。
「…………どっちを信じる?」
データか、目の前の現実か。
——両方だ。
事前データのA側有利は、静的な分析。
リアルタイムのB側有利は、動的な分析。
動的な変化が静的なデータを上書きしつつある。
「…………B側に切り替え。勝率——53%」
微妙。でも——リアルタイムの流れを信じる。
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結果。
B側が勝った。
「的中。リアルタイム修正での的中は、あなたが初めてよ」
アテナが珍しく目を見開いた。
「事前予測を試合中に更新するのは——ベイズ更新に似てるわね」
「アテナ先輩、それ知ってるんですか」
「知恵の女神をなめないでと言ったでしょう」
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第11話 完
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