嘘つきの代償
心臓が耳元で大きな音を立てている。
自分がこれほど無様に、そして、これほど必死に走れる男だとは知らなかった。
肺が焼ける。喉の奥で血の味がする。冷静さをどこかへ投げ捨て、自分はただ、本能が記憶している「出口」への道筋を猛烈な勢いで逆行した。
あの壁。あの、物理的にあり得ない絶望の壁。
あそこに彼女が入っていったという事実は、もはや自身の正気が耐えられる限界を超えていた。あれは人間ではない。この屋敷そのものが、巨大な胃袋。
だが、階段を駆け下り、広間へと繋がる最後の扉へ手をかけた瞬間、思考は真っ白に染まった。
「…………!?」
そこに、扉はなかった。
さっきまで確かに存在していたはずの、一階へと続く通路が、精緻な石積みの壁に変わっている。
目の前の出来事が信じられず、壁に体当たりをした。肩に激痛が走り、骨の軋む音が聞こえたが、壁は微動だにしない。
「ド、ドアが無くなってるだと……!? クソッ! 開け! 開けろ!」
狂ったように壁を蹴り、殴った。篭手やブーツの表面が剥がれ、手足に血が滲む感覚。冷たい石の表面に赤い筋を引く。
その時だった。
背後の闇から、氷の塊を滑らせるような声が響いた。
「優しい人だと思ったのに」
振り返ると、そこに彼女が立っていた。
先ほどまでの無垢な微笑みは、もはや影も形もない。その瞳は濁った泥のようでありながら、底から冷酷な愉悦が覗いている。
「あなたも、ただの嘘つきだったなんて……許さない」
その叫びは、一人の女性が発する声量を遥かに超えていた。屋根裏の梁が震え、天井から埃が雪のように降り注ぐ。
「まっ、ま、待ってくれ……! 話を聞いてくれ!」
腰を抜かし、尻餅をついたまま後ずさった。
彼女は一歩、また一歩と、宙に浮いているかのような不自然な足取りで近づいてくる。
「『離れるな』って言ったじゃない。一緒にいてくれるって……ずっと側にいてくれるって、そう思っていたのに!」
彼女の口が、裂けるように大きく開く。そこから溢れ出したのは、もはや言葉ではなく、呪詛の塊だった。
「嘘つき、嘘つき、嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき!!!!」
その声は、屋敷中の壁から、床から、天井から、何百、何千という怨嗟となって反響し、自分の脳髄を直接かき回した。
逃げ場はない。四方の壁が、徐々に内側へ迫ってきているような錯覚に陥る。
「嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき嘘つき……!!」
耳を塞いでも無駄だった。その音は自身の罪悪感と恐怖に直接杭を打ち込まれるようだった。
鞘から剣を抜こうとした。だが、自分の手が、まるで石化したかのように動かない。見ると、手首から先が、いつの間にか壁と同じ灰色の石へと変貌し始めていた。
「やめろ……まだ、やり残したことがっ――」
叫びは、途中で異質な音に変わった。
身体が、屋敷の一部として、壁の中に、床の中に、吸い込まれていく。
視界が暗転する直前、彼女が私の目の前にしゃがみ込み、今までで一番美しい、慈愛に満ちた笑顔を浮かべたのが見えた。
「ずっと一緒ね♪」
「あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!」
………………
カラン……。
静寂の中で、乾いた音が響く。
それは、床の上に転がった、誰の物ともしれぬ古い銀貨か、あるいは剣の破片のような音か。
「ンフフ♪」
女性の弾むような声が、二度と開くことのない屋根裏へと消えていった。
アテリアの荒廃した路地。
二人の兵士が、不吉な噂が絶えない郊外の廃屋を遠巻きに眺めていた。
「おい、見たか? またあの屋敷に、一人で入っていく物好きがいたぞ。鎧を着た、傭兵のようだったが」
「またなのか? まったく、命知らずな奴だ。あの屋敷には誰もいないし、金目の物も何もないのにな。あそこに入って戻ってきた奴は、一人もいないっていうのに」
兵士の一人が、気味悪そうに肩をすくめて背を向けた。
屋敷の窓から、一人の女性が、新しい「思い出」を愛おしむように、外の世界を見つめていることにも気づかずに。
陽光は届かず、アテリアの空には、今日もただ灰色の煙が淀んでいる。




