扉
屋根裏の空気は、階下とは比べものにならないほど濃密な死の色を帯びていた。
天井を支える梁は、苦悶に歪んだ巨人の背骨のように張り巡らされ、足元の板は一歩ごとに沈み込む。灯火の光が、まるでこの場所の闇に窒息させられようとしているかのように、弱々しく爆ぜた。
「おい、待ってくれ……早い……」
自分の足音がまるで他人のもののように遠く聞こえる錯覚に陥っていた。
全身を襲う倦怠感は、もはや疲労という言葉では片付けられない。肺の奥が焼けるように熱く、心臓は狂った時計のように不規則なリズムを刻んでいる。
「なあ、君と違って……この屋敷に詳しくないんだ。はぁ……はぁ……」
思うように言葉が出ない。さっきからずっと同じ事を尋ねているような気がする。
そして情けないほどに息が切れる。
先ほどの、ならず者との一戦。あの時、自分は確かに「掃除をした」と思っていた。だが、今になって背筋を伝う寒気は、あの男たちが死の間際に見せた「恐怖」の意味を問いかけてくる。彼らは私を恐れていたのか。それとも、この屋敷そのものに、あるいは自身の背後に立つこの女性に、震えていたのではないか。
「ねー、早く来てー♪」
暗闇の奥、声だけが先行する。
彼女の足音は、もはや聞こえない。ただ、衣擦れの音と、空気を震わせる残響だけが、こちらを奥へと引き摺り込んでいくかのよう。
「あんまり……声出すなよ……。残党が……い……」
もう思考が浮かばなくなってきていた。
忠告を口にしようとしたが、喉が固まって音にならない。
闇に目が慣れてくるにつれ、周囲の異常が露わになってきた。
壁には、無数の「何か」が掛けられている。それは古びた衣服のようでもあり、あるいは干からびた皮のようでもあった。それらが、屋根裏を吹き抜けるはずのない風に揺れ、カサカサと乾いた音を立てている。
「おい、どこだ? 大丈夫か? なー、おい……」
自分の声が、どこまでも続く虚無に吸い込まれていく。
彼女の返事はない。
ただ、不意に視界の端で、白い影が踊った。
………………。
………………。
「どうしたの?」
「はっ!?」
彼女が突然目の前に現れる。心臓が口から飛び出すほど驚いた。
いつの間にかこちらの背後に、あるいは横に、もう方向すらも分からない。彼女はこちらの鼻先で、無邪気に顔を覗き込ませていた。
「大丈夫よ♪」
彼女の声が、鼓膜に直接流し込まれたような錯覚を覚える。
反射的に剣の柄を握りしめたが、その手は自身の重さに耐えかねるように震えていた。もはや剣を抜く気力さえ、この空間に吸い取られている。
「まったく……斬りかけたぞ。安全じゃないんだから……離れるなよ」
おかしい。
このやり取りは、さっきもしたはず……。
いや、気のせいなのか……。
彼女は、こちらの言葉を噛みしめるように、ゆっくりと口角を吊り上げた。
「ええ……。もう、あなたから離れないわ♪」
彼女の瞳の中に、揺らめく灯火の光が映る。だが、その瞳自体には何の感情の反射もない。ただ、底知れない黒い淵がそこにあるだけだった。
「さぁ、こっちにあるの♪ 来て!」
彼女が差し出した手に、自分の意思とは無関係に指が絡む。
彼女に引かれるまま、自分は屋根裏の最奥、突き当たりにある一つの重厚なドアの前へ辿り着いた。
周囲の空気は、ここで完全に凍りついたかのように動かない。
「ここよ。この中に……」
彼女は慈しむように、ドアのノブに手をかけた。
ガチャリ……。
静寂を裂く硬質な音が響く。
彼女は先に、その開かれた口の中へと吸い込まれるように入っていった。
「まだドアがるのか。どれだけ広っ――」
自分は毒づきながらも、なぜか彼女の後を追って足を踏み出してしまった。
一歩。また一歩。
自分の身体が、ドアの敷居を越える。
だが。
「…………!?」
視界が一瞬にして理解を拒絶した。
開かれたドアの先に広がっているはずの「部屋」が、どこにもなかった。
そこにあるのは、隙間なく敷き詰められた石材の、冷徹な「壁」だった。
一歩、足を踏み出せば、その先は壁に激突するだけの、数センチの隙間すらない壁。
先ほど入っていったはずの、彼女の姿もどこにもない。
彼女は壁の中にどうやって……。それとも最初から――。
コツコツ。
自分は信じられない思いで、その壁を指の関節で軽く叩いた。
鈍く、重い、紛れもない岩石の音が返ってくる。
………………。
脳が急速に凍りついていく。
背中を冷たい汗が流れ落ち、指先の感覚が消えていく。
早く、帰らなければ。
自分は、ようやく掠れた声で自分に言い聞かせた。
もはや、報酬も、騎士道も、彼女の微笑みも、すべてがどうでもよかった。
ただ、この屋敷から、この闇から逃げ出さなければならない。ただ、ただ、そう感じた。
振り返り、走り、元来た道へと向かう。




