屋根裏の誘い
彼女の背中を追って廊下を進むほどに、屋敷の空気は密度を増していった。
窓はすべて蔦に覆われ、外光は一切届かない。魔法の灯火手も、この屋敷が吸い込んできた数十年分の闇を照らし出すにはあまりに無力だった。
「ねぇ、こっちよ~♪」
廊下の先から、彼女の弾んだ声が響く。
おかしい。彼女との距離が、先ほどから一向に縮まらない。
自分の脚力なら、数歩で追いつけるはずの背中が、手を伸ばせば届きそうな距離にあるようでいて、霧のように遠ざかっていく。
「おい、待ってくれ……。早すぎる。君と違って、この屋敷に詳しくないんだ」
口を開くと、自分の声が異様に掠れていることに気づいた。
喉が、砂を飲み込んだように乾いている。
心臓が肋骨を内側から叩き、額からは嫌な汗が吹き出した。さっきの賊との立ち回りは、息が切れるような激闘ではなかったはずだ。なのに、今の自分はまるで重い甲冑を纏ったまま、泥沼を何マイルも走らされたような疲労感に襲われていた。
「はぁ……はぁ……。さっきの戦闘のせいか……。それとも、この場所が……」
濁った空気のせいだろうか。肺に流れ込む空気が、酷く冷たく、重い。
一歩踏み出すたびに、軍靴が床に張り付くような感覚がある。
「ねー、早く来てー♪」
彼女は廊下の突き当たり、壁際にしつらえられた細い階段の前で立ち止まり、こちらを振り返った。
暗がりの中でも、彼女の白い肌だけが発光しているかのように浮き立って見える。その微笑みは、出会った時と変わらず無垢で美しいはずなのに、今の私には、獲物を待ち受ける蜘蛛のようにも見えた。
「……あんまり、大きな声を出すな。残党がいるかもしれな――」
注意しようとして、私は言葉を失った。
彼女が立っているのは、埃に埋もれた、屋根裏へと続く隠し階段のような場所だった。
「……屋根裏なんてあったのか? まずいぞ……ここは潜むのに最適な場所だ」
焦りを感じた。
戦場において、死角の空間を制していないことは死を意味する。この屋敷を「掃除」したつもりでいたが、この真上にある広大な空間を、完全に見落としていた。
「おい、あぁ……名は……」
呼ぼうとしても、彼女の名前すら聞いていなかった。
階段の下で立ち止まり、上を見上げた。
彼女は既に、闇に包まれた階段の先へと消えていた。返事はない。
「大丈夫か? おい?」
自身の呼び声は、厚い埃のカーテンに吸い込まれ、こだますることさえなかった。
ただ、頭上の板張りの隙間から、何かが這いずるような、微かな音が聞こえる。
カサ……カサ……、と。
ネズミの音か、それとも。
無理やり脚を動かし、一段、階段に足をかけた。
その瞬間、世界がぐらりと揺れたような気がした。
全身の血が足元へ引きずり込まれるような、猛烈なめまいに襲われる。
「くそっ……どうしたっていうんだ……。毒でもあるのか……」
視界が狭まっていく。
階段の上から、再び鈴を転がすような笑い声が聞こえた。
それはもう、「人」の声には聞こえなかった。
………………。
………………。
真っ暗な闇の中で、自分はどれだけの時間、立ち尽くしていたのだろうか。
音も、光も、自分の呼吸音さえも遠のいていく感覚。
ふいに、鼻先をかすめるような冷たい気配がした。
「わっ!」
「あっ!? びっくりした……」
目の前に、彼女の顔があった。
いつの間に下りてきたのか、彼女はこちらの胸元に顔を寄せて、楽しそうにこちらを見上げている。
「あ……危ないだろう……。斬りかけたぞ……」
自分は本能的に抜こうとした剣の柄を握りしめ、震える声で言った。
心が警鐘を鳴らしている。逃げろ、と。だが、膝の力が抜け、思うように動けない。
「大丈夫よ♪」
彼女は私の腕を優しく、だが逃げ場を塞ぐように強く掴んだ。その力は、先ほどの「女性」のものとは思えないほど、強固な万力のように感じられた。
「安全じゃないんだから……離れるなよ」
虚勢だった。自分に言い聞かせるための、最後の防衛本能。
彼女は、私のその言葉を待っていたかのように、深く、美しく微笑んだ。
「ええ……。もう、あなたから離れないわ♪」
その言葉が、自身の耳朶を冷たく撫でる。
彼女の指先が、こちらの鎧の隙間を這う。
「さぁ、こっちにあるの♪ 来て!」
彼女に引かれるまま、ついに屋根裏の闇へと、最後の一段を踏み越えた。




