思い出の屋敷
角の待ち伏せ、射手の奇襲を警戒しながら屋敷へ入ると、内部は埃が舞い、カビと鉄錆が混ざり合った死臭に近い匂いが鼻を突いてきた。外の戦火の煙よりも、もっと古い、堆積した時間の匂い。
一歩、足を踏み出すと。
磨り減った軍靴が床板を鳴らす。ギィィ……と、まるで屋敷そのものが苦悶の声を上げているかのような音が、静まり返った広間に響き渡る。
床板踏み込むごとに、腐った獣の骨のように軋む。
屋敷の内部は、外観から想像するよりもずっと深く、暗い。入り口の蔦は賊によって無造作に引き千切られていたが、その傷跡から溢れ出した樹液が、まるで黒い血のように床に滴っていた。
「誰だ、貴様」
奥の吹き抜けから、野太い声が降ってきた。
二階の欄干から、汚れた毛皮を纏った男が身を乗り出している。手には略奪品であろう、歪んだ曲刀が握られていた。階下の食堂らしき部屋からも、さらに二人、三人と、酒の臭いを撒き散らしながら、薄汚れた連中が這い出してきた。
「衛兵の犬か? それとも、死に場所を探しに来た死に損ないか?」
男たちが下卑た笑い声を上げる。奴らは知らないようだ。戦場において、最も恐れるべきは、雄叫びを上げる若兵ではなく、沈黙を守り、淡々と命を刈り取ることを覚えた生き残りだということを。
「……掃除をしに来た。それだけだ。大人しく出ていくのなら、それを歓迎する。どうする?」
低く告げ、剣を構えた。
正義のためではない。ただ、あの女性の、どこか浮世離れした微笑みに報いるためだけの、無機質な義務感だけだった。
「殺っちまえ!」
先頭の男が、獣のような咆哮と共に突っ込んできた。
自分は動かない。男が剣を振り下ろす刹那、わずかに半身をずらし、その勢いを利用して剣の柄頭で顎を打ち抜いた。骨が砕ける感触が、掌を伝って脳に届く。戦場で何度も味わってきた、穢れた感覚だ
悶絶する男の喉首を、返す刀で断ち切った。
鮮血が、色褪せた絨毯に新しい模様を描く。
「……!?」
仲間の死に、ならず者たちの動きが止まる。その一瞬の空白が、奴らの命の期限だった。
自分は隙を許さず踏み込んだ。
廊下で火花が散る。自分は余計な言葉を発さず、ただ最短の軌道で鋼を振るい続けた。一人の腕を切り落とし、もう一人の胸を貫く。剣が骨に当たる振動。肉を裂く抵抗。それらは自身にとって、呼吸と同じくらい慣れ親しんだ日常の断片に過ぎなかった。
最後の一人が、階段の途中で腰を抜かした。
「ま、待て! 助けてくれ! 俺たちはただ、雨風を凌げる場所を――」
その言葉を最後まで聞くことはなかった。命乞いは戦場において、最も聞き飽きた言葉だったからだ。
喉元をひと突きし、男は音もなく崩れ落ち、階段を転がり落ちていった。
静寂が、再び古びた屋敷を支配した。
荒くなった呼吸を整え、剣についた血を、男の服の端で拭った。
ふと、違和感を覚えた。
これだけの騒ぎだ。悲鳴も怒号も、屋外にいた彼女には聞こえていたはずだ。だが、外からは何の気配も伝わってこない。
それだけではない。
倒した男たちの死体を見下ろして、少し眉をひそめた。
彼女は「ならず者」と言ったが、その装備はあまりにも貧弱だった。まるで、戦争に怯え、この屋敷の隅に身を寄せていただけのような気がした……。
返り血を拭い、玄関の扉を振り返った。
そこには、いつの間にか彼女が立っていた。
指示を無視して、音もなく、入ってきていたのだ。
いつの間に中へ入ったのか。
彼女が、血溜まりのすぐそばに立っていた。白い衣の裾が、男の流した赤に染まりそうなほど近くに。
「おいおい……。危ないから向こうで待っていろと言っただろう。ここはまだ安全じゃない」
驚きを隠せず、少し語気を強めてしまった。
荒くなった呼吸を鎮め、剣を鞘に納めながら告げた。彼女の無防備さが、自身の苛立ちを誘う。
彼女は、こちらの返り血に濡れた鎧や、床に転がる死体を見ても、眉一つ動かさなかった。ただ、大きく綺麗な瞳をさらに見開き、屋敷の奥をじっと見つめている。
「ごめんなさい……。でも、中がどうしても気になって……」
その声は、震えているようにも、あるいは歓喜に打ち震えているようにも聞こえた。
自分は吐息をつき、剣を鞘に収めた。戦いの高揚感が引き、代わりに重い疲労が全身に絡みつく。
「はぁ……。まあいい。もう終わった。賊は一先ず、片付けた。これで君の『思い出』は守られたわけだ」
「本当!?」
彼女は、まるで幼子のように無邪気な声を上げ、パッと表情を明るくした。その微笑みは、先ほどの凄惨な殺し合いが嘘であったかのように、こちらの毒を抜いていく。
彼女は、胸の前で手を組み、こちらを眩しそうに見つめた。
「お金は持っていないけれど……。お礼に、何かお金になるものをあげるわ。ちょっと待ってて、奥に隠してあるの」
彼女はそう言うと、死体の横を軽やかな足取りで通り抜け、屋敷の奥へと進もうとする。
「おい、一人で行くな。危ないと言っているだろう」
「でも、片付けたって言ったじゃない」
彼女は弾むような足取りで、こちらの制止を振り切り奥へと進んでいく。
重い足取りで彼女を追った。万が一、残党が隠れていたら、彼女の細い首など一捻りで折られてしまうだろう。
「……万が一ということもある。確認しきれていない部屋もあるんだ。待て!」
「ンフフ♪」
自分の中にある警戒心が、彼女の無垢な振る舞いによって少しずつ削り取られていくのを感じていた。
この戦乱の時代、誰もが他人を疑い、刃を向ける中で、これほどまで自分を信頼し、好きだと言わんばかりの瞳を向けてくる存在が、どれほど貴重か。
「一緒に行ってやる」
「有難う♪ あなたって、本当に親切なのね。あなたのこと、好きになりそうだわ♥」
心臓の奥が、熱くなるのを感じた。
女性に、しかもこんな美しい「貴族」の女性に、そんな言葉をかけられることなど、自分の人生には無縁だと思っていた。
自分は照れ隠しに、わざとらしく鼻を鳴らした。
「いやぁ〜、力になるのなら、最後まで」
口元が緩む。
はっ、と我に返り、表情を引き締める。
んっ、んっ、と咳払いをし、彼女を促す。
「……さあ、行こう。早く用を済ませて、こんな陰気な場所からはおさらばだ」
「ええ♪」
彼女は弾むような足取りで、暗い廊下の先へ、こちらの手を引くようにして進んでいった。
廊下の壁に掛かった古びた肖像画が、剥がれ落ちた絵の具の隙間から、自分たちを嘲笑うように見つめている気がした。
屋敷の奥へと足を踏み入れていく。
彼女の軽やかな声は、まるで奈落の底にいた自分の心を温かく感じさせてくれる、美しい鈴の音のようだった。




