死臭の街
アテリアの空は、いつからこの色だっただろうか。
雲は低く垂れ込め、燃え落ちた神殿の灰と、絶え間ない戦火の煙が混ざり合い、陽光を無残に遮っている。石畳の隙間には黒ずんだ血がこびりつき、雨が降るたびに鉄の匂いが立ち上る。
この街で呼吸をするということは、誰かの死を吸い込むことと同義だった。
「……すん、……すん」
瓦礫の影から、場違いなほどに澄んだ音が聞こえた。
思わず足を止めた。腰の剣が鞘の中で鈍く鳴る。飢えた犬か、あるいは死を待つ老人の末期か。そう思ったが、そこにいたのは一人の女性だった。
汚れにまみれた白い衣をまとい、崩れた石柱に座り込んで肩を震わせている。その周囲だけが、この腐り果てた街の中で切り取られた聖域のように、異様な静寂に包まれていた。
「……どうしました、お嬢さん?」
自分でも驚くほど、声が枯れていた。慈悲などという高尚なものは、とっくに戦場に捨ててきたはずだった。
女性が顔を上げた。
その瞳に宿る輝きは、泥にまみれたこの街にはあまりにも毒が強すぎた。彼女は濡れた睫毛を震わせ、唇を噛みしめる。
「……私、こう見えても貴族よ」
拒絶に近い、硬い声だった。
貴族。その言葉が、この絶望的な状況下では滑稽に響いた。だが、彼女の瞳の奥にある「何か」に、一瞬だけ気圧された。それは知性というよりは、もっと根源的な、古い闇のような深みだった。
「……ああ、すみません。その……レディ。それで、一体何があったんです?」
謝罪し、努めて平坦な声を出した。
彼女はきょろきょろと、落ち着きなく辺りを見渡した。路地の向こうでは、飢えた民衆が配給の列をなし、死に体の兵士が通り過ぎる。誰もが自分の命を維持することに汲々とし、自分の目の前にいる女性の絶望など、道端の小石ほどにも気にかけていない。
「誰も……私を助けてくれなくて……」
その呟きは、重い鉛のように自分の胸に沈んだ。
『助ける』この街でその言葉は、最も忌むべき禁句に近いものだった。
「それはそうだ。誰もが金にしか興味がない。銀貨一枚で人の命が売り買いされ、神殿の供え物さえ兵士の胃袋に消える時代。他人を顧みる余裕など、この街には、どこにも残っていない」
自分が吐き捨てるように告げると、女性はこちらの顔をじっと見つめてきた。
その視線は、こちらの善意の真意を見定めているかのようだった。
「……あなたは、私を助けてくれるの?」
心臓が、嫌な脈打ち方をした。
自分の手を眺める。剣を握りすぎてタコができ、返り血で幾度も汚れた、無骨な人殺しの手だった。
「ああ、構いませんよ。自分は……軍馬のような華々しさはないですが、泥の中を這いずり回る仕事ならお手の物。戦場での雑用から、死体の片付けまで」
自嘲気味に答えると、彼女の口元が、わずかに、本当にわずかに綻んだ。
「じゃあ、一緒に来て♪」
彼女は立ち上がり、こちらの外套の端を掴んだ。その指先は氷のように冷たかった。無理もない。暫く、ここで独り、泣き続けていたのだろう。
歩き出した彼女の背中は小さく、心もとない。彼女が通る道筋、人混みが割れ、どこか悲しげに思えた。人々が彼女を避けているのか、それとも関わりを恐れているのか。或いは、いつものように、鎧を纏った自分を恐れているのか。
辿り着いたのは、街の最果て、郊外に建つ古い屋敷だった。
そこは、かつての栄華の残骸だった。
「……ここが、あなたの家、なのか?」
屋敷を見上げた。
広大な屋敷は、もはや巨大な墓標にしか見えなかった。蔦が血管のように壁を這い、窓は抉り取られた眼球のように虚無を晒している。庭には雑草が猛り、風が吹くたびに屋敷全体が呻き声を上げているようだった。戦争の影響か。貴族でも例外のない光景は、自分にとって、珍しい事でもなかった。
「ここはね……私の大切な思い出が、沢山ある場所なの」
彼女の声は、どこか遠い場所から響いているように聞こえた。
思い出。その美しい言葉が、この腐敗した廃屋には、あまりにも不釣り合いだった。しかし、他者が想像できないような、大切な思い出の詰まった場所なのだろう。
「今は、ならず者たちが住み着いているの……。衛兵に言ったけれど、誰も聞いてくれなくて……。彼らは、私のことなんて……」
「今は戦争中だ。衛兵達は前線へ送られるのを恐れ、街の中で保身に走っている。金をちらつかせでもしない限り、彼らが重い腰を上げることはないだろう。正義など、腹の足しにならないからな」
自分の言葉に、彼女は深く、深く俯いた。
その姿に、かつての自分を見たのかもしれない。何かに縋り、裏切られ、最後には何も残らなかった自分を。
「……大丈夫だ。ならず者など、掃除してやる」
剣を抜く。
鋼が擦れる音が、静まり返った屋敷の庭に鋭く響く。
「ありがとう。あなたって、本当に優しいのね」
彼女は微笑んだ。
その微笑みが、自身の喉元に刃を突きつけられたような、奇妙な温かみを連れてきた。随分と忘れていた、そんな感覚だった。
「ここで待っていてくれ、万が一の時は、逃げるんだ」
そう彼女に告げ、屋敷のドアへと進んだ。
窓から中を確認したかったが、深い蔦に覆われ、無理そうだった。
自分は屋敷の扉へ手をかけた。賊が入り口の蔦を取り払っていた。
錆びついた蝶番が悲鳴を上げ、開いた隙間から、澱んだ空気と、不吉なほど濃い埃が溢れ出してきた。




