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五.芝蘭(しらん)の友

 出産の苦しみが嘘のように、娘は育て易い子どもだった。経験豊富な乳母が目を丸くするほど、よく眠り、ほどほどに乳を飲み、起きている時には機嫌よく視線を巡らせ周囲を観察していた。


「どれだけ夜泣きをされても対応してみせると、張り切って参りましたのに。本当に昭瑶(しょうよう)様は、母妃思いのお子ですね」


 その日もすやすやと昼寝をする娘に、乳母が眉を下げて笑った。

 娘の名前は蕙蘭(けいらん)が付けた。

 皇族の女児であることを示す『昭』の字に、宝玉のように光り輝く将来が待っていることを願って、『瑶』の字を重ねた。

 乳母が優しい目で娘を見下ろすのを、蕙蘭は暖かい気持ちで見守っていた。

 食事をとるようになってからも、娘は好き嫌いなくよく食べた。歩き出すのは遅かったが、蕙蘭が枕元で物語を読み聞かせると、昭瑶はいつもきゃらきゃらと上機嫌に笑っていた。

 娘を中心とした、数少ない側仕えたちとの静かな生活。

 母の気質を受け継いだのか、娘も言葉を発し始めた頃から、早くも書物に興味を示し始めた。蕙蘭が広げた書物を、その膝に這い上がった昭瑶が無邪気に指差す。


「かあたま、これは、なあに?」

「これはね……」


 舌足らずな口調で一生懸命に尋ねてくる娘に、蕙蘭も落ち着いた声で解説をする。

 いつか昭瑶が嫁ぐまで、こうして二人、穏やかに書物を読みながら暮らすのだろうと、蕙蘭は淡く思い描いていた。






(はず、だったんだけどなぁ……)







 昭瑶(しょうよう)が五歳になった頃、先帝の急な崩御を受け、夫である冽然(れつぜん)が玉座に登った。

 皇太子妃の(ちょう)氏は皇后に、寵愛を受ける側妃の(おう)氏は、上級妃の最上位である雅妃(がひ)に。そして蕙蘭は、中級妃の最下位である貞花(ていか)に任じられた。

 その他にも新たに迎えられた女性たちが、それぞれの家格や本人の評価に応じて、各々に相応しい位に封じられた。後宮の人数は、月を経るごとに増えていく。

 正妃と側妃二人の三人であった時は、上手く距離感を保っていたように思う。皇太子妃の趙妃は公平で大らかな性質であるし、寵妃の王妃も立場をよく弁え、当たり障りのない対応をしていた。身分の高くない蕙蘭は二人に礼節を尽くし、万事控え目に過ごした。単純に興味が娘と書物にしか向いていないのもあったが。

 だが、妃の数が増えると、当然気の強い者も混じってくる。衣の意匠が被っただの、利用しようと思っていた庭園を先に使われただの、下らない理由であちこちで衝突が始まった。皇后の趙妃はそれでも良く後宮を治めていたが、後宮に居を移して一年余りが経った今、陰でしょっちゅう蕙蘭に泣き言を漏らす文を送ってきた。


(……なぜ私?)


 その日は趙皇后の殿舎で、彼女が用意してくれたとびっきりの名酒を飲み交わしながら、蕙蘭は延々(くだ)を巻かれていた。


「――ちょっとお。聞いてるの? (しん)妃」

「はいはい。媛花(えんか)様がどうなさいました?」

「今は、睿妃(えいひ)の話をしていたのよぉ!」

「……それは失礼」


 媛花は中級妃の第三位、睿妃は上級妃の最下位にあたる。二人とも溌溂とした美貌を誇る名家の令嬢で、跳ねっ返りの急先鋒。平気で皇后陛下に反発し、王妃の寵妃の座を奪い取ろうと画策する、野心溢れる姫君たちだ。

 部屋に女官の姿はなく、隣室で昭瑶が侍女に本を読んでもらっている声が微かに聞こえる。程々に酒の入った蕙蘭は、隣でぐずぐずと鼻をすする趙妃に尋ねた。


「――あの、皇后様。なぜ私なのでしょう?」

「……迷惑なの?」

「いえ。でも私、気の利いたことなど一切言えませんよ?」


 きっぱりと断言する蕙蘭に、趙妃は苦笑して見せた。


「だから良いのよ。気を使わないで居てくれるから、私も気楽なの」

「はあ……」


 気の抜けた返事をする蕙蘭に、趙皇后はふと眉を曇らせる。


「──ごめんね、普段は見て見ぬふりをしてしまうのに……」

「気にしてません」


 昭瑶を身ごもって以降、一度も夫に召されていない蕙蘭は、後宮でも浮いた存在だった。冷遇される彼女を嘲笑する新参の妃や女官も多い。あまりに行き過ぎた増長は、趙妃が容赦なく叱責してくれているが、皇帝の子を成育する場である後宮で伽に呼ばれない蕙蘭を、表立っては擁護出来ないようだ。

 それは仕方のないことだと、蕙蘭も理解している。

 そんなことより、ようやく立ち入りを認められた典部(てんぶ)の大書庫の稀覯本を、娘と読み漁るのに忙しかった。

 夫の即位と共に入宮した、隣の殿舎に住まう(さい)貞容(ていよう)は、似たような家格の出身であるためか、蕙蘭を親しく茶に誘ってくれる。笑顔が素朴な心優しい彼女に、昭瑶も大変懐いており、崔妃も娘を可愛がってくれている。三人で過ごす時間は、蕙蘭にとって何よりの宝物だ。眠ってしまった昭瑶を眺めながら、二人、とめどなくおしゃべりに興じる時間もまた。

 王雅妃は相変わらず、顔を合わせれば穏やかに会釈して通り過ぎてくれるし、趙皇后にいたってはこんな有り様だ。朝礼で浮かべているキリリとした凛々しい顔から、今の姿は想像し難い。

 ケロッとした顔で言い切る蕙蘭に、趙妃は瞳を潤ませながら、空になった杯に手酌で酒を注いだ。


「まったく、貴女という人は……」


 蕙蘭も燗を貰い、自分の杯に酒を注いで一息に呷った。


(与えられないものに拘っても、しょうがないもの)


 手にした大切なものを味わうのに、蕙蘭は忙しいのだ。

 飲み干した杯を軽やかに卓に置いた蕙蘭に、趙皇后は「そうそう」と表情を和らげる。


「陛下がまたお呼びよ。明日、時間を空けておけと」


 途端に蕙蘭は害虫でも見かけたような顔になる。


 最大の思惑外れは、これだ。


 蕙蘭は伽役には任じられない。呼ばれる宴や宮中行事も、中級妃以上が全員参加すべき規模のもののみ。贈り物など、昭瑶が生まれた際に気まぐれのように与えられた、高価な絹布や実用的な大量の綿布の一度きりしかない。内廷ですれ違っても目線すらも向けられず、この七年あまり、まるで蕙蘭と昭瑶は後宮に存在しないかのような扱いを受けていた。


 それなのに、夫は最近になって秘密裏に彼女を呼ぶようになった。

 求められるのは伽でなく、碁の相手だ。


 女性には一般的ではないその遊戯を、彼女は幼い頃から父の相手をしてきたため熟知している。腕もかなりのものだと自覚はあった。それをどこかで聞き付けたのか、冽然(れつぜん)は時間が空く度に、「気晴らしに付き合え」と皇后を通して蕙蘭を呼びつけるのだ。

 初回の対戦以降、毎回宦官に扮装させられているのは、こてんぱんに負かされた苦い経験の為だろう。難儀なことだが、女に負けたとは知られたくないのだと思う。

 しかし、彼女も自身の矜持にかけて、手を抜くことはしたくない。気は乗らないながら、勝負には全力で挑んだ。


 初めは面倒な配下にでも相対するような仏頂面と、ぎこちない言葉遣いをしていた皇帝は、回を重ねる毎に表情の変化を見せるようになった。今では、物珍しい玩具を与えられたような子どものようにすら見えることもある。負けたことに納得できず、唇を引き結び、じっとりとした目線で、時間の許す限り再戦を要求してくるのだ。

 禄に会話も交わさない、ただ勝負に興じるだけの無言の時間。

 その奇妙な時間に、蕙蘭は心底うんざりしていた。

 露骨に嫌そうな顔をした蕙蘭に、趙皇后はコロコロと声を立てて笑う。


「……そんな顔しないの」

「なら、皇后様が代わってくださいな」

「無理よ、私じゃ相手にならないもの。……精々励みなさい」


 蕙蘭の杯に酒を豪快に注ぎながら、趙皇后は微笑んで言った。








 翌日、朝儀を終えた皇帝に呼び出された蕙蘭(けいらん)は、不機嫌を隠さずに碁盤に向き合っていた。

 気が乗らない会合な上、昨日は深酒をしてしまって二日酔いなのだ。朝礼の際、いつもより(ちょう)皇后の白粉が濃かったのも、嘔気(おうき)で蒼白になった頬を隠すためだろう。蕙蘭もまるで(つち)で殴られているかのような頭痛に苛まれ、顔を盛大に(しか)めている。

 碁盤を睨みながら容赦なく石を進めた蕙蘭は、ドスの効いた声で言った。


「はい、勝負アリですね」

「……待て。なぜそうなる」

「陛下が下手を打ったからじゃないでしょうか」


 頬を引き攣らせた皇帝に、蕙蘭は間髪入れずに返した。眉を顰めた冽然が、納得がいかないとばかりに盤面を凝視している。

 その子どもじみた顔つきに、蕙蘭は溜め息を吐いて言った。


「──必要がないから、私を召さないんじゃなかったんですか?」

「うるさい。……もう一戦だ。勝つまでやめんぞ」

「いい加減にしてくださいよ」


 心底嫌そうに言った蕙蘭は、遠い目をして障子窓を眺めた。

 娘と二人きり、ひっそりと穏やかに生きていくつもりだった。

 書と友と、家族とも言える侍女たちと共に、後宮の片隅で生を終えるのだと。

 遥か雲の上の存在である夫とは、もう二度と言葉を交わすことはないと思っていた。

 愛情など、互いにないことは知っている。八年近くも没交渉だったのだ。今更それを望むつもりも、その事実を悲しむ気持ちもない。

 ただ、最近になって二人の間に横たわり始めたものがあるのだとすれば、それは大変不本意ながら――友情と呼ぶのが一番近いのだろう。


(こんなはずじゃなかったのになぁ……)


 肩を竦めながら、蕙蘭は眼前で腕を組み唸り声をあげている夫をじっと見詰めていた。



 彼が何を考えているのか、理解することは出来ない。夫とて、本心を明かすことはないだろう。初めて勝負に呼ばれた時こそ、警戒して夫の腹の中を探ることに神経を使ったが、ただただ勝負に熱中する相手に、謀略を疑うことが馬鹿らしくなった。

 それ以降、蕙蘭は減らず口を叩き続けながら、こうして呼び出しに応じている。


 こうして二人、ただ黙々と勝負を繰り広げる時間は、うんざりしつつも決して嫌なものではなかった。





 何だかんだ文句を言いつつも、蕙蘭は想像もしていなかったこの日常を愛している。


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