四.皇太子と皇太子の側妃
夜伽の準備は、馬鹿馬鹿しく思えるほどに手間がかかった。
正妃であれば、長々とした婚姻の儀式のあとに、皇太子が妻を訪ねて来るらしいが、側妃である蕙蘭はしょせん、世間で言うただの妾。自室に皇太子を迎えることは許されず、夜伽も専用の建物で行うしかない。
先ほど湯に浸かったばかりなのに、蕙蘭は再び湯に放り込まれ、身体の隅々まで磨き上げられた。
水滴を拭ったあとは、真っさらな白の夜着一枚で簡単に化粧を施される。風呂を出てからの過程は、皇帝や皇太子の夜伽を取り仕切る、敬事署所属の宦官たちの監視の元でだ。秘戯の間も彼らは傍に控え、記録をとる。
見知らぬ男に裸や下着姿を見られる羞恥のあまり、蕙蘭は激しく抵抗したが、「決まりです」と侍女にも宦官にも強い口調で言われ、しぶしぶ耐えた。
そのまま真新しい衾に包まれ、複数の宦官に衾ごと持ち上げられ運ばれる頃には、羞恥を通り越して滑稽さに笑い出してしまうほどだった。
皇太子の夜伽用だという、小ぶりな建物の一室で降ろされたあと、蕙蘭は平伏して待つように告げられた。蕙蘭を運んできた宦官たちは、不服げな彼女をひと睨みして、全員去っていく。
やけになった彼女は、指先ピンと美しく伸ばして手を付き、板張りの床に膝をついて待っていた。
しばらくすると、深く焚き染められた沈香のかおりを纏った衣擦れの音が響く。
蕙蘭はより一層深く頭を下げた。
「面を上げよ」
冷たい声が響き、蕙蘭は礼を述べて従った。顔を上げた先に、同世代であろう男性の顔がある。
蕙蘭はぱちくりと瞬きをした。
(……ああ、こんな顔だったのね)
五爪の龍が光沢のある銀糸で縫い取られた白い夜着に、程よく引き締まった身体を包んだその人が、蕙蘭の夫となった皇太子だ。
嫌味なほどに整った、怜悧さを感じさせる顔立ち。夜着から覗く、僅かに日焼けした健康的な肌色。髪と瞳は燭の炎を弾いて輝く、黒曜石のような色をしている。
美貌の皇太子はまじまじと自分を見つめる側妻に、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「私の顔に何かついているか、沈妃」
「いえ。そういえばこんな顔だったなぁと」
淡々と返答する蕙蘭の不躾さに、御簾越しに控えた夜伽の記録官がぎょっとする気配を感じた。蕙蘭からすれば、他人の閨事を記録する存在の方にこそぎょっとしてしまうのだが。
じっと皇太子の顔を見つめていると、彼は深く嘆息して、胡座の足に肘をついた。
「最初に告げておく。お前は、父皇の命で娶った妻だ。義理を果たすため、子を成すまでは定期的にお前を召し出そう」
「……はあ」
要領を得ず、生返事をする蕙蘭に、皇太子は苛立たしそうに鼻を鳴らした。
「不満か? だが、お前を重用したとて、私には何も利がない。私の妃には、必要な役割を果たしてもらうことだけを求めている。寵が必要な娘には寵を与えよう。――お前は、娶ることこそが目的だった。悪く思うな」
「いえ、全然」
あっさりと答えた蕙蘭は、首を傾げて問い掛ける。
「……ちなみにうちの父、何をやったんでしょうか? 側妃にしていただいた挙句、子まで成さないといけないなんて」
明け透けな蕙蘭に調子を崩されたのか、皇太子はふと瞬きをした。
だがすぐに表情を消し、彼は遠くを見る目をする。
「父皇は、内外廷の乱れを深く嘆いておられる。まずは宦官の不正の排除を――と意気込んでおられたが、お前の父がつけていた記録が証拠となり、汚職宦官が一掃されたそうだ」
(……あんの阿呆親父)
蕙蘭は露骨に表情を引き攣らせた。
父は皇帝の歓心を買おうだとか、青臭い正義感だとかで、そんなことをした訳ではないだろう。ただ単に、「自分たちの定めた法が正しく運用されてるかな」といった気軽な感覚で、観察していただけのはずだ。
険悪な雰囲気を滲ませた蕙蘭を、皇太子は若干不審そうに見やる。
蕙蘭は咳払いをして話を切り替えた。
「……そう言えば、先程の話は妃様方全員にされているのですか?」
「必要があればな。──何が言いたい」
眉間に皺を寄せる夫に、蕙蘭はケロリと言ってのけた。
「ただの興味です。殿下も面倒な方ですね」
夜伽を記録すべく背後に控えていた宦官が、ゲホゲホと盛大に噎せた。
背後を振り返った蕙蘭は、「大丈夫ですか?」と声を掛ける。皇太子は頬をひくつかせ、蕙蘭に告げた。
「……私に喧嘩を売っているのか?」
顔を前方に戻した蕙蘭は、両手を振って答えた。
「滅相もない。じゃあ私は、子を産めば、あとはあの殿舎で好きに過ごして良いのですか?」
「……そうだな」
やった、と拳を握り締めた蕙蘭を、皇太子と背後の宦官は、新種の生き物でも見るような生暖い目で見ている。
その視線には気付かず、蕙蘭は無駄に行儀よく頭を下げた。
「それでは殿下。ちゃっちゃと始めて、ちゃっちゃと終わらせましょうか」
こうして、礼王朝史上、最も色気も情緒もない伽の記録は残されたのだった。
皇太子は律儀に月に一度、蕙蘭に伽を命じた。
まるで何かの作業のように、彼は妻の身体を寝台に横たえ、彼女も夫を受け入れる。何の情もない行為の果て、それでも幸いなことに五度目の伽の後、蕙蘭は子を身ごもった。
医師の診断が確定されて以降は、皇太子からの召し出しはなくなった。
蕙蘭は体調の変化に戸惑いながらも、与えられた殿舎で侍女や宦官との会話を楽しんだり、持ち込んだ書物を読み耽って過ごしていた。
十月十日を経ての出産は、想像を絶する痛みを伴う難産だった。書物で読んである程度の覚悟はしていたつもりだが、現実は想像を遥かに超えた。
一昼夜の苦悶の末生まれたのは、小さな身体を精一杯に震わせながら、元気よく泣く女児だった。
皺だらけの顔を真っ赤にした娘を両腕に抱いた瞬間、蕙蘭の胸は鋭い矢に射られたような衝撃を受けた。
「この子が、私の、娘……」
呆然と呟き、蕙蘭は娘を見下ろした。
ようやく泣き止んだ我が子は、母の顔を見上げてきょとんとしている。娘を見つめる蕙蘭の目に、じわりと涙が浮かんだ。
(あたたかい……)
父母の体裁のためだけに、この世に生を受けた子を、ちゃんと育てられるのか不安だった。
だが、我が子の顔を初めて見た時に、そんなものは全て吹き飛んでいった。ふにゃふにゃと頼りない柔らかな身体が伝える熱、抱きしめると確かに感じる鼓動に、蕙蘭はくしゃくしゃに顔を歪めていた。
愛おしいというのは、こういう感情か。
何があってもこの子を守る。幸せにしてみせる。蕙蘭の胸に、自然とその決意が浮かんだ。
夫である皇太子の冽然は姿を見せなかったが、気にもならなかった。
内廷から乳母にと派遣されてきた新しい女官は、出産にも立ち会ってくれていた。逞しい体軀が、いかにも頼もしい女性だ。少し前に三人目の子を産んだというその女性は、蕙蘭から娘の身体を丁重な手付きで預かり、穏やかに微笑んだ。
「よく頑張られましたね、側妃様。まずは身体を休めて、回復に専念しましょう。その間、皇女様は私が責任を持ってお守りしますからね」
蕙蘭も微笑みを返して、そっと背中を寝台に預けた。




